大吟醸酒からふわっと立ち上がる甘い香り。ひと口飲むと、花や果物のような、ふくよかでいながら繊細な香りがいっぱいに広がります。米・米麹・水しか使っていない日本酒から、こんなにも素敵な香りが出るなんて不思議ですよね。

このような甘く華やかな香りを、きき酒の世界では「吟醸香」と総称しています。吟醸香を生み出す物質にはさまざまな種類があるのですが、そのひとつが「カプロン酸エチル(通称:カプエチ)」。そこで今回は、酵母がつくるこのカプエチについて、掘り下げていきましょう。

華やかな香りをつくる「清酒酵母」とは?

日本酒造りに使われる酵母(菌)には、たくさんの種類があります。しかし、自然界に存在する酵母がすべて酒造りに向いているわけではありません。ワインが得意な酵母、パン向きの酵母......なかには、人間にとってあまり役に立たない酵母もいるのです。

酒母の写真

数ある酵母のうち、アルコールをよく出し、かつアルコールに耐性がなければ、アルコール度数が15%を超えるような清酒は造れません。通常、菌のアルコール耐性はせいぜい5%程度。日本酒造りに使われる酵母は、そうとう"しぶとい"菌と言えます。

かつては、自然にいる酵母を酒母の中で育てることで日本酒を醸造していましたが、その中でも、きれいな酒や良い香りの酒を造れることがだんだんとわかってきました。これらは、清酒酵母として研究され、日本醸造協会が純粋培養した「きょうかい酵母」や各都道府県が独自に開発した酵母として、広く頒布されています。「きょうかい6号」や「うつくしま夢酵母」などの名前を聞いたことがある人もいるかもしれません。

きょうかい酵母や県開発の酵母を必ず使わなければならない決まりはないため、蔵独自に酵母を開発・培養している場合もあります。あるいは、出来の良かった醪(もろみ)から菌を拾って保管し、翌年以降に使用するという手法もあります。ただし、菌にも著作権や使用権があるので、勝手に培養したり譲渡したりできないものもあります。そのくらい、酒造りにとって菌が大事なんですね。

品評会の出品酒に多い"カプエチ"

それぞれの酵母が特徴的な香りを出すため、きき酒に慣れてくると「きょうかい〇〇号はこんな香り」「こんな香りがするからこの酒は◇◇酵母だ」などの推測が立てられるようになります。しかし、ひとつの酵母がひとつの香りしか出さないというわけではありません。いろいろな香りが混ざっている「複合香」という捉え方があるのです。

同じ酵母を使っても、米の品種や水質、造り方で香りの出現が変わるうえに、同じ酵母のなかにも細かい種類があるので、特定の米を使った酒造りに向くなど、さまざまな個性があります。

全国新酒鑑評会の金賞受賞酒

酵母のなかでも、カプエチをよく出してくれる酵母は純米大吟醸酒などの華やかな酒や、全国新酒鑑評会などの出品酒によく使用されます。カプエチは、リンゴを思わせる香りが特徴。大吟醸酒を飲むときに香りがパーッと広がって、幸せな気分になること、ありますよね。大吟醸酒の香りは、バナナ系とリンゴ系に大きく二分されますが、カプエチはその後者を指すことが多いでしょう。

カプエチを出す酵母がよく使われている背景として、香りの華やかなタイプが人気であることの他に、冷蔵設備などを使用することで、低温で長期的に発酵させる酒が増えてきたことや、米をたくさん磨くことできれいな香りを得ることができるようになってきたことが挙げられるでしょう。

カプエチの香りはその華やかさゆえに、他の香りをマスキングする効果もあります。ここ数年は、酢酸イソアミルや酢酸エチルなどの吟醸香がきれいに出ている酒が、全国新酒鑑評会などのさまざまな品評会で好成績を収めているうえに、酵母をブレンドすることによる香りの複雑化が市販酒でも見られるようになってきました。

カプロン酸エチルの生成を専門的に解説!

それでは、酵母がどうやって吟醸香を出しているのか、カプエチを例に考えてみましょう。(※ ここからかなり専門的な話になります)

カプロン酸エチルの生成は、酵母がグルコースを代謝する過程から始まります。日本酒でいうグルコースは、米のデンプンが麹のアミラーゼによって糖化されることで出てくるもの。そのグルコースを酵母が取り込むことで、アルコールに変えます。これらの働きがタンクの中で同時に行われる「並行複発酵」という発酵は日本酒ならではの形です。

酵母が取り込んだグルコースは、細胞質基質で解糖系という経路を辿ります。解糖系を通ってピルビン酸に変化し、さらにアセチルCoAになります。このアセチルCoAという有機化合物が、脂肪酸合成の出発点です。

アセチルCoA、二酸化炭素、ATP(アデノシン三リン酸)がマロニルCoAになり、脱炭酸しながらさまざまな種類の脂肪酸を生み出します。これが、脂肪酸合成。脂肪酸合成の経路は最終的にパルチミン酸を生成し、ステアリン酸やオレイン酸などの脂肪酸になります。これらの反応は人間の体内で毎日行なわれています。人間が糖を摂取して身体を動かすエネルギーをつくったり、余剰な糖が脂肪になったりするのは、この作用が関係しているのです。

さて、カプエチの話に戻ります。アセチルCoAとマロニルCoAに脂肪酸合成酵素が作用すると、カプロイルCoAになります。ここにアシルトランスフェラーゼが作用し、エタノールと合わさることでカプエチが誕生します。あるいは、カプロイルCoAをカプロン酸に変化させた後、エステラーゼの働きでカプロン酸エチルができるというパターンもあるようです。

ここで紹介した脂肪酸の合成経路において、生成されるのはパルチミン酸やステアリン酸がほとんどですが、反応する温度が低いと鎖長の短い脂肪酸になるため、カプロン酸ができやすいのだそう。低温で発酵させることに、カプエチ生成の肝がありそうですね。

しかし、カプロン酸をどんどん出せばいいというわけではありません。カプロン酸は、カプエチのもとであるにも関わらず、それ自体が酒の中に入っていると良くない臭いになるのです。

品評会においては「けもの臭」などと呼ばれ、低評価の要因になります。また、カプエチについても、時間が経つと「カプだれ」と呼ばれる重い香りに変わってしまいます。それこそが、カプエチ系の弱点。"旬"の長さは、歴史のあるクラシカルな酵母(7号系や9号系など)にはかないません。

しかしながら、華やかさがちょうどピークを迎えると、まるで花束や薫風のような香りがします。現在は、カプエチの香りが長持ちする貯蔵技術や流通方法、また、カプだれしない酵母の育成も進んでいます。

カプエチを楽しんでみよう!

カプロン酸エチル解説記事のイメージ画像

カプエチ系と呼ばれる酵母は「協会1801号」「M310」など。しかし、酵母の情報はラベルに明記されていない場合がほとんど。そんな時は、酒販店や居酒屋のスタッフに聞いてみましょう。きっと、店頭のポップには書ききれない詳細な情報をもっているはずです。

カプエチの華やかな香りは、いわゆる出品酒でなくとも充分に感じることができます。いろいろな酒を飲み比べて、カプエチの香りを捉えてみてください。

(文/リンゴの魔術師)

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