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宵越しの銭は持たねえ──川柳から読み解く、江戸っ子に欠かせない酒<1>

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今から400年前、政治経済の中心となった江戸には、全国から多くの人が集まりました。それに伴い、食料から日用雑貨までさまざまな商品が流入。樽廻船などによって、伊丹・池田などの諸白や灘目の酒が大量に持ち込まれると、「宵越しの銭は持たねえ」と見栄を張る江戸っ子たちの生活に、酒は欠かせないものとなりました。

酒を飲んでの醜態を許す文化

日本の酒は主食になる貴重な米を原料としています。そのため、農民などの一般庶民が酒を飲めたのは、豊作を祈願する春の祭りや、豊作を感謝する秋祭りなど、ごく限られた場面。ひとりではなく、必ず集団で飲んできました。

酒が飲める貴重な機会では、用意された酒をすべて飲み尽くし、全員がぐでんぐでんに酔っ払う...というよりも、全員が酔っ払わなければ許されない雰囲気があったといいます。

今でこそ、遺伝的に酒をまったく飲めない体質の方がいることもわかってきましたが、昔は理解されませんでした。普通に酒が飲める人には飲めない理由がわからないため、無理にでも飲ませていたとか。酒を飲む場面になると、酒が飲めない人は苦痛だったことでしょう。

集団で酒を飲み、全員が酔っ払うまで飲み続ける日本人の風習は近代まで続きます。酒を飲んで前後不覚に陥ったり、酔っ払って醜態を晒したりしても、それはすべて"酒の上でのこと"として許されてきたため、独特の飲酒文化ができたのかもしれません。

江戸っ子の誕生

江戸に幕府が開かれ、長い平和な時代の訪れとともに、江戸の人口は爆発的に増えます。一般庶民の生活が豊かになると、士農工商の身分制度は名目だけとなり、庶民は江戸っ子として独特の文化を築いていきました。そしてその文化が、酒の飲み方にも強く反映されているのです。

歌に見る江戸の酒

江戸の地回り酒

江戸の地でも、その府内や近隣で諸白の酒は造られており、初期のころは"地回り酒"として江戸っ子に親しまれていました。その様子を、当時の俳句や川柳から感じることができます。

「品のいヽ 気ちがい水は 墨田川」

「墨田川」は浅草の山屋半三郎が醸造した酒。墨田川の水で造ることからこの名を得たとされます。この酒を飲んで酔っ払い、くだを巻いている人の様子が目に浮かぶようですね。

「都鳥 飲めば足まで 赤くなり」

「都鳥」は浅草・内田甚右衛門の酒。酔って赤くなった自分の状態を、当時"都鳥"と言われていた、吾妻橋から上流にいるカモメを擬人化することで表現しました。

「涼み舟 網手の猪口で 宮戸川」

「宮戸川」も浅草・内田甚右衛門の酒。涼み舟に揺られながら、網目模様の入った猪口で「宮戸川」を飲んでいます。

この3つの銘柄が、その当時よく知られた"地回り酒"でした。

上方からの下り酒

一方、いち早く酒造りの技術を進化させ、美味い酒を造っていたのが伊丹や池田。

「酒十駄 ゆりもて行くや 夏木立」(蕪村)

酒を陸路で運ぶときはそれほど多くの量が積めなかったため、江戸の地回り酒が主に飲まれていました。その後、菱垣廻船や樽廻船などを使って、上方からどんどん酒が運ばれるようになります。

「上方の 高ねに見える 富士見酒」

"富士見酒"は、上方から船で運ばれる途中、富士山を左手に見ながら遠州灘の高波にもまれた酒を指すそう。

「船中で もめば和らぐ 男山」

波に揺れる船に乗せられ、江戸まで運ばれる間に樽の中でもまれた酒は、口当たりがやわらかく美味い酒になりました。「男山」は伊丹山本氏による醸造。ひところは"酒は剣菱男山"といわれていたほど、よく知られた銘柄です。

「やはらかに 江戸で味つく 伊丹酒」

上の歌と同じような意味でしょう。酒は船で江戸まで運ばれる最中、海上で揺られているうちに熟成が進み、味も良くなりました。この頃の酒は雑味や酸味が多く、若いうちは飲みにくかったそうですが、熟成すると旨味が増したそう。

江戸の地回り酒は、伊丹・池田などの諸白や、その後現れた灘目の酒に押されてその量が漸減。江戸幕府は関東で造られた地回り酒の保護策として、上方から江戸に送られていた、年間70~80万樽の酒を40万樽に制限するなどの手を打ちます。

ところが、品質的に劣ることなどから、地回り酒は江戸っ子に支持されませんでした。地回り酒の量は全体の3~4%程度に留まる一方で、米の豊作が続いた文化期(1804~)には、上方から江戸への入津樽数が過去最高の100万樽にもなったのです。

下り酒を受け入れる新川

「新川の 手がらは水を あびせられ」

上方から船で運ばれた酒は、酒問屋が立ち並ぶ日本橋の新川(現在の東京都中央区にある地域)へ荷揚げされました。新川では、その年に造られた新酒を、西宮や大阪から江戸まで運ぶ競争「新酒番船」が行われたそう。年に一度開催されるこのレースで優勝すると、この句にあるような手荒い祝福を受けたのですね。

「新川は 上戸の建てた 蔵ばかり」

上方から江戸へ送られる酒の量が増えるに連れ、新川沿いにはそれを受け入れる立派な酒問屋が立ち並び、たいへんなにぎわいを見せます。そのにぎわいぶりに、酒の飲めない下戸が皮肉のひとつも言いたくなったのでしょう。

「下戸の建てた蔵はなく、お神酒あがらぬ神はなし」

上戸も黙っていません。「酒を飲まないお前たちが建てたという蔵を見たいものだ。神様だってお神酒を喜んでいる。悔しかったら飲んでみろ」とまで言ってのけます。

「新川へ 玉川を割る 安い酒」

新川で陸揚げされた酒は、新川の酒問屋で調合され(味を確かめながらさまざまな樽の酒を混ぜ合わされ)、玉川の水を加えて(割水をして)売られました。安いと思って買ったこの酒が、水っぽくて旨くなかったのでしょう。安酒を選んだくせに味にはうるさい酒飲みが、この酒は水をたくさん加えたのに違いないと皮肉ります。

江戸も関東の地回り酒が主であった初期のころは、その当時よく知られていた「墨田川」や「都鳥」「宮戸川」などの銘柄名が詠み込まれたそう。

ところが伊丹や池田、灘などの上方からの下り酒が増えるにしたがって、地回り酒の銘柄は「剣菱」や「男山」だけになり、その他は見られなくなりました。これは、新川の酒問屋に陸揚げされた上方の酒が、何種類かの酒を混ぜ合わせ、水を加えるなどの加工がされたものだったため、蔵元の銘柄名が出しにくくなっていたせいかもしれません。

(文/梁井宏)

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梁井 宏

金沢の創業1625年の老舗酒蔵で、40年余りにわたり、酒造管理、商品開発、市場開拓などに携わってきました。同社を退職後は、酒関連の情報収集と併せ、現役時代からこだわってきた、「熟成古酒」の啓蒙活動に力を入れています。