日本で独自の進化を遂げた酒「日本酒」の始まりの地には諸説ありますが、そのひとつが「播磨」説。播磨は現在の兵庫県南西部にあたる地域です。

今からおよそ1300年前、奈良時代に編纂された「播磨国風土記(はりまのくにふどき)」には日本酒に関わる一節があり、これが日本で初めて麹を使って日本酒を造ったと言われる記述です。

風土記というと、はるか昔の書物かと思われがちですが、現代とのつながりは意外とあるもの。日本酒好きなら知ってはおきたい「播磨国風土記」について、読み解いていきましょう。

神話で振り返る「播磨国」

播磨国風土記時は奈良時代、西暦713年。平城京に都が移って3年がたち、元明天皇が帝を務めていたころです。その年の旧暦5月2日、「国の状況を把握するために、各地の産物の目録や農地の状態、神話伝説などの話をまとめて提出するように」と編纂命令が出されます。

播磨国(兵庫県西部)では、国司の巨勢朝臣邑治(こせのあそみおおじ)や楽浪河内(ささなみのこうち)が中心となって、風土記をまとめたのではないかと推測されています。

「播磨国風土記」は、報告書のような形式ですが、土地の良し悪しや産物、山や川の名の由来、神話や言い伝えなどがまとめられ、旅行雑誌のような要素も感じられます。今もある地名や神社の名前の記載もあり、風土記を通じて1300年前の土地の様子をうかがい知ることができます。

神話部分の主人公は、国造りに励む神様たち。大汝命(オオナムチノミコト)、葦原志挙乎命(アシハラノシコオノミコト)、伊和大神(イワノオオカミ)などが登場します。いずれも出雲大社の御祭神でおなじみの、大国主大神と同一視する説があります。

次に出てくるのは天日槍命(アメノヒボコノミコト)。大陸から播磨国にやってきた神様です。葦原志挙乎命らが造っている播磨国を占領(国占め)しようとします。剣で海をぐるぐる回し、島を造り出して神力を見せつけますが、葦原志挙乎命たちも負けてはいません。神々は播磨を舞台に争いを始めます。

大汝命と一緒に国造りをすることになったのが少日子根命(スクナヒコネノミコト)。小さい神様ながら国造りが得意で、各地に実りをもたらします。二柱の活躍により、国が徐々にできてくるのですが、その道中が描かれているのも「播磨国風土記」の見どころです。特に二柱の我慢比べのエピソードは必見です。

日本酒のルーツは、カビが生えたお米から

絞った酒を貯めるタンク「播磨国風土記」の酒に関する部分で登場するのが、国造り神話にも登場した伊和大神。播磨国の神様です。

酒に関する記述は「播磨国風土記」に多くありますが、日本酒のルーツとして最も大事なのは、宍粟郡庭音村について語られたこの一文です。

大神御粮枯而生糆 即令醸酒以獻庭酒 而宴之 故曰庭酒村 今人云庭音村

大神(おほかみ)の御粮(みかれひ)、枯(か)れて糆(かび)生(は)えき。即(すなは)ち酒(さけ)を醸(か)ましめて、庭酒(にはき)に獻(たてまつ)りて宴(うたげ)しき。故(かれ)、庭酒(にはき)の村(むら)と曰(い)ひき。今(いま)の人(ひと)、庭音(にはと)の村(むら)と云(い)ふ。

もう少しわかりやすく訳すと、「大神の御食糧がダメになってカビが生えた。そこで酒を醸造させて、庭酒(神酒)として大神に献上して、宴を開いた。だから、庭酒の村といった。今の人は、その場所を庭音の村と言う」との意味になります。この一文から、カビの生えた米を使って酒を醸造していたことを読み取ることができます。

日本書紀には、ヤマタノオロチを退治したとされる「八塩折之酒(やしおりのさけ)」の記述があります。この酒は名前から何度も醸した酒と推測されていますが、その製法については、上槽した後また麹と掛米を仕込む貴醸酒のような重醸法という説や、段仕込の祖という説があります。

古代中国三国時代の書に「九醞春酒法」という酒のレシピがありますが、「八塩折之酒(やしおりのさけ)」はこれをもとにしたと考えられています。「九醞春酒法」には「曲」という文字が登場しますが、これは今で言う「麹」のこと。大陸では、この当時からすでに麹を使った酒造りが行われていたことがわかります。

麹

日本酒の原料となる米には糖分が含まれていないため、酵母菌がアルコール発酵を行なうことができません。そこで、麹の持つ「アミラーゼ」という酵素の力を使って米のデンプンをブドウ糖へと分解します。これが日本酒造りで麹を使う理由です。

口噛み酒では、唾液中に含まれるアミラーゼを使って糖化を行なっていましたが、麹を使って糖化するほうが圧倒的に効率がいいようです。

大陸では、クモノスカビ(Rhizopus属)やケカビ(Mucor属)などで造った麹を使う方法が発展します。穀物を粉にして水で練って餅を作り、そこにカビを生やす方法です。一方、日本酒では黄麹菌とも呼ばれるニホンコウジカビ(Aspergillus oryzae)が主に使われ、蒸した米粒の表面にカビを生やします。

この違いは、カビの生える培地である原料を蒸しているかがポイントです。タンパク質の分解能力が弱いクモノスカビは、蒸米の上では増殖能力が弱くなる一方、コウジカビはタンパク質の分解も得意のようです。

「播磨国風土記」の一節を見ると、カビが生えた米粒を酒造りに使っているので、これが日本酒の起源とする根拠になるのではないかと言われています。

もやし

コウジカビの純粋培養には、室町時代に確立したとされる、木灰を使って他の菌の繁殖を抑える方法があります。

しかし、奈良・平安時代に書かれた「延喜式」には、すでに麹を使った酒の仕込配合があり、このころから試行錯誤しながら製麹の技法は進化していったようです。当時、麹は「糵(げつ/よねのもやし)」と呼ばれていました。

「播磨国風土記」の一節にあるのは、ただカビが生えた米というのみで、積極的な製麴が行われてなかったかもしれません。コウジカビが混じっていなかったとは言い切れませんが、純粋なコウジカビだけではなさそうです。

「糆」という文字が本当にカビを指すかどうかには諸説があります。飯に生えてくるものなのでカビと推測されるものの、「粬」または「䊈」の誤植とする説もあります。

日本最初の杜氏は、伊和大神?!

伊和神社

「播磨国風土記」のことをさらに知るために、伊和神社に足を運んでみました。姫路市街から北へ約40km、中国道山崎ICから車で約15分のところにあります。播磨国一宮として、この辺では有名な神社です。鳥居をくぐるとひんやりした空気と土の香りを感じ、参道を進むと厳かな拝殿が見えてきます。

伊和神社 禰宜(ねぎ)の安黒千景さんにお話をうかがいました。

伊和神社

伊和神社の御祭神は、伊和大神と配祀の少彦名神、下照姫神。「播磨国風土記」に出てくる「大神」は「伊和大神」を指す説を考えると、宍粟郡庭音村の一文で酒を造らせたのは、伊和大神となります。

「播磨国風土記」の伊和村の条には、「大神、酒をこの村に醸みたまひき(伊和大神が酒をこの村で醸造された)。故、神酒(みわ)村と曰ふ」とあります。伊和大神がここで酒を造ってみせたようです。

さらにその自信の表れは、「大神、国作り訖へたまひて以後に云ひたまひしく、『おわ、我がみきに等し』といひたまひき(伊和大神が国づくりを終えられて、「あぁ、私のお酒と同じくらいよい国ができた」とおっしゃった)」の一文にも感じられます。相当上手に酒が造れたのでしょう。

風土記には、住民が困っていることに対して神様がアドバイスをして、地域が繁栄するという記述が多くあります。その中には「食糧がダメになってしまったように見えても、大丈夫、酒が造れるぞ」というアドバイスがあったのでしょう。伊和大神は、他にも医薬、産業、農業の安全も見守る、地域の神様として崇められてきました。

周辺地域は山間の小さな町ですが、古くからさまざまな人が住む土地でした。今では機械化や灌漑で平地に大きな田がありますが、昔は洪水が少なく水の流れやすい山間の方が米を作りやすかったようです。「播磨国風土記」には土地の良し悪しも掲載されていて、当時の農業事情も垣間見えます。

庭田神社

「播磨風土記」の一節にある、酒宴が開かれたという庭田神社にも足を運んでみましょう。

こちらは伊和神社から車で10分程度の里山にあり、事代主命(コトシロヌシノミコト)という神様が祀られています。大国主大神と伊和大神を同一視する説を考えると、伊和大神の子にあたります。

ぬくゐの泉

庭田神社の裏手にある「ぬくゐの泉」には、「食糧を水で戻した折にカビが生え、酒を造らせた」という説が案内板にも記してありました。

風土記の時代から続く、播磨と日本酒のつながり

「播磨国風土記」の酒にまつわるエピソードを探してみると、他にもたくさん記述が見つかります。

印南郡含藝里(加古川市東神吉町神吉)では、大帯日子天皇(おほたらしひこのすめらみこと・景行天皇)の御代に酒の泉が湧き出で、ここを酒山と名付けたが、みな飲んで酔って戦ってしまったので埋めてしまった。西暦670年に掘り返した人がいて、その時はまだ酒の香りが残っていた、と伝わっています。

讃容郡中川里(佐用町三日月)には、伯耆の加具漏と因幡の邑由胡という二人がおごり高ぶるたとえに「清酒で手足を洗う」という記述があります。

託賀郡賀眉里(多可町加美区あたり)では、酒造りの神事が描かれています。道主日女命(ミチヌシヒメノミコト)が子を生んだが、その子の父親がわからなかったため、酒を使った占いをやることにしました。田んぼを七町作ると七日七晩で稲が稔ったので、酒を造りました。そして神様を集め、その子が酒を捧げた神様こそが父親だということで神事が始まります。その子が酒を持って進み、鍛冶の神様・天目一命に向かって進上したそうです。

いずれの記述にせよ、稲作が広く普及し始めていたこの時代の人々にとって、酒というものがすでに身近な存在であったことがよくわかります。

主要な5つの風土記の中で酒に関する記述を数えてみると、豊後国:0、出雲国:1、肥前国:1、常陸国:3、播磨国:12と、「播磨国風土記」が特に多いことがわかりました。播磨国では昔から酒が愛されていたようです。

播磨

2020年3月、姫路市や明石市などを含んだ播磨地域(はりま)が、「白山」「山形」「灘五郷」などに並ぶ、地域ブランドとして国から保護される地理的表示(GI)の指定を受けました。

今後「はりま」を名乗れる日本酒は、兵庫県産山田錦と地元の水を使い、域内22市町の酒蔵が醸造した、はりま酒研究会が認定した銘柄のみとなり、"日本酒発祥の地"の酒として、これからさらに注目されていくことになります。

「播磨国風土記」の昔から酒とともにあった播磨地域。日本酒とのつながりはこれからも続いていきます。

(写真・文/リンゴの魔術師、絵/駒碧)

◎参考文献

◎取材・考察協力

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