天武天皇の妃である、額田王(ぬかたのおおきみ)の万葉歌は、それまで慣れ親しんだ都・奈良から大津へ突然の遷都が敢行される際に詠まれたといわれています。
うま酒 三輪の山 あおによし
ならの山の 山のまにい隠るまで 道のくまいさかるまでに
つぼらにも 見つつ行かむを しばしばも
見さけむ山を 心なく雲の 隠さふべしや
この歌には、美しい大和の山々を今一度目に焼き付けておこうという心情が込められていますが、そこには、もう二度と奈良のお酒が飲めなくなってしまうかも知れないという不安も見え隠れしています。
そんな額田王にゆかりがあるのが、滋賀県東近江市。街の中心部、近江鉄道・八日市駅から徒歩5分のところに市神神社があり、その境内には額田王碑が建てられています。
額田王の代表作「あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖ふる」の一首に登場するロマンスの舞台が、琵琶湖東岸の蒲生野(がもうの)のどこかに広がっていたのでしょう。同市内にある阿賀神社にも万葉歌碑が建てられ、多くの歌人や愛好家に人気のスポットとなっています。
この記事では、万葉の舞台・蒲生野の歴史に思いをはせながら、滋賀県東近江市にある2つの酒蔵、喜多酒造と近江酒造の今を巡ります。
中世に造られていた幻の僧房酒「百済寺樽」
琵琶湖の東側、鈴鹿山脈のふもとに平野の広がる湖東地方を開拓したのは、百済国と強い結びつきを持った渡来系の依知秦氏(えちはたし)。
663年、白村江の戦いでは、朴市秦田来津(えちのはたのたくつ)という人物が兵士5,000人を従えた百済国救援の水軍の将として参戦しましたが、唐と新羅連合軍に敗れ戦死したとあります。秦田来津の居住していた愛知郡には、戦後も百済から亡命した旧臣や知識人が秦氏を頼って移り住んだと伝えられます。
また、大和の豪族であった氏族・平群氏が百済の入植地から引き上げて帰国した後に移り住んだのが、愛知郡内の養父郷で、ここに百済寺が創建されたことは平群氏の影響が強く存在したと指摘されています。
この百済寺で中世に製造されていた僧坊酒が「百済寺樽」です。奈良の正暦寺や多門院と同様に大寺院で造られたお酒は、室町幕府や朝廷にも献上され、京や大坂で好評を博しました。この百済寺樽の原型となったのが、飛鳥時代に百済から引き揚げてきた知識人や技術者であったことは言うまでもないでしょう。
残念なことに、当時の百済寺での酒造の記録がほとんど現存しておらず、昔の百済寺樽がどのような方法で仕込まれていたかは謎のまま。少なくとも、1478年の百済寺の記録に百済寺酒という記述があり、100年以上の期間をかけて製造がなされていたことがわかっています。
百済寺で製造された百済寺樽は琵琶湖岸の安土方面へ送られ、そこから琵琶湖を渡って船で京へ運ばれました。畿内と中山道、北陸道方面を中継する琵琶湖の水運ルートに、はるか昔の渡来人たちが気付き、やがて、この蒲生野の地で営みを続けてきた人々から近江商人が誕生し、日本の商業と物資の流通の発展に大きな役割を果すことになります。
奈良時代に都が一時置かれた近江の地は、伊丹や灘のように酒造りの商業的発展する可能性があったことを感じさせます。
この要衝の地に織田信長が安土城建設を進めるのですが、百済寺の酒造りの伝統を途絶えさせる原因となったのも、実は信長。近江に入植した当初、信長は百済寺の権勢を重く見て保護寺として格別の優遇を施していたのですが、旧領主であった佐々木氏へのよしみを棄てられない百済寺側の対応が信長の逆鱗に触れ、1574年に焼き討ちにあい、寺院内にあった醸造施設は跡形もなく焼失してしまいました。
このように途絶えてしまった百済寺樽ですが、現在、地元の人たちによって「百済寺樽復活プロジェクト」が立ち上げられ、滋賀県東近江市にある喜多酒造が現代版の「百済寺樽」を醸造しています。
噂を頼りに、百済寺の周辺を探索していると近くの道の駅で売られているのを発見しました。現代版の百済寺樽は、地元の農家の作る酒造好適米「玉栄」を使用した特別純米酒。奈良・正暦寺の菩提酛と同じようにお寺の境内で僧侶が醪の管理をするというような仕込みではありませんが、地元の人たちの熱い思いでその名を復活させたお酒です。
百済寺の売店コーナーでは、同じ東近江市の酒蔵、「志賀盛」「近江龍門」などを醸す近江酒造のお酒が売られていました。
丹波杜氏が率いる近江酒造
近江鉄道・八日市駅から徒歩15分、大正6年創業の近江酒造へ向かいます。近江酒造にとって、2019年は蔵の看板といえる杜氏がこのシーズンから交代し、次の時代へ向けた酒を造り出していくという変革の年でした。
杜氏として新たに迎えられたのは、灘の有名蔵で杜氏を務めてきた丹波杜氏である渋谷さん。滋賀の酒蔵は、古くは丹後や越前、近年では能登や岩手の南部地方から杜氏を招くことが一般的でしたが、今年から初めて丹波杜氏が着任することとなりました。
丹波杜氏というのは一昔前なら灘の酒蔵に従事するものがほとんど。灘で務めのできない者は腕の悪い流れ者と言われるほど、丹波の酒造人にとっては灘は酒造りの本場という意識が強く、地方の酒蔵に出向くことはほとんどありませんでした。明治のはじめになると、その腕を買われ、灘の先進技術を地方の酒蔵に伝授するために全国を巡ったといいます。
渋谷杜氏が灘で杜氏職を引き継いだ当時は、「蔵人の造る酒」から「社員が造る酒」への転換期。阪神大震災で多くの蔵が倒壊した灘では会社の建て直しを余儀なくされ、その際に酒造りの体制も大きく変化します。
大手酒造メーカーの集まる灘地域では、主に一年を通して醸造を続ける四季醸造の蔵を社員が、そして上級酒を造る冬の間は季節雇用の蔵人たちが酒を造るのが一般的でしたが、季節雇用の杜氏や蔵人を全て社員化し、正社員による酒造りに切り替えていったのです。
渋谷杜氏は社員杜氏として、季節雇用の蔵人さんと社員が一緒になった混成チームの酒造りの指揮を執ってきた人物。これまでの伝統的な酒造りを継承する大切さと未来の酒造業のあるべき道の両方を併せ持った杜氏といえるでしょう。
「酒造りはセンスが大事」
多くの従業員が働く灘の蔵から、今はわずか2人での酒造り。一番大変なことは、作業の段取りだと言います。作業にかかる人の手が及ばず、ひとつの作業に根を詰めすぎては他の作業に支障が出てしまうのだとか。
酒造りの出来は、会社の規模が大きいか小さいかはあまり関係なく、どのようなコンセプトのお酒を提案できるのか、それに対してどのような酒造計画で人員や設備の分担をし、バランスを図るかにかかっているといえます。
「酒造りはセンスが大事」とは、渋谷杜氏の談。
必要な設備に予算をかけてもらうよう蔵元と交渉しつつも、無いものねだりをせず、蔵に寝ていた機械を引っ張り出してきて別の用途でも再利用するなど、その時、その場所での状況に応じて柔軟な酒造りをしています。何が起こるかわからない微生物と日ごろ相対する杜氏の勘、これが酒造りのセンスの肝なのかもしれません。
令和の酒造りの始めには、東近江市にある太郎坊宮の宮司を招いて蔵内のお祓い行事が執り行われました。昨年までは、蔵でこのような行事は行っていなかったそうですが、渋谷杜氏の強い要望で実施したとのこと。酒造りに自信がないから神頼みをしているわけではありません。丹波杜氏として、酒造りの伝統を繋いでいくという強い責任と誇りがあるからでしょう。
「昔ながらの手造りの酒」というと小さな造り酒屋の売り文句と思われがちですが、それだけにこだわっていては酒質の向上は望めず、小さな酒屋であっても最新の設備を備えることが一般的になってきました。
昨今の酒造りには杜氏ひとりの技術に頼るのではなく、蔵元や従業員が一体となったものづくりの姿勢と体制が、これからの酒造りのスタンダードのように思えます。酒造道具や蔵の設備、生活環境の改善など、会社のサポートへ対する渋谷杜氏の感謝の言葉も印象的でした。
猫好きのためのお酒「近江ねこ正宗」
日本酒が好きで、猫が何よりも大好きという近江酒造の蔵元が世に送り出したのが、「近江ねこ正宗」シリーズ。
蔵元である今宿社長がプロデュースした純米吟醸には「SHIRONEKO(しろねこ)」、純米酒は「HACHIWARE(はちわれ)」と、猫好きにはたまらない愛嬌のある名前がつけられています。猫の鼻があしらわれたラベルは全て手作業で貼るという手間のかけよう。
近江清酒の発祥まで遡る「百済寺樽」を復活させた喜多酒造。伝統的な酒造りと現代的な酒造りを融合しつつ、「近江ねこ正宗」シリーズのように遊びごころを忘れない近江酒造。東近江に根付いた2つの酒蔵の酒造りは、これからも続きます。
◎参考文献
- 『百済寺物語』(川上敏雄 著/愛東町観光協会)
(文/湊洋志)