兵庫県宝塚市の東部に位置する小浜地区は、かつての宿場町。灘が酒造業を繁栄させる以前には、江戸への下り酒を生産する酒造地として名を馳せた時代もありました。
しかし18世紀初頭に衰退。現在、小浜地区で酒造業を営む酒蔵はありませんが、街の遺跡から往時の面影を偲ぶ街歩きをしてみました。
交通の要衝だった小浜と酒造りの始まり
18世紀中頃に丹波から来た出稼ぎの人々が、池田や伊丹方面の酒造地に行く際に通ったと言われる小浜宿(こはまじゅく)。
出稼ぎ道中を唄った歌詞には、「〽行けば行き當(あた)る小浜の菊屋 半期奉公がしとござる」「〽半期奉公がしたいと云うたが 今の菊屋はいやでする」と歌われたものがありました。小浜の酒造業が盛んだったのは17世紀のころのこと。このころはすでに酒造業が衰退していた様子があらわれています。
三方の入り口を守護する愛宕神社をくぐり、街道を南へ。地図によれば本妙寺の手前に「酒造り茶太跡」と記され、かつて酒蔵があったことを発見できましたが、関連するような建物は確認できませんでした。
本妙寺からの眺めは、断層と大堀川を真下に望むことができ、要塞としての街の歴史を感じ取ることができます。
そのまま進むと、次に見えるのが天照大御神をおまつりする皇大神社。東側に向かえば毫摂寺があり、旅籠風の家屋の並ぶ街のメインストリートに出ることができます。
通りにある小浜宿資料館では、小浜地域の歴史を知ることができます。
この小浜資料館があった場所は、かっての山中家の屋敷跡でもありました。
山中家始祖の鴻池新六直文の父親は、出雲の尼子家に仕えた戦国武将の山中鹿之助幸盛。武家を捨てて商人として生きていくことを決意した新六は酒造業を起こし、大坂で海運業や金融業を営む豪商へと発展する礎を築きました。鴻池財閥となる鴻池善右衛門の家系は、新六の八男・正成から出発しています。
小浜の山中家を興したのは新六の長男・山中清直。慶長19年(1614)に、小浜の扇屋を買い取り、酒造業として分家しました。下り酒として江戸市民に評判となり繁盛しましたが、やがて灘の新興酒造家に押され衰退していきます。
小浜山中家の酒造業は3代続きましたが、4代目の山中良和の代から医者として転業し、家系を継いでいます。
資料館の中庭には、酒造期に使われていた井戸が残されていました。
「花降り」しなかった小浜流の酒
小浜流の酒とは、いったいどのようなものだったのでしょうか?
清酒発祥の地の石碑がある伊丹市鴻池から小浜までは約3キロ。徒歩で約40分ほどの距離です。
江戸時代初期に書かれた日本で代表的な醸造技術書「童蒙酒造記」には、鴻池流の酒造りを中心に、伊丹流や小浜流の仕込み方法や特徴が記載されています。
その特徴を上げれば、伊丹流は辛口酒の元祖であること。そして、低温での仕込みと柱焼酎によって、そのきりっとした酒質がもたらされていることです。
小浜流の酒造りも焼酎の添加を除いてはおよそそれに近く、仕込み後の櫂入れのタイミングが早いなど細かい相違点はありますが、酛の仕込み日数に30日から40日掛けるなど、生酛造りの原型と思われる方法で仕込んでいたようです。
消えてしまった酒だけにその特徴を特定するのは難しいですが、「童蒙酒造記」によれば、「小浜流は、だいたい伊丹流と同じようで辛口酒である。少し違うところを述べておく。それ以外は、伊丹流の条項で判断するように」という記述から始まり、醪の育成方法が書かれています。
特に相違点がある部分でいうと、「添、中分け(仲)、掛留ともに仕込む日の未明に櫂入れ、そして仕込む直前に櫂入れをする。これが他の流派とは違っている。仕込みの後の櫂入れも他の流派より早い時期に行い、それによって辛口酒ができ上がる」と、書かれています。
このころの諸派の酒造りの目的は、江戸へ送ることができる日持ちの良い酒を造ることであり、それはすなわち、できるだけアルコール発酵させた辛口の酒を仕込むことだと言い換えられるでしょう。
もうひとつ、小浜流の酒造りの特徴として、「花降り」をしない酒ともいわれています。
「花降り」とは、出来上がった清酒のたんぱく質が分離して白く濁り、清酒の中に花が散り降るようにみえること。もしくは火落ち菌が繁殖して白濁してしまうこと指します。
どちらの場合も、酒を搾った後の品質管理に一工夫があったということなのでしょう。それがどういう方法であったかは想像の範囲をでませんが、考えられる手段のひとつに灰の利用があるかも知れません。「清酒に灰を落とした結果、澄んだ良い酒になった」という逸話が生まれるのは、鴻池家文書の記述によるとされています。
鴻池の創始者・山中新六が酒造業を始めたとき、大きく影響を及ぼしたのがそのルーツである出雲地方の自伝酒だったそうです。この自伝酒の最大の特徴は、濁酒の強い酸味を中和させる灰の利用法。山中家は、灰を使った製造方法を摂津地方に持ち込み、独自の製法として開発したのではないかと推測されています。小浜でも、山中家の影響で灰を使った清酒の改良が行われていたのかもしれません。
地理的な条件で、灘や伊丹には敵わず小浜の酒造りは衰退してしまいますが、一時期は酒造りで大いに賑わい、小浜の名も遠く江戸庶民の耳目に触れていたことは間違いないでしょう。
酒造りのおもかげが残る街「小浜」
小浜宿の酒蔵は、山中家以外にも3つ存在していたようです。
一番面影を残しているのが「菊仁」の屋敷跡。旅籠旅館の燈篭と杉玉が玄関先に備えられています。現在は普通の民家なので外から風情を偲ぶのみです。
唄に登場する菊屋の跡地も毫摂寺のすぐ脇にありました。しかし、今は更地にされ月極駐車場の看板にその文字が見えるのみ。少し残念な結果に終わってしまいました。
半日あれば十分に周れる小浜の街歩きでしたが、都会の中のほんの一角に酒造りの歴史が散りばめられたテーマパークのようでした。
(文/湊洋志)
◎参考文献
- 『童蒙酒造記 日本農業全集51』(社団法人農山漁村文化協会)
- 『江戸の酒』(吉田元/岩波現代文庫)