甲子園球場からほど近い場所にあり、ヨットハーバーとしてにぎわう、兵庫県西宮市の今津港。そこには、小さな木造の灯台がひっそりと建っています。
海上保安庁から航路標識として正式に認定されている和式灯台「今津灯台(いまづとうだい)」は、樽廻船が目まぐるしく行き交った江戸時代の文政7(1810)年に、大関の5代目・長部長兵衛によって建てられました。200年以上経った現在も、現役であることに驚かされますね。
最初に訪れたときは「なんだこんなものか」と侮っていましたが、何度か足を運んでいるうちにすっかりと虜になってしまいました。
何といっても魅力的なのは、暗くなると静かに灯る緑色の明かり。真っ黒に塗られたボディーとのコントラストが異様な雰囲気を醸し出しています。
周辺の住宅や建物の明かりと差別化するためにあまり使われない緑色が選ばれたのかと思いきや、実は航路標識の国際ルールで定められている色だそう。緑色に光る標識は、港に向かって左側の端を示すもの。ちなみに、港の右端を示す標識は赤い光なのだとか。
もうひとつの魅力は、このあたりではほとんど埋め立てられてしまった自然の砂浜が奇跡的に存在していることでしょう。
20メートルほどの小さな海岸に立って、浜に打ち寄せる波の音に耳を澄ませながら、想像力を働かせてみてください。遥か昔、灘の銘酒がこの港から江戸へ向けて運び出された様子を。
樽廻船の誕生をきっかけに発展した今津港
灘五郷は江戸時代に江戸へ運ばれた「下り酒」の産地として発展してきた地域です。東から順に今津郷、西宮郷、魚崎郷、御影郷、西郷で形成されています。
この中で唯一、西宮だけは室町時代あるいはそれ以前から「天野酒」や「南都酒」と並ぶ、"西宮の旨酒"の銘醸地として名の通った地域でした。
1600年代から元禄期にかけて、下り酒の先陣を切ったのは奈良の「南都酒」。しかし次第に、大阪の池田や伊丹が台頭してきます。
伊丹の丹醸が御膳酒として盛り上がりをみせていたころ、西宮は京(みやこ)へ海産物を運ぶための集積地として、海を渡って運ばれてきたものを内陸へ輸送する役割を担っていました。
1700年代に入り、下り酒を専門に運ぶ樽廻船が灘目(灘地方の旧名称)あたりで実用化され始めたころ、いよいよ西宮の酒が江戸へ運ばれていきます。それをきっかけに、西宮のそばにある今津港が注目されるようになりました。
現存する文書『酒家銘々算用帳』には、延宝年間(1673~80年)から安永年間(1772~80年)における、「酒造株」(酒造りをするために必要な権利)が他村からの西宮へ移動した数が記されています。移動元には、伊丹を含む摂州川辺郡や大坂など、それまで下り酒の主要地として栄えていた地域が多かったようですね。
宝暦年間(1751~64)から明和年間(1764~72)にかかる約20年の間には多くの酒造家が誕生しました。米屋、木綿屋、小豆嶋屋などの屋号を上げる酒屋が多くを占めていたようです。
今津郷で酒造りを続ける、大関と今津酒造
現在、今津郷で稼働する酒蔵は2つ。なかでも、大関は日本酒業界で圧倒的な存在感を誇ります。
大関の前身である大坂屋の創業は正徳元(1711)年。樽廻船が西宮に就航し始めたのが1707年ということを考えると、今津港の海運と酒造業が一体となって生まれた企業であることが想像できるでしょう。大坂屋が私費を投じて灯台を建て、港を整備した意味もわかりますね。
今津郷にあるもうひとつの蔵は、今津酒造。
「扇正宗」を醸す宝暦元(1751)年創業の老舗蔵です。地元でもなかなか見ることができない銘柄かもしれません。宮水と山田錦による、生粋の灘仕込みでお酒を造っています。
今津灯台へ向かう途中にある「関寿庵」という、お酒とスイーツの店に立ち寄ってみました。大関の経営する和菓子店で、一般販売されていないお酒の試飲(100円~)や、原酒や焼酎の量り売りを楽しむことができます。
搾りたての大吟醸酒も試飲することができました(有料)。
ドライバーやアルコールが苦手な人もスイーツを堪能できるのがうれしいですね。
現在、西宮市では津波防災工事のため、今津灯台の移転先を検討しているとのこと。今の場所で灯台のある風景を眺められるのもあと数年。ぜひ一度、足を運んでみてはいかがでしょうか。
<参考文献>
- 『酒造りの歴史』(柚木学/雄山閣BOOKS)
- 『ワンカップ大関は、なぜ、トップを走り続けることができるのか?』(ダイヤモンド・ビジネス企画 編・著/ダイヤモンド社)
(文/湊洋志)