「やあ爺さん、大きい池やなあ」
丹波杜氏が出稼ぎに出る道中、六甲山の上から眼下を眺めると広がる灘目(灘地方の旧名称)の風景。その年初めて蔵働きに出る少年が目を丸くしながら、初めて目にする海に向かって声にしたといわれています。
「下り酒」で大きく成長した灘酒
灘が酒どころとして大きく飛躍したのは、この海を利用した海運が要因のひとつです。
多くの酒造地は、街道筋をとおる行商人など旅籠の客に振る舞う酒として地産地消型の生業を続けていました。西国街道で京へ繋がる西宮は都に海産物を運ぶ拠点であり、その酒は江戸時代以前から「西宮の旨酒」として知られていました。
奈良の僧坊酒に始まった江戸送りの輸送手段が、池田・伊丹の下り酒が流行るころに馬から船へと切り替わり、海に面していた灘の酒は江戸という巨大マーケットで成長していったのです。
酒造が盛んになる以前、灘の主な生産品目は鰯を干して乾燥させた後に固めて作った干鰯(ほしか)でした。しかし、灘の酒が江戸で爆発的な人気を得ると干鰯から酒造業へ乗り換えた酒屋も多いと記録されています。
西宮から西郷にかけての「灘五郷」が日本随一の酒造地として発展するのは18世紀から19世紀のこと。それまでの下り酒のトップブランドであった伊丹の「丹醸」を市場からはじき出した新たな主役が「灘の生一本(きいっぽん)」でした。
「生一本」ってどんな意味?
灘で造られた生粋の混じりけのない酒のことを「灘の生一本」といいます。「生」とありますが、決して火入れをしていない酒(=生酒)ということではありません。
「生粋の酒」「本物の酒」という意味合いがあるのは、江戸時代、関東近郊の地回り酒が灘からの下り酒を偽装して出回ったことに対し、ブランドを保護する目的があったのだと思われます。
また、水で薄めない「原酒」という意味もあったようです。当時の酒の小売では、蔵元から届いた酒の樽に対して、割り水で薄めたり、混ぜ物などで増量したり、樽の中身を入れ替えたりと、今では考えられないようなことが行われていました。
「生一本」は、ひとつのことにひたむきに打ち込む姿勢を形容した言葉でもありますが、丹波杜氏の寡黙な仕事ぶりと男酒といわれる灘の酒質のイメージにも重なります。
灘酒と関わりの深い3つの神社
おおよそ江戸時代に誕生したといえる「灘の生一本」ですが、灘酒の歴史を遡ればその起源はもっと古く、神功皇后の新羅遠征と務古水門(むこのみなと)の神々の託宣より開かれた3つの神社の存在が浮かんできます。
第14代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の后でああった神功皇后は、仲哀天皇崩御のあと、次の第15代応神天皇を身ごもったまま、新羅討伐を果たしたという伝説が残されています。筑紫(現在の福岡県)から戻られた神功皇后一向に、京では不穏な動きが待ち構えていました。
生まれたばかりの誉田別皇子(応神天皇)を亡き者にしようと、麛坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)の異母兄が挙兵し、播磨(現在の兵庫県)や淡路島で計らいごとを進めていたのでした。
一向の船団は難波(現在の大阪市)に入ることができないまま立ち往生していたところ、皇后は「務古水門(むこのみなと)」(現在の西宮市)に戻って占いをすることを思いつきます。
すると、天照大御神により「わが荒魂(あらみたま)を皇后に近づけてはならない。廣田国に居らむべし」とお告げがありました。
続いて、稚日女尊(わかひるめのみこと)と事代主尊(ことしろぬしのかみ)があらわれて、それぞれ活田長峡国(いくたのながおのくに)、長田国に祭れと教えられました。このご神託により船団は難事を逃れ、無事帰京を果たされたのでした。
こうしてそれぞれの神が祭られているのが、廣田神社(兵庫県西宮市)、生田神社(兵庫県神戸市)、長田神社(兵庫県神戸市)です。
廣田神社は、「伊勢大神宮御同体」の由緒を持ち、西宮の地名の由来ともなりました。生田神社は神戸の繁華街の中心に位置しますが「神戸」とは神社の祭祀を維持するために神社に付属する民戸の意である「神戸(かんべ)」のこと。これが「こうべ」の語源となったとも言われています。長田神社は、厄除け、厄払いの神社として篤く信仰されています。
ここで取り上げた3つの神社は、平安時代中期に編纂された律令の施行細則「延喜式(えんぎしき)」の「玄蕃寮」の巻で、御神酒を造る神社としてまとめられています。玄蕃寮とは外国使節の接待を受け持つ役所のことです。
新羅の客人が日本を訪れるには「神酒を給え」とあり、神戸市東部の「敏売崎(みぬめのさき)」と大阪の「難波館(なにわのむろすみ)の2か所で新酒を振る舞うことが規定されていました。
敏売崎で振る舞う酒の原料である米は「大和の片岡神社」「摂津の廣田、長田、生田の三社」から合計200束の稲穂が取り寄せられ、生田神社にて醸造がなされる様にと定められました。
これを「灘の生一本」の起源と考えることもでき、国際舞台で振る舞われた最初の日本酒だったと言えるかもしれません。
生田神社では、毎年節分の日には豆まき神事がとりおこなわれ、多くの参拝者で埋め尽くされます。
神事に先立って、神楽と伝統芸能が奉納がなされるのですが、地元・神戸を代表して、丹波流酒造り唄保存会の酒造り唄奉納と灘の生一本などの振る舞い酒がありました。
灘の生一本の発祥に由来する神社でいただく灘の生一本。灘酒の歴史の重なりを感じることができる貴重な機会です。
(文/湊洋志)