大陸より渡来し酒造技術を伝えたとされる秦(はた)一族。以前の記事では、京都にある秦氏が奉った醸造祖神「松尾大社」から酒造りのはじまりを辿りました。

今回は、大阪・兵庫・京都の県境付近を流れる猪名川(いながわ)流域の、池田と能勢(のせ)に焦点をあて、"江戸の下り酒"の銘醸地として繁栄した歴史を紐解きます。

猪名川中流・池田に残る秦一族の跡

渡来した秦氏は、奈良県の葛城や京都府南部の山城を本拠として地方へ勢力を広げ、土木技術をもってこの国に多くの発展をもたらしました。摂津北部の猪名川流域においても、山城の国で桂川の治水工事を施したのと同様に、その卓越した技術を駆使して地域を発展させました。

現在の大阪府池田市に"畑(はた)"という地名が残っています。ここは以前、秦上郷・秦下郷と呼ばれていました。大阪府の北端に位置する能勢の山林から伐採した木材を、猪名川を使い運搬する中継地点として本拠にしたのが、秦上郷・秦下郷を含む摂津国豊嶋郡(現在の大阪府池田市、豊中市、箕面市の付近)でした。

さらに、池田市に現存する伊居太神社・呉服神社はそれぞれ秦上社・秦下社と呼ばれ、五月山公園のある五月山は江戸時代の絵図に「秦山」と描かれているなど、秦氏の残した史跡を確認することができます。

また、5世紀末に造られたとされる鉢塚古墳は秦氏の墳墓とみられており、池田市の住宅街にひっそりとたたずんでいます。境内の奥には古墳の入り口があり、一般の方でも入ることができます。小さな石積みの洞窟を進んでいくと大人が1人入れる程度の狭い通路の奥に灯明が燈された部屋があり、薄暗い中で荘厳な雰囲気に包まれます。

猪名川流域は京の都にさほど遠くなく、川を下れば大阪湾に出られ、北には能勢があり、船材に使うための木材を調達できる条件がありました。このことは、1000年の月日を経て日本の酒文化に大きな革新をもたらしました。

戦国の世から太平の世へ時代は流れ、1600年代になると池田・伊丹が酒造りの生産地として名を高めます。池田においては川辺郡満願寺村(現在の宝塚市)から興った満願寺屋、伊丹には戦国武将として有名な山中鹿之助の孫である新右衛門幸元が創めた鴻池家など酒造家が次々と現れます。

6世紀に拠点として開拓されてからさらに1000年経ち、この地が日本酒の一大生産地となった要因としても、秦氏の残した酒造技術が大きく影響を及ぼしたのではないかと推測されます。

そんな秦氏の墓とされている鉢塚古墳をめぐりつつ、池田市内を散策します。

元禄の最盛期には33軒の酒蔵があったとされていますが、現在は呉春酒造と「緑一」を醸す吉田酒造の2蔵のみとなりました。


五月山古墳 ― 池田の酒蔵がある地域の近くを流れる余野川から

猪名川上流・能勢で秦一族の痕跡を見る

能勢で有名なものとして、能勢妙見山(のせみょうけんざん)が挙げられます。日蓮宗のお寺で源満仲(みつなか)を祖とする能勢氏所縁の寺院です。

満仲と秦氏とのつながりを示す資料として、呉服神社の「呉服大明神略縁起」に醍醐天皇のご時世の兵乱において焼失した神社を復興させた記録や、満仲の家臣が川辺郡山本村(現在の宝塚市山本)に松尾社を勧請したことを記す「摂陽群談」などから散見することができます。

中世以降、統治体制が武家社会に変わる中でも、秦一族の血が影響を持ち続けていたことが見て取れます。


仏称寺と杉原城址

この能勢に杉原という地名があります。杉原には歌垣山があり、その山すそに仏称寺と、杉原城の址が残っています。

場所は丹波と摂津を境にする街道の要地でしたが、ここで採取した杉の木を川に流して下流地域や淀川を通じて京のある山城まで運んだと考えられます。そして杉は、酒道具・桶の材料となり、江戸の下り酒を醸すキーアイテムとなります。

能勢の山と猪名川の周辺は、土木や海運技術といった秦氏から継承された技術をもって、日本酒の生産力を高めていきました。

能勢には現在、秋鹿酒造という造り酒屋が1蔵残っています。地名は残ってはいないですが、以前はこの辺りを歌垣村と呼んだそうで、蔵のすぐ隣には歌垣小学校があります。

蔵から歌垣山のある北の方角へ少し行くと、地黄(じおう)という地名があり、ここが古くは御所に食料や薬草を調達するための所領「地黄御園」であったことを示しています。

「摂津国風土記逸文」には、男女が山の上で歌垣をすることからこの山の名がつけられたと記されています。歌垣とは、帰化系の人々によってもたらされた芸能で、歌舞飲酒の行事です。新年になると村人は、地黄御園からお屠蘇をもち、松尾大社に供えていたことからも、この地が秦氏の土地であったことがわかります。

その土地の風土、地元のお米、水、人々の人情、お酒にまつわる歴史など知ることができれば、より一層お酒の味は格別な味わい深さを醸してくれるものとなります。

(文/湊 洋志)

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