「丹波杜氏」は酒造りの職人集団として全国各地へ出掛けていたと記録されています。最盛期でその数4,000人。江戸時代のころから、丹波篠山とその周辺地域から多くの蔵人を輩出し続けてきました。

今回ご紹介するのは、酒造りという仕事の中で息づいてきた丹波杜氏の昔ながらの職人気質について。先人の苦悩と努力によって築き上げられた丹波の酒造りを通じて、日本酒の魅力を感じ取っていただければと思います。

かっては郷土の誇りであった「丹波杜氏」

丹波の人々は、灘の酒蔵で働くことを誇りとし、同じ丹波や近隣地域の造り酒屋には誰一人行くものはないほどでした。それはひとつのステータスであり、灘の蔵の杜氏になることは、郷土の英雄になれるというような雰囲気があったに違いないでしょう。

近代化とともに労働形態も様変わりした現在も、丹波杜氏組合には百数名が在籍しています。しかし、実際は人数の埋め合わせのために酒造会社の正社員の方がお付き合いで籍を置くケースがほとんど。組合から仕事先を紹介してもらったり、組合を通じて労働条件などの交渉を行う必要性のない人たちばかりなのです。のこるは、すでに杜氏職を引退された名誉職の方々と、実際に季節労働で酒造りを志しているわずか10数名が所属するのみという状況です。

杜氏組合は全国に20組合程度あり、そのうち「南部杜氏」「越後杜氏」「丹波杜氏」は、日本三大杜氏とも呼ばれています。ですが、丹波杜氏組合はこのような状況にあるため、最も早くその役割を終えようとしているのではないでしょうか。

丹波地域から季節労働者の蔵人が減少した要因のひとつに、交通網の発達が上げられます。同じく蔵人の輩出が多い能登や但馬などの他地域と比べると京阪神の大都市圏に近く、酒蔵でなくても仕事に就ける利便性がありました。さらに日本酒業界全体の衰退が他の産業への人材流出を加速させていったことも一因です。

酒造りは、神様の贈り物

tanbatoji_oyassan_01

私はこれまで4人の杜氏のもとで酒造りをしてきました。そこで学んだのは、酒造りには専門知識や繊細な感覚も必要ですが、それ以上に造り手の人間性そのものが酒を醸す際に重視されることです。非科学的な精神論のように聞こえますが、酒という「神秘的な生き物」に対する上で大きな意味があるような気がします。

目に見えない微生物の働きが解明されていないころ、酒はまさに神様の恵みとして尊ばれてきました。この大自然の恩恵への感謝が、酒造りを通して人間を育て、杜氏という地位を築きあげていくのです。科学技術が発達し、酵母の働きが明らかになったからといって、この心持ちはなんら変わるものではありません。自然界の生物の生きようとする力に手伝ってもらいながら、酒造りの世界は成り立っているのです。

蔵人の命を預かる「おやっさん」

明治時代までの酒造りは、杜氏は蔵元と委託契約し、一回分の仕込みの報酬を杜氏が一括で請け負い、蔵人の数やそれぞれの役割、給与など采配をしていました。酒造りのすべてを蔵元から任されているわけですから、杜氏は大きな権力と非常に重い責任を同時に持つことになります。

蔵人のなかには、12歳ほどの子どもの時から働きに出され、酒屋修行を始める者もいました。杜氏は、蔵人一人ひとりの命を親元から預かる、文字通り親代わりとなる「おやっさん」だったのです。杜氏と蔵人たちとの結び付きはとても深く、ひと冬を朝から晩まで一緒に過ごすなかで生まれる家族的な連帯感が酒造りを支えていました。

特に灘のような大きな蔵の中では、蔵人同士のいざこざや蔵の生活での不平不満が絶えませんでした。そんな状況のなか、無事に皆造(かいぞう)の日を迎えるまで、人々を統率することが杜氏の役割です。仕込みの出来の善し悪しのみならず、働く人の生活の全てが、杜氏の人間性によって左右されるほど大きい影響力を持っていたと思われます。

「こんなんがまた不思議とええ酒になるんや」

tanbatoji_oyassan_02

私が酒造りの仕事を始めたのは、京都府の小さな造り酒屋の蔵でした。そこで最初に仕えた杜氏はその当時70代後半の方。お歳を召されていましたが気力は少しも衰えておられず、とても馬力のある方でした。10代で灘の蔵に入った酒造り50年以上の大ベテランで、昔の蔵のお話を毎日聞きながら共に仕事をしていました。

ある程度仕事に慣れたある日のこと、私は不注意から大きな失敗を犯してしまいました。仕込み水をポンプで送る際、間違えて隣のタンクにホースを突っ込み、そのまま水を送ってしまったのです。

そのタンクはすでに三段階の仕込みの最後である「留め仕込み」を終えた後のやや発酵が進んだタンクで、それまでの仕込みを無駄にしてしまいかねない大変に困った事態を招いてしまったです。

もし最初の添え仕込みや仲仕込みなら、発酵にはかなりの悪影響がでるものの、その後の段階で分量を加減し修正することもできます。ですが、最終段階を終えた上に大量の水を加えてしまったのですから、たまったものではありません。青ざめながらミスの報告をするために"おやっさん"の元へ向かいました。当然、地震と雷のついた大目玉を喰らいます。酒をひと仕込み駄目にしたかもしれない自責の念と、自分の集中力の無さに対する悔しさと後悔で一杯で、かえって怒声をもらったほうが心が紛れる気分でした。

それからしばらく経ったある日の晩、夕食を済ませたあとに、"おやっさん"は細い目の奥に微笑を潜ませながら、私にこう語りかけました。

「酒はいっぺん流してしもうたら二度とすくい上げたり拾うことはでけへん。せやけど、長いこと酒造りやっとったらこんな時どうしたらええいう方法はなんぼでも解るようになる。こう言う時に何とかすんのも杜氏の腕なんや」

そして、次のひと言が、さらに忘れられない言葉でした。

「こんなんがまた不思議とええ酒になるんや」

これが丹波流の酒造りの極意ではないかと、勝手に解釈しました。不具合の起こった仕込みでも、できあがってみたら思いもよらず良い酒になっているというのです。

自分が盾となって部下を守る「頼うだる人」

本当はそんな都合のいい話ではないのですが、とにかく一度ミスがあった醪(もろみ)というのは上槽までの数日間、より一層の神経を注いで経過を見守り続けなければなりません。それが無事できあがった時、それまでの苦労と安堵感がお酒の味を贔屓目で捉えてしまうので、他のより美味しく思わせるということなのでしょう。

「いつも寝る間もなくひと冬働きづめの生活で誰もがミスを犯してしまうけれど、普段の頑張りを神様は必ず見てくださっている。酒は神様が造るものだから、それを人間があれこれ心配しても仕方がない。あとは神様がちゃんと発酵を導いてくれるから心配するな。もし会社のもんがしゃしゃり出てきて文句を言うもんなら『神様の造ったもんに文句抜かすな!!』と、一喝してやるわい」

時に自分が盾となって部下を守る。酒造りの一切の責任を背負い込んだ心意気と蔵人への温かい心使い、これが"おやっさん"というものなのだと、改めて思い知らされました。「頼うだる人」という言葉がありますが、まさにそのような人でなければ務まらない杜氏という職に、昔ながらの職人の精神性が今なお息づいているのを感じます。

蔵人は"おやっさん"の人柄、人間性を信頼し、ひと冬を共にします。その大きな人間力は、私がこれまで勤めた他業種の会社で出会った管理職や上司とは異なる感覚です。組織のなかの上下関係だけではなく、家族や身内のもの同士のような繋がりと信頼関係をひと冬の間に形成していく、酒蔵独特の人間関係ではないかと思います。

"おやっさん"という言葉は寝食を共にしたもの同士であるからこそ、そう呼べる親しみと尊厳のこもった呼び名です。私は幸運にも白鶴や大関、菊正宗といった大きな蔵の杜氏の方々の十年来のお付き合いをさせていただいていますが、その厳しい酒屋生活で培われた包容力に対する尊敬の念は一生変わらぬものでありましょう。

(文/湊洋志)

関連記事