「酒造り唄」とは、酒造りの工程の中で、蔵人たちによって作業しながら歌われる仕事唄です。

日本三大杜氏のひとつ「丹波杜氏」の発祥の地・兵庫県篠山市では「丹波流酒造り唄保存会」を結成し、日本酒文化の発展と酒造り職人の残した伝統文化である酒造り唄の伝承活動を行っています。

「丹波流酒造り唄」とは?

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酒造り唄は、時計のない時代に作業を行いながら唄って、おおよその作業時間をはかるための作業唄でした。仕事の工程ごとに「秋洗い唄」「酛摺り唄」「仕舞唄」と呼ばれる唄があります。日本三大杜氏である丹波杜氏の唄う酒造り唄は、「丹波流酒造り唄」と言われていました。

丹波流酒造り唄は、池田や伊丹で酒造りが始まった1600年代には既に歌われていたと言われています。この地で丹波の酒造り人の出稼ぎが始まって以来、以降400年ほどの年月をかけて受け継がれてきましたが、昭和30年代後半の酒造業の機械化により実際の酒造りでは唄われなくなりました。

丹波流酒造り唄保存会は、まだ酒造り唄を歌いながら実際にその作業を経験した丹波杜氏が各蔵で唄われていたそれぞれの流儀を持ち寄り、2007年に結成されました。酒造り唄を伝統文化として後世に継承していくために、定期的に講習会を開催するなどの活動を行っています。

杜氏経験者が揃った「丹波流酒造り唄保存会」

丹波流酒造り唄保存会は、酒屋勤めや酒造りに縁のあるメンバーで構成されています。

保存会の会長は松本氏。神戸酒心館と合併した灘の蔵に勤めた経験があり、会員随一の美声を誇ります。唄の指導にあたるのは、日本杜氏組合連合の前会長であった富久錦株式会社の元杜氏・小林氏と、白鶴酒造で杜氏監を勤めた中澤氏です。

保存会には杜氏経験者が多く、菊正宗酒造の名誉杜氏・小島氏、地元篠山の鳳鳴酒造の杜氏・中川氏、大関株式会社の元杜氏・船越氏、白鶴酒造の元杜氏・佐古田氏、京都の南丹市美山に蔵のある大石酒造の杜氏・倉垣氏が所属しています。

そのほか、辰馬本家の社員として酒造りに携わる竹内氏、昨年杜氏に就任した剣菱酒造の籔田氏。丹波市の青木酒造に酒米を提供する竹内夫妻、ご主人が以前酒造工であった岡崎氏など若手のメンバーもいます。

日本酒の歴史とともにあった酒造り唄

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7/23(土)に篠山市立青山歴史村にて、丹波流酒造り唄保存会による酒造り唄の披露が行われました。会場にはのびのびとした生の歌声が響き、丹波杜氏の心意気の一辺を感じられたのではないでしょうか。

酒造り唄は、現在7つの唄が伝承されいます。そのなかで一番有名なのが「酛擦り唄」で、酒母の仕込みで行われる山卸しという作業での仕事唄です。他には灘の酒造り唄の民謡で良く唱われる「秋洗い唄」という唄もあります。

「寒や北風 六甲颪 灘の本場で桶洗い」

という歌詞で始まる「秋洗い唄」は、大きな木桶の中に入って桶を洗う時に唄われます。

この木桶の発明によって酒造りの大量生産が可能になり、集団作業での酒造りが始まりました。その作業の効率化を図るため仕事唄が採用されたと考えられます。酒造りが始まる秋に蔵での最初の仕事は、使用するすべての桶や道具をきれいに洗い上げること。「秋洗い唄」は、酒造りの季節の訪れを告げる季節の風物詩として親しまれていたと思われます。

そして、大正から昭和の初めのころにホーロータンクが導入されたことによって「秋洗い唄」が唄われることが無くなりました。つまり、木桶の登場と共に現れ、また共に姿を消していったのです。

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酒造り唄は、一般には作業時間を計るためのストップウォッチ代わりに使われていたと言われています。ですが、そのような技術的なこと以上に、働く人々の気持ちを和らげ心を統一する精神的な役割の方が大きいように思います。

蔵の中で寝食を共にする蔵人同士の間には様々なトラブルが起こり、常にストレスを抱えながらの生活であったのでしょう。酒造り唄は、プライベートの全くない空間での緊張を和らげ、酒造りの苦楽を共に乗りきっていくことへの一役を担っていたのではないでしょうか。

灘の酒造会社には複数の蔵があり、各々の蔵に杜氏がいて、どの蔵が一番良いお酒が出来るか常に競争が行われていたといわれています。常に良いお酒を造るのは仲間同士の調和がとれた蔵であったとか。杜氏の力量の第一はチームをまとめあげる統率力ですから、唄の上手な者は早く出世をしていのだとか。

(文/湊洋志)