19世紀後半、江戸時代が終わり、新たな国づくりを始めた明治政府は地租とともに酒造税を国家収入の柱としました。そのため、重要な財源である酒税を確実に徴収するために、想像を絶する厳しい取り立てが行われていたそうです。

また、対象となる酒量を正確に把握することに加え、その量を少しでも増やすことが政府の最重要課題でした。

そこで明治政府は、納税義務を強制するような厳しい政策とは別に、

  • 酒造技術の改良とその指導
  • 農家などで造られていた自家用酒の製造禁止
  • 新しい技術の開発を目的とした大蔵省醸造試験所の設立

など、酒造家を支援する政策も実施しました。

酒造技術の改良とその指導

明治時代になっても、江戸時代以来の酒造りがそれぞれの地域や個々の酒蔵で秘伝口伝として受け継がれてきたため、まさに酒屋万流、さまざまな造り方が存在していました。同じ量の米を使いながらも、酛造りや醪造りなどそれぞれの工程における割合や作業内容がまちまちであり、搾られる酒の量や質にも大きなばらつきがあったようです。

このままでは酒造検査をマニュアル化することができず、蔵ごとに検査方法を変えなければなりません。そうすると、検査員の作業が煩雑となるばかりではなく、それぞれの工程の量的な流れを正確に把握することができず、仮に不正があってもそれを見抜くことが難しくなります。

そこで明治政府は収税確保と脱税防止を目的とする「酒造検査制度」を設け、全国の酒蔵に対して、一家相伝で門外不出とされてきた、すべての酒造り技術を強制的に公開させました。そこには、当時最先端だった灘の技術も含まれており、その技術がマニュアル化されて全国の蔵元へ導入されたおかげで、全国の酒造技術は一気に高まったのです。

農家などで造られていた自家用酒の製造禁止

農村部では、農民たちが過酷な農作業の疲れを癒す飲み物として、自家用の酒(主に濁り酒)を造り愛飲してきました。しかし、酒造税が国家収入の大きな柱となり、酒税の額が上がる中で、この酒税が掛からない自家用酒が造られ飲まれている矛盾が指摘されるようになります。

そのため明治政府は明治13(1880)年に、その製造量を"一人当たり"一期間一石の制限を設けますが、酒造税に対する負担が大きくなるにつれ酒造家からのクレームも多くなり、同15(1882)年には"一家"一期間一石と制限を厳しくします。

さらに紆余曲折の末、ついに明治32(1899)年1月1日より自家用酒の製造を全面禁止としたため、表面的には自家用酒の製造は姿を消すこととなりました。

新しい技術の開発を目的とした大蔵省醸造試験所の設立

日清戦争に続く日露戦争遂行の財源を確保するために、明治政府は増税策と並行して清酒の生産量増加を計りました。そこで、伝統的・秘伝的な酒造り技術に代わる近代的・科学的な醸造技術の開発と普及を目的として設立されたのが醸造試験所です。

これは、相次ぐ酒税の増税に反対する酒造家に対する見返りとして企画されたもので、当初は農商務省が中心となって大蔵省に設立を呼び掛けたものでしたが、酒税による税源を確保するという目的から、最終的には大蔵省へ所管が移された経緯があります。

現在は独立行政法人酒類総合研究所と名前を変え、酒類の高度な分析や鑑定はもちろんのこと、講習や全国新酒鑑評会の開催などを行なっています。

・醸造試験所の設立趣旨
明治37(1904)年4月に創立された醸造試験の設立趣旨は以下の3点です。

第一に醸造改良をすべき研究課題として
(1) 清酒醸造方法 (2) 清酒の品質と原料処理 (3) 建物・容器・機械・器具
第二に学術的に解明すべき研究課題として
(1) 生産量の増加 (2) 生産費の減少 (3) 酵母、麹菌、腐敗菌の性質 (4) 清酒の貯法
第三に清酒の腐敗を防止し、安全な醸造方法による四季醸造技術を確立して、近代的工場経営による機械制大規模酒造業の実現を展望する

・酒造家及びその子弟の教育
醸造試験所は、酒造家及びその子弟の教育を目的に酒造講習会を実施しましたが、第一回講習修了者が出たのを機会に、彼らを中心とした酒造家や研究者と醸造試験所を結び付けた上で、研究結果を酒造関係者に公開しました。

さらに、これを応用させるための機関として醸造試験所内に「醸造協会」が組織され、酒造家及びその子弟の講習は醸造試験所で行い、杜氏など現場に携わる作業員の講習は醸造協会が引き受けました。

・醸造試験所の研究成果
醸造試験所が設立されて間もない、明治42(1909)年には醸造技師の嘉儀謹一郎らが「山卸廃止酛(山廃酛)」を開発し、翌43(1910)年には江田鎌次郎が「速醸酛」を開発するなどの成果をあげました。これを受けて、全国の鑑定部技術官たちが新しい技術の実地指導を行いました。

その結果、日本酒造りの技術は理論的にも現場の作業においても飛躍的に向上。酒質の向上は元より、酒造コストが下がり、現場作業も効率化されました。

・酒母の重要性
日本酒造りにおける酒母は重要な工程ですが、その歴史は室町時代の「菩提酛」に始まり、江戸時代になると灘で「生酛」として完成します。醸造試験所が開発した「山廃酛(山卸廃止酛)」は、「生酛」の山卸(櫂ですり潰す作業)という重労働を廃止したもので、「速醸酛」はあらかじめ乳酸を添加することで、さらに作業の簡略化と時間の短縮が計られたものです。

現代ではさらに簡略化した「高温糖化酒母」が生まれ、ついには固形酵母を使う「酒母無し仕込み」まで現れました。しかしその反面、市場の多様化とともに酒造りにおける酒母が改めて見直されており、伝統的な酒として「生酛造り」や「山廃造り」などが復活し、その複雑で深い味わい、個性的な味でそれぞれ好評を博しています。

(文/梁井 宏)

関連記事