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政策によって姿を消した熟成古酒―明治時代における造石税と日本酒の関係

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鎌倉時代から江戸時代に掛けて書かれた文献を見ると、3年、5年、9年と長く貯蔵熟成させた酒は特別な酒ではあったが、格別に珍しいものではなく、米で造った酒を長く熟成させると美味くなるということは、広く庶民にまで知られていたことがわかります。

ところが、その長く熟成させる酒は、明治時代になると忽然と姿を消してしまうこととなります。その要員は、酒税を国の重要な財源とした、明治政府の政策によるものでした。

米を原料とする日本酒の宿命

日本人の主食である米を原料とする日本酒は、常に食料の供給と競合せざるを得ない宿命にありました。時の為政者は、豊作続きで米が余るとその価格が下がり過ぎるのを防ぐため、酒造りを奨励。逆に、凶作や飢饉で米が足りなくなると、食料としての米を確保するためばかりではなく、その価格が高騰し過ぎないようにするために酒造制限令を出して、酒造りに使う米の量を厳しく制限しました。

260年余り続いた江戸時代にその例を見ると、天候不順などで米の作況が悪く、主食の米さえ充分に確保できないことから、江戸幕府が出した酒造制限令は61回にも及びました。それが解除され、必要なだけの酒を自由に造ることができたのは、わずか6回。しかし、幕府にとって酒は重要な税収源であると同時に、米の価格の調整的な役割も持っていたため、仮に大凶作が続き、食料の米さえ十分に確保できない年であっても、完全に酒造りを禁止することはなかったのです。

日清・日露の両大戦は酒税で戦った

江戸時代の後、新しい国づくりを始めた明治政府は、資本主義経済の発達過程において、地租と共に酒造税を国家財政の柱としました。そのため、酒造税への負担は膨らむ一方で、国の全租税収入の中に占める酒造税の割合を見ると、明治11(1878)年には12.3%であったものが、明治21(1888)年には26.4%と膨らみ、さらに、日清戦争後の明治32(1899)年には実に38.8%と、地租の35.6%を上回るまでになっています。これが”日清・日露の両大戦は酒税で戦った”とまで言われる所以です。

明治政府の「飴と鞭」政策

明治政府はこの重要な酒税を確実に徴収するため、
・酒造税の納税義務を強制する
・酒造業者を保護する
という、酒造家にとって「飴と鞭」の政策を実施しました。

明治政府がこの税制を制定した一番の狙いは、いかなる事情があろうとも、予定した金額の酒税を確実に徴収すること。そのポイントとなるのが従量税方式による「造石税」でした。

そもそも、物品に対する課税方法には、販売価格に応じて税額が変る「従価税方式」と、販売価格には関係なく、量に対して一定額を課税する「従量税方式」があります。一般的に、いずれの課税方法でも、商品が販売されるときに課せられます。ところが「造石税」は、その酒が売れる売れないに関係なく、酒が搾られて量が確定すると同時に掛けられ、納税額が決定しました。

多くの酒蔵は、その年に売る予定の量を、冬の3~4か月の間に造ってしまい、その酒を貯蔵熟成させながら、1年間かけて販売することになります。しかし、造石税では、貯蔵中の酒にはすでに重い税金が掛かっており、その酒が売れる売れないには関係なく、その年度内に全ての税金を納めなければなりませんでした。

その貯蔵中の酒が計画通り順調に売れてくれれば、それほど大きな問題にはなりませんが、明治時代は現在と比べると、酒を悪くせずに貯蔵する技術も、安全に貯蔵できる容器(桶)もまだまだ未熟でした。そのため、貯蔵中の酒が悪くなって売り物にならない事態や、木の桶から酒が漏れ出してしまうトラブルも頻繁に起りました。

酒造家にとって、売り物そのものがなくなってしまう、このようなトラブルは膨大な額の損失になります。さらに、追い打ちをかけるのが、重い造石税です。酒を搾ると同時に課せられた税金は、貯蔵中に酒が腐って売り物にならなくなろうが、酒が漏れて無くなってっしまおうが関係なく、有無を言わせず、厳しく取り立てられたのです。

消えた熟成古酒

「造石税」が始まると全国の蔵元は、酒が腐ったり、亡失する事故を防ぐ対策を行いながらも、一刻も早く酒を売り切ることに全力を注ぐようになりました。そのため蔵元は、江戸時代に珍重された3年、5年と熟成させた酒の存在や、酒を長く熟成させると美味くなることを知りながらも、厳しい現実の前にその挑戦意欲は失われ、熟成古酒は完全に姿を消すこととなりました。

再び熟成古酒への挑戦が始まったのは、日本の経済が復活から成長への軌道に乗り始めた昭和30(1955)年代も後半になります。国(鑑定官室)による指導や、級別制度、酒を必要以上に長く貯蔵させない在庫規制に抵抗しながら、細々とではありますが熟成古酒(当時は長期貯蔵酒と称した)に取り組む蔵元が現れ、昭和60(1985)年にそれらの蔵元約20社が集まり「長期貯蔵酒研究会」を発足させました。しかし、その頃は吟醸酒がブームとなり始めており、熟成古酒は奇をてらっているだけだと馬鹿にされたそうです。

(文/梁井 宏)

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梁井 宏

金沢の創業1625年の老舗酒蔵で、40年余りにわたり、酒造管理、商品開発、市場開拓などに携わってきました。同社を退職後は、酒関連の情報収集と併せ、現役時代からこだわってきた、「熟成古酒」の啓蒙活動に力を入れています。