灘酒の受賞がなかった第8回全国清酒品評会
大正10年(1921年)、この年に行われた第8回全国清酒品評会は、審査基準の変更や吟醸造りの出現など日本酒業界の激しい変化の中で行われました。優等賞34点のうち広島県が21点、秋田県が5点、岡山県が3点、灘酒の受賞は0点という結果で終わりました。
この第8回全国清酒品評会において広島の「賀茂鶴」が優等1等から3等までを独占するという、前例のない快挙を達成しました。
第9回全国清酒品評会での灘酒のボイコット
第8回の品評会で審査員を務めた中の1人、速醸酛による酒造りを確立した江田鎌治郎技師は、優等酒の資格条件として1.色沢淡麗で青みを呈し、2.香気芳烈、3.風味濃醇であることを掲げています。
一方、このころの市場のニーズは、逆に極力淡麗で飲みやすい酒が求められていたと考えられます。実際に、第8回全国清酒品評会で灘酒は1つの優等賞も取れませんでしたが、市場では相変わらず強さを発揮していました。つまり、市場でいうところの良い酒と品評会でいうところの良い酒の意味に大きなズレがあったのです。
現代と違って一度に仕込める酒の量が少なかった当時、灘のような仕込みが多い大手の蔵では市販酒の生産に集中せざる得ません。また、当時の品評会に出品される吟醸酒は、現代の吟醸酒と違って濃厚甘口で旨味の強い味。市場で求められる淡麗辛口の酒ではありませんでした。
このような状況であったために灘酒は、市販酒を供給することを優先し、結果として全国清酒品評会への出品をボイコットします。このボイコットの判断は顧客優先という意味では正しかったと言えます。ただ、皮肉なことに灘酒がボイコットした第9回全国清酒品評会は前回の出品数を越える4341点の出品がありました。伏見は、昭和3年(1928年)に行われた第11回全国清酒品評会で同じく参加を取りやめます。
昭和9年(1934年)に行われた第14回全国清酒品評会では、5169点という最大規模の出品が行われるまでに拡大しますが、戦争の統制経済が厳しくなる昭和13年(1938年)に中止となりました。
全国清酒品評会の復活と終焉
戦争の激化により中断された全国清酒品評会は昭和21年(1946年)に再開されましたが、出品数は387点と戦前とは比較にならない小さなもの規模での開催でした。再開した全国清酒品評会は昭和26年(1951年)を最後に再び中止となります。
その後、日本酒造組合中央会の主催により、昭和27年(1952年)に全国清酒品評会(出品数3817点)と形を変えて再出発しましたが、昭和33年(1957年)の第4回全国清酒品評会(出品数7118点)を最後に品評会自体が開催されなくなりました。中止の理由については、1.審査基準の困難性、2.受賞制度の問題、3.審査の処理能力の3つが挙げられます。
この後、日本国内で全国的な清酒品評会が行われることはなく、日本酒の品質向上と技術習得を目的とした全国新酒鑑評会が昭和21年(1946年)以降続けられています。
(文/石黒建大)
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