アメリカやノルウェー、ブラジルなど、海外でもお酒が造られていることは日本酒ファンの方なら耳にしたことがあるかもしれません。そんな海外醸造の日本酒のひとつ、「全黒(ぜんくろ)」というニュージーランドで造られているお酒をご存じですか?
美しい氷河と万年雪に覆われたニュージーランドのクイーンズタウンにも、日本酒に魅せられて酒造りを始めた人物がいます。2015年の醸造開始から、まだたったの2年。ニュージーランド唯一の酒蔵「全黒」ディレクター兼杜氏を務めるデイビッド・ジョール氏に、ニュージーランドで酒造りを始めた背景や、その醸造の工夫についてお伺いしました。
日本文化に惚れ込み、ニュージーランド初の日本酒造りを決意
デイビッドさんは、17歳の頃に交換留学で日本を訪れて以来、多くの時間を日本で過ごし、次第に日本文化に惚れ込んでいったそうです。20年ほど前からは、クイーンズタウンで「Tanken Tour(タンケンツアー)」というツアー会社を日本人観光客向けに展開しています。
そんな中、以前から大好きだった日本酒を、日本人の奥様や、同じく日本好きのニュージーランド人の同僚と一緒に飲んでいた際、この国には酒蔵がひとつもないことに気づき、ビジネスチャンスだ!と、地元クイーンズタウンで酒造りを始めることを決意しました。
「同僚のクレッグとリチャードは、全黒の会計や営業、Webサイト制作などを、Tanken Tourの仕事の傍ら手伝ってもらっています。もともとは、ツアー業務と酒造りをみんなで分担しようと考えていたのですが、酒造りは集中して専念しないといいものがつくれないということが分かり、妻と私の2人が専任で行うことになりました」とデイビッドさんは語ります。
酒造りの技術は、「一品」を製造する吉久保酒造(茨城県水戸市)と、カナダの酒蔵YK3サケ・プロデューサーで1年半をかけて修行されたデイビッドさん。
「酒造りの行程は伝統的な日本の手法を踏襲していますが、規模・素材・設備などを考えると、ニュージーランドでは日本とまったく同じようには醸造できません。そこで、私がイメージしていたのとほぼ同じ規模で酒造りをしていたカナダの酒蔵を参考にしました」
しかし、酒造りのための素材や設備をニュージーランドで揃えるのには、大きな苦労があったようです。
試行錯誤を繰り返してやっと手に入れた、お米・麹・酵母
「酒造りには水・米・酵母・麹が必要です。水は問題ありませんでした。ここクイーンズタウンには、南アルプスの氷河と雪解け水が豊富にあります。しかし、お米や酵母、麹は適切なものがなかなか見つけられず、トライアンドエラーを何度も繰り返しました」とデイビッドさんは当時を振り返ります。
「お米」の壁
日本からの米の輸入は難しく、全黒ではカルロースというカリフォルニア米を、アメリカから60%に精米された状態で輸入しています。カルロースは酒米の一種で、デイビッドさんが修行されたカナダの酒蔵でも同じものを使用しているそうです。
酒米の王様と言われる山田錦をいつか使ってみたい、と考えていたデイビッドさん。取材に訪れた数日前に、山田錦を作っているというアメリカのアーカンソー州の農家とコンタクトが取れたそうで、「もしかしたら山田錦で酒造りができるかもしれない!」と、わくわくした表情を見せてくれました。
「酵母」の壁
適切な酵母の入手も難しく、試行錯誤を繰り返しました。
「アメリカでは誰でも酒用の酵母を購入できるのですが、ニュージーランド国内では手に入らず、アメリカからの輸入も断られてしまいました。試しにパン酵母で醸造してみたこともあります。その次はラガー用のビール酵母、そしてワイン酵母も使ってみました。しかし、求めていた味には及びませんでした」と、当時の状況を語ってくれました。
今はやっと、901号の協会酵母を手に入れることができ、イメージする味を造ることができるようになったそうです。
「麹」の壁
酒蔵を建設した当初は、麹も自分たちで造ろうと考えていたデイビッドさん。麹室も酒蔵に設置しました。しかし実際に酒造りをはじめると、麹造りまでは手が回らず、日本から冷凍麹を購入してきて試したこともあるそうです。その後、ニュージーランドのネルソンで味噌をつくっている麹づくりのプロを見つけ、麹づくりを依頼するようになりました。
麹室として作った、四方を木で覆われた部屋を見せてもらいました。現在は断熱材を敷き冷却室として使用しているそうで、麹室を想定していたこの部屋の大きさがぴったりなのだとか。
「素材と醸造方法は、9回目の醪造りの時点でほぼ安定しました。今は12回目の醪造りを終えたところです。ここは年中涼しいので、夏でもお酒をつくり続けることができます」と、ニュージーランドでの酒造りを振り返ります。
マヌカやワインで有名なニュージーランドならではの醸造設備
近年、日本でも注目を集めた「マヌカハニー」という蜂蜜。この原料となるマヌカはニュージーランドに多く生育し、先住民族マオリの時代から殺菌作用のある木として重宝されてきました。このニュージーランドらしさを酒造りに生かせないか、と考えたデイビッドさん。ここでも数々の試行錯誤を重ねます。
「醪をかき混ぜるかいぼうに、マヌカの木を使用しています。かいぼうの素材に使うと、殺菌効果もあり、ビタミンも染み出てきます。他にも様々なものに使えないかと、実は1度、お米を蒸すときにマヌカの花や葉を一緒に蒸したことがあります。香りが強すぎて使えませんでしたが(笑)」
雫絞りを吊るす棒にもマヌカの木が使われています。マヌカの木は硬く水が染み込みにくく、洗いやすいとのこと。さらに、槽絞りのために、地元の風呂釜制作会社に特注サイズのタンクを依頼。マタイの木でつくった板を敷き、その上に石を置いた重みで絞っています。昔ながらの製法ですが、全黒での醸造量には適しているそうです。
フィルタリングには、ワイン用の機材を使用しています。この蔵で唯一の機械で、他は全て手作業で行っています。
冷蔵庫には試作品や検証用のお酒が保管されていました。
「例えば、にごり酒の滓がどれほどの量と時間をかけて沈むのかを検証しています。にごり酒を瓶詰する際、ボトルによって滓の量が異なってはいけないので、このように調べていました」と、酒造りのスキルアップにも余念がありません。
日本酒に親しみのない地元の人々にも受け入てもらう工夫
全黒では、純米酒のみを醸造しています。ニュージーランド人は、無添加のワインを好んで飲むなど、健康志向が強いためだそうです。オリジナル純米酒、ワカティプ、雫絞り、にごり酒、の4種類を醸造しています。
「全黒オリジナル純米酒」は、日本酒に馴染みのない方でも飲んでいただけるよう、アルコール度数を低めに設定し、軽やかな飲み心地をお楽しみいただけます。槽絞りと雫絞りをミックスして造っています。
「ワカティプスリーピングジャイアント」は、"マタウ"というクイーンズタウンのワカティプ湖に眠る伝説の巨人をイメージした、力強い味に仕上がっています。醪を槽で絞り、うまみが凝縮されています。
「雫絞り純米酒」は、醪を袋に入れてタンクの上につるし、落ちてきた雫だけを集めました。最も高級なお酒が採れると言われている製法です。料理の味を引き立てる繊細な旨みをお楽しみいただけます。
「純米にごり酒」は、醪を完全に絞らずに、澱を残したまま瓶詰したものです。澱によるかすかな刺激とまろやかな口当たりをお楽しみいただけます。にごり酒はニュージーランドではあまり手に入りにくいためか、全黒での一番人気だそうです。
「主に日本食レストランやアジアンフュージョンレストラン、最近では西洋料理のレストランでも取り扱いが始まりました。現在は、ニュージーランド国内のみの提供なので、そうですね、将来的には輸出して全黒を世界の人に楽しんでいただけるといいですね。
しかしまずは、ニュージーランド、特に私たちの故郷であるクイーンズタウンを中心に、日本酒を広めたいです。日本酒ほど、日本文化と結びつきの深いものはありませんからね。料理、年中行事、四季、器、手酌と注ぎ合いのコミュニケーションなど、日本酒を通して、日本の素晴らしさを地元の人たちに伝えていきたいです」と語ってくれました。
生き生きと楽しそうにお酒のことを語るデイビッドさんからは、お酒への、そして日本への愛がひしひしと伝わってきました。多くの壁をひとつひとつ乗り越え、それらをおもしろおかしく語ってくれるデイビッドさんの、あくなきチャレンジャー精神に感服です。
まだ酒造りを始めてたった2年の全黒ですが、なんと2016年8月に行われたロンドン酒チャレンジでは、雫絞り純米酒が金賞、にごり酒が銀賞に輝きました。ニュージーランドでしか手に入れることのできない全黒。訪れた際には、ぜひ一度、お試しください。
(取材・文/古川理恵)