長い櫂棒を使って、醪(もろみ)のタンクを力いっぱいかき混ぜる「櫂入れ」。日本酒造りにおいては、欠かせない作業のひとつです。

その櫂入れをまったく行わず、酵母の働きに任せた自然のままの酒造りを続けるのが、秋田の銘酒「雪の茅舎」や「由利正宗」などを醸す、明治35年(1902年)創業の齋彌(さいや)酒造店。国の登録有形文化財にも登録されている美しい蔵屋敷を訪れました。

高低差6メートルの"のぼり蔵"

鳥海山のふもと、秋田県県南の由利本荘市石脇地区にある齋彌酒造店。自然の地形をうまく利用した蔵の構造が大きな特徴のひとつです。傾斜地に建つ蔵の高低差は6メートル。窯業の「登り窯」に似ていることから、東京農業大学教授の小泉武夫博士が、"のぼり蔵"と名付けました。

齋彌酒造店の登り蔵の内観

蔵内に入ると、緩やかな坂道状の通路がまっすぐに伸びています。傾斜があることで一見不便なのではないかと思ってしまいますが、「高いところから低いところへ向かって工程が進むため、実はとても使い勝手が良いんです」と、常務取締役の佐藤昭久さんが話してくれました。

また、通路を常に風が吹き抜けることで、雑菌の繁殖が抑えられるというメリットもあるそうです。

齋彌酒造店のステンレス製の甑

一番高い位置にある精米所から、精米された米がホースを通じて窯場へと運ばれていきます。窯場には、米を蒸すステンレスの甑や洗米に使う大きな桶、米を冷ます放冷機などが並んでいます。

齋彌酒造店の洗米場

洗米の回数は4回。徹底的に糠を落とします。米の品種や酒質などにかかわらず、すべての米を手洗いをするそうです。1日に何時間もかかる大変な作業ですが、齋彌酒造店の酒造りにとって、手を抜けない工程のひとつです。

秋田杉でつくられた清潔な麹室

続いて、麹室へ。床や壁、柱など、すべて分厚い秋田杉でできています。室内には、乳製品や生クリームのような甘い香りが漂っていました。蒸米に種麹をふりかける「種切り」の作業は、一般的にこの麹室で行われます。しかし齋彌酒造店では、窯場にある放冷機の上で麹をふりかけます。麹菌が木目に入り込んでしまうのを防ぐためだそうです。

齋彌酒造店の秋田杉でできた麹室

さまざまな微生物の力を必要とする日本酒造りにおいて、清潔な環境を保つことは重要です。日本全国どの蔵もきちんと掃除されていますが、齋彌酒造店の麹室は塵ひとつないほどきれいに磨かれ、空気が澄んでいるように感じました。

齋彌酒造店の秋田杉でできた麹室外観

「『掃除は汚れる前にする』がモットーなんですよ」と佐藤さん。徹底的に掃除をしています。また、30年くらい前から、掃除や洗浄にホルマリンなどの薬剤を使っていないそうです。この麹室には、微生物にとって快適な環境が整っているのです。

櫂入れをせず、酵母の働きに任せる

齋彌酒造店の酒母室

仕込みタンクのあるフロアの2階には酒母室があります。隣の部屋からは、階下の醪の様子を覗くことができました。プツプツと泡立つ醪の表面。日数ごとに醪の表面が異なるのがよくわかります。

齋彌酒造店の醪の状貌

タンクの上には、ステンレスや木の枠が取りつけられ、温度計がぶら下がっているだけ。洗浄するための道具はありますが、当然ながら櫂棒は見当たりませんでした。

一般的な酒造りでは、1日に2回ほど櫂入れをして、醪の温度などを平均化します。齋彌酒造店では、平成7年(1995年)に櫂入れを撤廃し、酵母の働きにまかせて自然に対流させるやり方を採用しています。

齋彌酒造店の醪の状貌

高橋杜氏は数年をかけて比較実験し、品評会でも良い結果が出たことから、櫂入れしないことを決めたようです。ただ、洗米のやり方や掃除の徹底など、蔵の環境によるものが大きいため、「櫂入れをしないことがすべての蔵にとっての最善ではない」とも話していました。

高橋杜氏の目指す酒造りとは

蔵見学の途中に、高橋藤一杜氏にお会いしました。穏やかで上品な雰囲気で、高橋杜氏の造るお酒と共通する部分があるような気がしました。

齋彌酒造店の高橋藤一杜氏

櫂入れしない、加水しない、濾過しない。齋彌酒造店の酒造りの核とも言える、"三無い造り"を築き上げてきた高橋杜氏。「お酒は人間ではなく、微生物が造るもの」という考えから、これまでの常識を疑い、この蔵に合わせた新しい取り組みに挑戦してきました。

「近年はあえて新しいことにチャレンジせず、今まで積み上げてきた『雪の茅舎』のブランドをより向上させ、確立することに力を入れています。酒質を安定させ、完成度を高めていきたいです」と話していました。

飲んでくれるお客さんが、どんなものを求めているかを考え、お客さんの気持ちや立場に寄り添うことを常に心がけているそうです。

齋彌酒造店の酵母

高橋杜氏は蔵付き酵母を採取して、自家培養にも取り組んでいます。11種類の自社酵母のなかから、酒質に合わせて選択しているとのこと。山田錦を100%使用した純米吟醸酒「美酒の設計」では、その年の米の出来に合わせて毎年酵母を変え、味わいや風味の変化を出しているのだそうです。

齋彌酒造店の自社酵母

米づくりにも携わる蔵人たち

酒米はすべて契約農家から買い上げたもの。蔵の中には、秋田の県産米「秋田酒こまち」をつくる生産者の写真が飾られていました。良質な米をつくってもらうために肥料を適量にしてもらうなど、米づくりの指導や勉強会も行っているそうです。

齋彌酒造店の契約農家

すべての蔵人は酒米を栽培する米農家でもあります。「酒造りをする人間は、米のことを知る必要がある」というのが杜氏の考えです。今年の米は「溶けやすく、味がのりやすい」とのこと。

齋彌酒造店での試飲の様子

搾りたての「雪の茅舎 山廃純米」を試飲させていただきました。フレッシュ感がありながら、繊細で口当たりはなめらか、スッキリとしたきれいな酸も感じられました。地道な作業や徹底的に掃除が行き届いた蔵内を見学したあとだったので、その品の良い美味しさに納得です。

秋田の自然が育む美酒

今年、例年にない大雪に見舞われた秋田。雪による苦労は大きいものの、蔵人は雪が降ると喜ぶのだそう。空気中のゴミやホコリを雪が吸いとってくれるので、空気がきれいになるからなのだとか。

齋彌酒造店の登録文化遺産

秋田の天候や地形、蔵に住む微生物の力など、自然の力を充分に生かした酒造りを実践する齋彌酒造店。きれいな空気と掃除の行き届いた環境は、微生物だけでなく、人間にとっても気持ち良いものでした。

齋彌酒造店のギャラリー

入口付近のギャラリーでは、お酒が購入できるほか、酒造りの道具や稲が展示されていました。酒粕や甘酒なども売っているので、ゆっくりとお土産を選ぶのもいいですね。

蔵見学は、1週間前までに電話での予約が必要です。JR秋田駅から羽越本線に乗り換えて約45分、羽後本荘駅から車で約5分。秋田を訪れる際には、ぜひ足を伸ばしてみてください。

◎参考文献

  • 『美酒の設計』(藤田千恵子/マガジンハウス)

(取材・文/橋村望)

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