日本人の総氏神「天照大神」が鎮座する伊勢神宮と同じ三重県伊勢エリアに蔵を構え、酒造りを続けてきた河武醸造。
「地元の人が晩酌に買いやすいお酒が、一番美味しいお酒になるように」という思いから酒質の向上に取り組み、2021年度の「IWC(インターナショナルワインチャレンジ)SAKE部門」では、普通酒「鉾杉 秀醇(ほこすぎ しゅうじゅん)」がグレートバリュー・チャンピオンサケを受賞しています。
河武醸造が一貫して目指すのは、酵母が糖をほぼ分解しつくす「完全発酵」のお酒。そのために海洋深層水を酒造りに取り入れるといった、独自の工夫を行っています。
河武醸造の酒造りへのこだわりについて、8代目蔵元・河合英彦さんと杜氏・山口順也さんに詳しくお話を伺いました。
「鉾杉らしさ」を形づくる旨味やコクを追求
河武醸造の創業は、1857年。「世界一美味しい普通酒」を目指したのは、先代である河合さんの父親の代からです。生産量のうち8割は普通酒で、1990年代には現在の5倍以上のお酒を造っていました。
河合さんは、大阪の大学を卒業後、お酒の卸問屋や酒造メーカーでの勤務を経て27歳で蔵に戻り、先代や杜氏のもとで酒造りを学びはじめます。国税局主催の鑑評会で審査員を務めるなど、きき酒についても積極的に研鑽を積んでいきます。
「鉾杉」が目指す味わいについて「口に引き込んだときに、柔らかく甘みがあって広がるが、後にクドさがない。熟成によるなめらかさが重なっていくようなお酒」と語る河合さん。「鉾杉」らしい味を追求していく中で、たどりついた答えが「完全発酵」のお酒を造ることだったそうです。
「完全発酵」とは、アルコール発酵の工程で、酵母が醪の糖分をほぼすべて食べ尽くすことを目指した酒造り。発酵力のある強い酒母造りと、酵母を健全に活動させ続ける高い技術力が求められます。
蔵で仕込み水として使う宮川水系は、国土交通省の水質調査で過去11回日本一になったこともある良質な軟水。一般に「完全発酵」を実現するには、酵母の栄養となるミネラルを含んだ水が向いているため、河武醸造の仕込み水で「完全発酵」を実現するのは難しかったそうです。
そんなとき、三重大学で研究中の海洋深層水に出会い、転機が訪れます。
海洋深層水で酵母を活性化
河武醸造が三重大学の研究と出会ったのは、15年ほど前。海洋深層水を電気分解して、カルマグ水とミネラル淡水を取り出す研究が行なわれていました。
カルマグ水というのは、カルシウムとマグネシウムの値が高い水で、豆腐を作るときに使うにがりのようなものです。一般的には逆浸透膜フィルターで、海洋深層水からミネラル淡水や塩水を取り出すのが主流でした。
「海洋深層水を仕込み水に使った日本酒は他の酒蔵でも事例はあるのですが、そのほとんどはシャープな味わいや透明感のために、ミネラル淡水を使っていました。うちが海洋深層水を使う理由はまったく逆で旨味を出すためなので、カルマグ水を使うのが良さそうだと考えました」と河合さんは当時を振り返ります。
「大学から研究用の水を2リットルだけ分けてもらい、まずは、コップいっぱいの水を3トン仕込みの醪タンクに入れてみました。すると、30分から1時間くらいで、水を撒いた部分の発酵が活発になり、もりもりと醪の表面が盛り上がってきたんです」(河合さん)
その頃から蔵人として酒造りに参加していた山口杜氏も、カルマグ水の効果に驚いたそう。先々代の杜氏と一緒に「完全発酵」に向けて、カルマグ水を入れる量やタイミングを研究しはじめます。
「全体の仕込み水の量の0.5%から1%刻みで実験し、最高10%くらいまで入れて効果をみていきました。入れるタイミングに関しても、麹による糖化と酵母による分解の並行複発酵のバランスが釣り合った状態で最後までいくのがベストなので、三段仕込みの仲添なのか留添なのか、追水なのか、何日目がいいかを細かくみていきます。
理屈はよくわからないのですが、三段仕込みの最中にカルマグ水を使うと酵母の活性化のほかに、糖化が進みすぎてしまうことがわかったので、主に留添のあとに加える追水に利用することにしました。普通酒や本醸造については、全体の水に対して0.5%のカルマグ水を追水として醪の5日目に入れるところに落ち着いています」(山口杜氏)
現在は、ほぼすべての酒造りにカルマグ水を利用し、吟醸酒の場合は、酒母造りのときに使うなど、酒質にあわせて変えているのだそう。カルマグ水を使うことのメリットのひとつとして、「酵素剤」をほぼ使わなくなったこともあげられるそうです。
「発酵の進みが悪いときに麹の酵素力を補強し、お米の糖化を促すために酵素剤を使いますが、なるべく自然なものを使いたいと考えていて実はあまり良く思ってなかったんです。カルマグ水を使うようになってから、酵素剤をほとんど使わないで造れるようになりました。あと、予想外ですがカルマグ水を使って仕込むと、熟成が進む過程で必ず出てくる老香(ひねか)が圧倒的に少なくなったのも面白い効果でした。
カルマグ水を使わなくても完全発酵ができることは証明されていますが、長年研究を重ねて、河武醸造のお酒の味をつくる技術として定着しているので、カルマグ水を購入するお金がかかっていても使い続けていくつもりです」(河合さん)
独自に開発した「伊勢山廃」
「鉾杉らしさ」のもうひとつの特徴は、山廃造りです。山廃造りとは「山卸し廃止酛」の略で、自然の微生物を活用した生酛造りのうち、米を潰す「山卸し(酛摺り)」と呼ばれる工程を廃止したもの。山廃造りでは、麹の酵素の力で米を溶かしています。
河武醸造では、全体の6割が山廃造り。ラベルには書いてありませんが、人気の普通酒「鉾杉 秀醇」も山廃と、人工的に乳酸を添加する速醸のお酒が5:5の割合でブレンドされているそうです。
「山廃造りに取り組みだしたのは16年前くらい。審査員として鑑評会のお酒の評価をしている中で、石川県・小堀酒造の『萬歳楽 剱(つるぎ)』という山廃のお酒に出会ったのがきっかけでした。それまで山廃は"くどい味"というイメージがありましたが、そのきれいな味わいに衝撃をうけたんです」(河合さん)
旨味やコクのある「鉾杉らしさ」に、山廃は欠かせないと思い、先々代の故・菅原久雄杜氏に相談してみたところ「他の蔵にいたときに一度だけ造ったことがあるから挑戦してみよう」と快く引き受けてくれたそうです。
そして、杜氏の昔の記憶から実験的に造ってもらった山廃が美味しかったため、山廃造りに本腰を入れて挑戦することに決めました。
「確実なノウハウはなかったので、かなり試行錯誤して考えた、少し米を摺るオリジナルの山廃造りなんです。電気ドリルで米を潰す秋田流生酛に近いのですが、そこまでしっかり摺るわけではなく、なるべく麹で溶かすようにはしています。自分たちで調整しながら、ちょうどよい加減を探して今のやり方にたどり着いたといった感じです」(山口杜氏)
河合さんも「このやり方を河武醸造では勝手に『伊勢山廃』と呼んでいます。個人的な好みですが、世間の山廃は詰まったような味だったり変な酸味がでていたりで、美味しいと感じるものが少ないのですが、河武醸造の山廃はボケてなくて美味しいです。うちの杜氏は、よい山廃を造りますよ」と誇らし気です。
速醸に比べて手間も時間もかかる山廃造りのお酒を普通酒にブレンドしている理由を聞いてみました。
「速醸だけで造るとコクのバランスを取るのが難しかったんです。ブレンドの比率は毎年変えていて、昨年は25%だったから今年は30%にしようとか試行錯誤しました。そして、50%の割合がもっとも鉾杉らしいとみんなの意見がまとまりました」(河合さん)
山口杜氏が考える「鉾杉らしさ」は、「米の旨味がしっかりでているお燗にして美味しいお酒」。普通酒といえど吟醸酒と変わらないほど労力をかけて造ると言います。
「鉾杉を造るうえで、やはり麹造りは大事ですが、その前の原料処理の工程がもっとも大事だと考えています。酒造りがうまくいくかどうかは、その6〜7割が米を蒸す工程で決まる。まず"蒸し"がしっかりできていないと、いい麹にはならないからです」(山口杜氏)
もともとは考古学を専攻し、発掘の調査員の仕事をしていたという山口杜氏。コツコツとした細かな作業が得意で研究熱心です。
独自の工夫が加えられた山廃造りは、手間と時間はかかるものですが、コクや旨味のある河武醸造の酒造りに欠かせない技術のひとつ。そして、米のでんぷんを糖に分解する力が強い麹と海洋深層水を使った発酵のコントロールによって、「鉾杉らしさ」は支えられています。それらは、何年もかけて研究を重ね、改良して行くなかで技術として定着していったものでした。
完成された普通酒とは異なる、飲み手が楽しむ"隙"のあるお酒
県内消費90%以上と地元ファンとともに歩いてきた河武醸造。「普通酒は地元の方が日常的に楽しめる、これひとつで完成されたお酒なんです」と先代から力を入れていた普通酒を評価する河合さんですが、もうひとつの軸として自分自身が造りたいお酒も模索していました。
「鉾杉の普通酒は『しみじみ美味しいよね』というお酒。どんなアテにも合うし、安定感があります。一方、自分が造りたいのは『このアテとは合わないけど。こうやると美味しいね』というような探りを入れていくお酒なんです。万能でなくても飲み手と一緒に楽しめるような"隙"のあるお酒を造っていきたいです」(河合さん)
たとえば、しっかりとした酸味と旨味が特徴の「鉾杉 KH改 多酸純米酒」。燗酒好きから愛されている熱烈なファンを抱える一本です。
リンゴ酸が多く生成される酵母を使った、そのままでは酸味の強いお酒ですが、瓶内で1〜2年熟成させることで旨味のあるまろやかなお酒に仕上げます。熟成方法もユニークで、一升瓶に半分ほど澱を含んだまま瓶詰めし、澱が瓶の底に沈んだらひとつひとつ瓶を振って澱を混ぜ合わせ、ドロドロの状態で熟成させています。
「こういうお酒は自分がやってみたいという好奇心から生まれています。父からは売れないから辞めろと言われますが、続けています。もっと飲み手も一緒に楽しんでくれるような個性のあるお酒も造ってみたいんです」(河合さん)
現在、準備中の「鉾杉 KH改 多酸純米酒」の新しいバージョンは、まさに飲み手とのやり取りの中で生まれたものだそう。
「日本酒イベントの場で、たまたまお猪口に入っていたお酒に、純米吟醸酒を足してみたらどうか、という話になったので、実際にやってみたらすごく美味しかったんです。純米吟醸酒を足して少しだけアルコールを調整して次世代のアッサンブラージュの完成です」と河合さんは、うれしそうに語ります。
"伊勢"のパワーを味方につけて全世界へ
究極の普通酒と遊び心のある純米酒。ふたつの軸に加え、2021年5月には県外向けの新ブランドとして、吟醸酒シリーズ「式」をリリースしました。こちらは主に、ホテルやレストランなどに向けて販売していく予定だそうです。
県外向けのラインナップを増やしていく背景には、コロナ禍での人の流れの変化があります。
「これまでは、一大観光地である伊勢に観光客が集まることで、地元の人以外にも飲んでもらう機会がありました。観光が制限されたことで、その機会も失われたので、これからはもっと外へ出ていかないといけない。
昔から父に、『"〜ざけ"は造るな。"〜さけ"を造れ』と言われてきました。今も現場に立つ父に『いい酒を造れ!』と気合いを入れられます」と河合さん。
濁点のない"さけ"が意味するのは「澄んだきれいなお酒」であり、河合さんはその言葉を胸に刻み、河武醸造の全体の技術の底上げをしながら、「世界一美味しい普通酒」として「鉾杉」の個性の答えを模索してきました。
これからは、新しい試みを続けていくことで、次の"河武醸造らしさ"を生み出す時期。独自の酵母B-33や開発に関わった三重県のオリジナル酒米品種「弓形穂(ゆみなりほ)」の活用、アッサンブラージュの研究など、挑戦の手を緩めません。
日本人の心のふるさと「伊勢」という土地のパワーを味方につけた吟醸酒シリーズの「式」は、星付きレストラングループの引き合いもあり、さっそく海外での取り扱いも決まったそうです。
「Let’s Try(レッツトライ)」が口癖の河合さん。実験的なお酒や新しい試みは、"チャレンジタンク"といって少量仕込みのタンクを使って毎年造り続けています。熟成酒にも興味があり、中国で広く飲まれる伝統的なお酒・紹興酒のようなお酒も造ってみたいと、好奇心いっぱいです。
「やったことがないからできない、と言うのは簡単だけど、まずはやってみようよと、いつもみんなに言っています。試してみないと何も始まりませんから」。「Let’s Try」を実践し続ける河武醸造のチャレンジは続きます。
(取材・文:橋村望/編集:SAKETIMES)