伊丹・池田・西宮の酒が、最大の市場である江戸へいち早く進出して成功したのに対し、灘酒はそれから100年以上も後発でした。しかし、江戸までの海運が優位であることに加え、六甲山を背にする環境が、櫻正宗の当主・山邑太左衛門の天才的な発想による酒造技術の改良を後押しするとともに、その量産化をも成功させ、灘酒は名実ともに日本一の酒となりました。
灘酒の特長とは?
明治43年に発行された『灘酒史』によると、灘酒が伊丹・池田・西宮の酒を凌駕し、江戸っ子を虜にした美味い酒を造ることができた要因が以下のように記されています。
- 原料米の精白を極めていること
- 製麹に精米を用いること
- 仕込み水を西宮のみから採取していること
また、灘酒の香味を
- 柔らかく、口に含んだ時は舌を刺さず、飲み込んだ後に旨みが残る
- 香りが良い
- 多少飲み過ぎても悪酔いをしない
と評価し、その造り方に至った経緯とそれに関連する逸話を紹介しています。
実験的に造った高精米の酒が、江戸で大好評
ある年、櫻正宗の蔵元・山邑太左衛門は、例年より多く仕入れた米が余ったため、常々考えていた実験のひとつを行いました。三日三晩、糠が出なくなるまで極限に磨いた白米で酒を造ったのです。
ところが、できあがった酒は思惑と違い、口に含んだときの粘り気がなく、従来の酒に慣れている舌には物足りなく感じられました。さらに液体の色が薄いこともが気に入らず、好奇心からの試みが米を無駄にしてしまったと強く後悔をしたそうです。
しかし、せっかく造った酒を捨てるわけにもいかずそのまま貯蔵を続けると、香味が良い方向に変わってきました。江戸での反応を伺うため見本として新川の市場へ試しに出してみると、驚いたことにこの酒に最高の値が付いたではありませんか。
その結果を喜び、大いに自信を深めた太左衛門は、翌年から徹底的に磨いた米を使って酒を造り、江戸の市場へ出し始めました。その酒は「これこそ最高の酒」として、たちまち江戸中の評判となり、櫻正宗の名が一躍広まったそうです。
以来、灘の酒蔵は櫻正宗の成功を見習って、競い合うように米を磨き始めたため、灘酒の評判は一層確かなものとなったといわれています。
半白米ではなく、完全な白米による麹造りへ
明治時代、"諸白(もろはく)"と呼ばれる、麹米・掛米ともに精白米を用いる仕込みは広く浸透していましたが、掛米に対し、麹米はそれほど精白しない"半白米"でした。
白米をこれまでよりさらに精白する酒造りに成功した太左衛門は、半白米で造られる麹にも注目。当時、白米での麹造りに定評のあった他蔵の杜氏を引き抜き、麹米・掛米ともに極限まで磨いた白米で仕込む酒を造らせたところ、思惑通りの美味い酒ができあがったといいます。
酒の美味さを決めるのは「水」
灘の魚崎と西宮、2か所に酒蔵を所有していた山邑太左衛門は、毎年、西宮にある梅の木蔵のほうが、魚崎の蔵よりも良い酒を造ることが気になっていました。その原因を突き詰めるため、双方の道具をそっくり交換したり、同じ酒米を二等分にしてそれぞれの蔵で造らせたり、ついには杜氏まで入れ替えたりしましたが、結果は変わりませんでした。
そこで考えついたのは「水」。水を運ぶのにはたいへんな労力がかかりましたが、西宮の蔵で使っている水を木桶に詰めて魚崎の蔵まで運び、その水で酒を造りました。すると、魚崎の蔵でも西宮の蔵と同じ品質の酒ができたのだそう。
以来、櫻正宗では西宮の井戸水を樽に詰め、48台もの牛車を使って魚崎に運び、酒を造るようになりました。この水を運ぶ様子を見た他の醸造家たちはあざ笑い、太左衛門を変人扱いしたともいわれています。
ところが、櫻正宗の酒が大いに売れ、その名声が一層上がった現実を目の当たりにすると、争うようにして西宮の井戸から水を運び、仕込みに使い始めました。
全国に数多くある「〇〇正宗」の発祥
ある日、山邑太左衛門がかねてより親交のあった、山城の国・深草にある元政庵の住職を訪ねたとき、机の上に置かれた経典を開いたところ、その巻頭に書かれた「臨済正宗」という語が目にとまったそう。日頃から酒の名前を気にかけていたこともあり、その「正宗(せいしゅう)」の読みが「清酒(せいしゅ)」にも通じることから、「正宗」を樽印として出荷を始めたといわれています。
当初は「セイシュウ」と読ませていたが、この酒が江戸で持て囃されるようになるにつれて、江戸っ子たちがこれを「マサムネ」と読み始め、天保11(1840)年には正式な読みを「マサムネ」に変更しました。
明治時代になって商品の商標条例が施行されたとき、山邑酒造はその商品名を「正宗」で登録しようとしました。ところが、その当時すでに「〇〇正宗」などの銘柄が数多くあったことから、政府は「正宗」を普通名詞としたため、「正宗」そのものでは登録できなかったそう。やむを得ず、国花である桜を頭に付け「櫻正宗」としたとされています。
※ 冒頭に引用した『灘酒史』では、"山邑太郎左衛門"と表記されていますが、昭和58年発行の『灘の酒博物史』を始め、日本酒関連の専門書や歴史書ではほとんど"山邑太左衛門"と書かれているため、ここでは後者の表記を採用しています。
(文/梁井宏)