京都市内を流れる鴨川のそばに酒蔵を構え、代表銘柄「神蔵(かぐら)」を中心に、香り高くやわらかな味わいの日本酒を造っている松井酒造。

創業は江戸時代中期の1726年(享保11年)。現存する洛中最古の酒蔵で、地元・京都の人々に愛されるのはもちろんのこと、近年では海外からの旅行者にも好評で、コロナ禍の前までは多くの外国人が蔵を訪れていました。

松井酒造「神蔵」

そんな松井酒造で蔵人として働くのが、アメリカ出身のジョージ・ナバレッテさん。日本でも数少ない海外出身の蔵人として酒造りに取り組むジョージさんに、日本酒との出会いや日本酒の魅力、松井酒造で働くことになったきっかけなどをうかがいました。

アメリカの金融業界で働いてたジョージさん

ニューヨーク・ウォール街にある投資銀行で働き、世界中を出張で飛び回る日々を送っていたというジョージ・ナバレッテさんが日本酒に出会ったのは、クライアントと一緒に訪れたレストランでした。しかし、当時は日本酒に特に興味を抱かなかったそうです。

松井酒造で蔵人として働くジョージ・ナバレッテさん

松井酒造の蔵人 ジョージ・ナバレッテさん

そんなジョージさんに、日本酒の世界へ深く入り込むきっかけの出来事が起こります。

ジャパン・ソサエティ(Japan Society)という日本文化をアメリカに紹介する団体が開いていた日本酒イベントに、友人と一緒に参加したんです。そのときに飲んだ純米大吟醸の味わいに衝撃を受けました。こんなにおいしくて香りがエレガントなお酒があるのか!と驚いたのを、今でも覚えています」

この体験をきっかけに日本酒に興味を持ったジョージさんは、数多くの日本酒を試し、独学で知識を増やしていきました。

ちょうど投資銀行での仕事も30年という節目を迎えていたころ。「何か今までとは違うことをしたい」とセカンドキャリアについて考え始めていたジョージさんは、2016年夏、ニューヨークで開かれていたSSIインターナショナルの唎酒師コースに参加し、国際唎酒師の資格を得ます。

金融業界での仕事を辞めたジョージさんが次に取り組んだのは、日本酒のイベントを開催することでした。知り合いのバーやレストランを会場に日本酒イベントを開催したり、知り合いの家に出向いてディナーパーティーの席で日本酒のテイスティングを行いました。京都でも海外からの旅行者向けに何度かイベントを開いたこともあるそうです。

さらに転機が訪れたのは、アメリカで日本酒を輸入している会社が開いていたニューヨークでの日本酒イベントです。

たくさんの参加者から次々と発せられる質問の対応に追われていた主催者をジョージさんが説明で手助けしたことがきっかけで、イベントを運営していた会社で働くことになったのです。

「日本酒を好きになり、多くの銘柄を飲んで勉強をしていましたが、まさか日本酒に携わる仕事ができるとは思いませんでした。偶然が重なり、自分にとってはとてもよいタイミングでした」

そうして、ニューヨークで日本酒の仕事を始めたジョージさんは、日本のジェトロ(日本貿易振興機構)が行った日本酒プロモーション・プロジェクトに関わるなど、日本にも幾度となく出張で訪れる様になります。

そのころに始めたのが酒蔵巡りです。出張滞在中に時間を見つけては日本各地を巡り、それぞれの地域の日本酒の特徴を書きまとめました。訪れた酒蔵の数は100蔵近く。これまで、1,300種類を超える銘柄のテイスティング・ノートを作ってきました。今でも日本酒についての研究を欠かしません。

松井酒造との出会いは1枚のTシャツから

2017年冬、日本滞在中に京都を訪れたジョージさんは、偶然立ち寄った酒場でスタッフが着ていた「MULTPLE PARALLEL FERMENTATION(並行複発酵)」と書かれたTシャツに目を奪われます。実は、この店は松井酒造が当時運営していた飲食店。

松井酒造のTシャツ

「英語が読めて、さらに日本酒の造りのことを知っている人でなければ意味がわからないデザインのTシャツ。まさに自分のためにあるのではないか!」と、ジョージさんはそのときに思ったのだそう。

その場でTシャツを購入したジョージさんは、次の日には松井酒造を訪れます。

「ちょうどアメリカからの旅行者が蔵を訪れていて、日本人ガイドが英語で日本酒を説明をするのに苦労していました。日本酒の仕事をするきっかけになった、ニューヨークでのイベントの時と同じ状況でしたね。私は松井酒造の若女将と一緒になって日本酒について、ていねいに英語で説明したんです。これが松井酒造と私の出会いです」

松井酒造の蔵外観

松井酒造15代目の松井治右衛門社長とSNSを通じて連絡を取り合う仲になったジョージさんは、以来、仕事で日本に訪れた際には必ず松井酒造に立ち寄り、交流を深めていきました。

ちょうど、京都では外国人旅行者が年々増えていたころ。松井酒造でも外国人旅行者への対応やプロモーションは最優先課題のひとつでした。一方、ジョージさんも「酒について知識はあるが、日本で実務経験を積みながら酒造りの工程などをより深く学びたい」と考えていました。そこで、「松井酒造で働かせてほしい」と頼み、松井社長もジョージさんに「うちで酒造りを学んで、外国人旅行者に日本酒の良さを伝えて欲しい」と承諾します。

「とてもうれしかったですね。日本酒イベントで純米大吟醸をはじめて飲んだときから日本酒のことを自分なりに勉強してきましたが、まさか自分が酒蔵で日本酒を造るようになるとは夢にも思いませんでした」

酒造りの現場では英語でコミュニケーション

こうしてジョージさんは2019年9月から松井酒造で働き始め、午前中は酒を造り、午後からは酒蔵を訪れたお客さんに酒造りについてガイドするという日々が始まります。

「酒蔵を訪れる外国人と日本人の割合は半々くらいだと思っていましたが、実際に働き始めてみると、京都という場所柄もあり訪問者の約8~9割は外国人でした。そのことに驚いたのと同時に、酒蔵を訪れる外国人旅行者の日本酒に対する関心の強さを実感しました」

松井酒造の蔵人 ジョージ・ナバレッテさん

松井酒造での酒造りの日々について、ジョージさんは次のように語ります。

「酒造りの現場は大変で、たとえば、重い米を運んだり、30~40℃の麹室に長時間入って作業したりすることは、容易なことではありません。ですが、それらひとつひとつの仕事を積み重ねることで日本酒ができあがり、それを飲んで喜んでくれる人がいると考えるととてもうれしいです。

自分が一生懸命仕事をして形あるものを生み出せることが酒造りの大きな魅力で、私のモチベーションでもあります。松井酒造のような長い歴史を持つ酒蔵には、一流の日本酒が期待されます。よい意味でのプレッシャーを感じながら日々お酒を造っています」

蔵人として酒造りを学ぶことは、毎日が驚きの連続だったといいます。

「たとえば、洗米や浸漬(米に水を吸わせる作業)はその年の米の出来具合、精米歩合や当日の天気によって、水に浸ける時間を計りながら行います。でも、私に酒造りを教えてくれた先輩は、最高の作業を直感的に行うタイプの人。彼にはすべてがわかっていて、いつも経験と感覚を信じて完璧な酒造りをしていました。

基本的な酒造りの手順は、数ヶ月あれば学べると思います。ですが、何十年と酒造りを続けなければ、彼のレベルには絶対に達することができません。酒造りの奥深さを感じた瞬間でした」

ジョージさんと松井酒造の蔵人たち

ジョージさん(右から2番目)と松井酒造の蔵人たち

松井酒造は大きな蔵ではないので、蔵人ひとりひとりの役割はおのずと大きくなります。ジョージさんはそのことをとてもポジティブに捉えているようでした。

「私のことを『よいお酒を造る』という責任を担うチームのひとりとして扱ってくれていることが、とてもうれしいです。

酒造りや他の伝統産業の仕事の多くは、『職人の背中をみてやり方を学ぶ』という習慣があります。しかし、松井酒造では松井社長やその他のスタッフも英語でコミュニケーションを取ってくれて、酒造りを言葉でわかりやすく教えてくれました。海外から日本文化の道に入った私にとっては、とても理解がしやすく働きやすい環境です」

海外出身の蔵人が酒蔵で働くことの意味

松井酒造の日本酒の多くは、やわらかな飲み口で、米の旨みをしっかりと味わえるのが特徴。初めて飲む人でも飲みやすく、日本酒を好きになってもらう第一歩には、ぴったりな一本です。

松井酒造「神蔵」

そんな松井酒造の造る日本酒の魅力を、ジョージさんにお聞きしました。

「『神蔵』が松井酒造の人気銘柄です。特に京都産の酒米『祝(いわい)』を精米歩合65%まで磨き、松井酒造のオリジナルの酵母を使用したオール京都の『純米 神蔵KAGURA 無濾過・無加水・生酒(ルリ)』が人気ですね。無濾過生原酒で、フルーティーな飲み口でありながら米の旨みも楽しめて、日本のみならず海外のお客さんからも好評をいただいています。

『神蔵』の純米大吟醸は、海外のお客さんからは『とてもエレガントな味で飲みやすい』と好評です。『富士千歳』の生にごり酒は、隠れた人気の1本です。『今まで飲んだことのない味わいだ』ということで、クラフトビール好きの方がよく買っていかれますね」

現在、シンガポールや香港、中国などアジアの国を中心に海外輸出を行い、近い将来はアメリカやヨーロッパにも輸出を計画している松井酒造。

ジョージさんは、「海外の人たちが抱いている『京都』のイメージに合わせて、注目して喜んでもらえる日本酒をこれからもしっかり造っていきたい」と、外国人向けのアプローチにも力を入れます。

「日本酒がどんな飲み物かをわかりやすい方法でシンプルに説明することが、日本酒の知名度を高め、より多くの人々に楽しんでもらえることに繋がります。たとえば、海外でよく飲まれているワインやウィスキーを例に出して、日本酒と比べながら紹介すると理解してもらいやすいです。そして、飲んでもらったときの反応を直接聞いて、それを酒造りに活かすことがとても重要だと思います」

松井酒造のテイスティングルーム「酒中仙」

松井酒造のテイスティングルーム「酒中仙」

松井酒造には、店舗の一部を改装した日本酒の飲み比べを楽しめるテイスティングルーム「酒中仙」がありますが、そこでのお客さんとのコミュニケーションは、まさに酒造りに直結する場といえるでしょう。

「アメリカや日本で開いた日本酒イベントで多くの声を聞いてきたことが、今の仕事に役立っています」と話すジョージさん。日本のみならず海外にも日本酒を広めたいと考える酒蔵は、「積極的に外国人の広報や蔵人をメンバーとして迎え入れたほうがよい」とすすめます。

日本と海外の文化の両方に精通したスタッフが酒蔵にいることのメリットは、ジョージさんの実績が証明しています。

松井酒造で日本酒を楽しむ外国人旅行者のグループ

「日本酒の魅力は、日本各地の素晴らしい食材でつくられた料理に抜群に合うことです。どんな料理でも、必ずぴったりとあう日本酒に出会えますね。また、温度変化を楽しめるのも面白いです。これからの寒い季節は、温かい鍋料理や煮物と燗酒を合わせたいです」

蔵人として、唎酒師として、日本酒とともに日本の食文化を世界の人々に伝えることができる。それが、ジョージさんが日本酒に惹きつけられた理由のようです。

日本酒を一から学び、海外と日本の文化を知っているジョージさんの存在は、世界の人たちにとって日本酒との距離をぐっと身近なものにしてくれます。

(取材・文:茶谷匡晃/編集:SAKETIMES)

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