日本では、古くから神様とのコミュニケーションの場に酒がありました。酒は神様の領域に近付けるものと捉えられ、神事には必ず「御神酒(おみき)」が用意されています。
酒造りでも神事は欠かせません。日本酒を醸すということに対して、当時の人々は自然からの見えない力を感じ畏怖していたからです。そのため、酒を造るときは常に神様に祈りを捧げてきました。酒造りの歴史には、神様を祭る場所、つまり神社と密接な関係にあったのです。
この連載では、酒造りとの関わりが深い京都の神社について掘り下げていきます。第4回は京都の中心部「洛中」と佐々木酒造を巡ります。
造り酒屋が多く存在していた「聚楽廻」
京都が平安京と呼ばれていたころ、都の中心を走っていたのは朱雀大路、現在の千本通にあたります。映画や小説などにも登場する「羅生門」は、平安京の南に位置する都の玄関口。この正門を挟んで東寺と西寺が建てられました。
現存しているのは東寺だけですが、当時は東寺と同じような寺院が西側にもあったのです。
朱雀大路をまっすぐ北へ進むと船岡山に行き当ります。船岡山は京の守護神である上賀茂神社・下鴨神社と松尾大社のちょうど中間地点にあり、この山頂から京の都を一望できる重要な場所でした。
その山頂に建てられているのが、織田信長公を祭る建勲神社(たけいさおじんじゃ)です。
西陣は、船岡山の南西に位置するエリア。応仁の乱で西軍の大将である山名氏が船岡山に立て籠もり、西軍の陣としたことから「西陣」の名が生まれました。
応仁の乱以後の戦国時代は、京都の町が荒廃し、歴史上で最も皇室が財政的に窮した時期ともいわれます。
室町時代の武士で、彦六左衛門の通称で知られる、飯尾常房(いいのお つねふさ)は、
汝や知る 都は野辺の 夕ひばり あがるを見ても 落つる涙は
(現代語訳)お前は知っているだろうか。都はこの大乱で無残にもすっかり焼け野原となってしまった。そんな荒れ果てた都の夕空にお前(ひばり)が舞い上がる姿を見ているだけでも、落ちてしまうこの涙のことを。
と、荒れ果てた都を嘆いて詠んでいます。
そんな荒れ果てた京の都を再建したのが、織田信長です。
船岡山にある信長を祭る建勲神社の足元には、信長が目指した天下統一の夢を引き付いだ豊臣秀吉が作った聚楽第跡があります。聚楽第(じゅらくだい)は、秀吉が京都で政務を行う際の居城でしたが、後に甥の秀次が謀反事件を起こした際に取り壊されてしまいました。
二条城の西側には聚楽廻(じゅらくまわり)という京都らしい風情を感じられる一画があります。この辺りは、その昔に造り酒屋も多く存在した場所でもあります。
秀吉の時代には、醍醐や伏見の花見など数々の酒宴が催され、全国から銘酒が取り寄せられました。その銘酒を飲み比べたことで、その後の酒造りの向上に役立ったともいわれています。
京都の名水と歴戦の武将に負けない大酒飲み
平安遷都時、のちに聚楽第が建てられる場所には大内裏が置かれ、天皇の住まいである内裏もその中にありました。
しかし、度重なる火災によって再建するのも難しい状態だったのか、元弘元年(1331年)に現在の京都御所ある位置に場所を移します。以来、明治維新に際して江戸が東京と改称されるまでの約550年間に渡って、内裏として使われていました。
現在の京都御所への入口はいくつかありますが、歴史好きにおすすめなのが蛤御門(はまぐりごもん)。長州勢による禁門の変が繰り広げられた舞台です。
この門から御苑へ入り、南へ下ると、宗像神社など御苑内の神社を見て回ることができます。
御所の東側には、幕末から明治にかけて活躍した公卿、三条実萬・三条実美父子を祭った梨木神社(なしきのじんじゃ)があります。出身地の山口県萩にちなんでいるのか、境内には萩の花が500種類ほど植えられていて、萩神社とも呼ばれます。
梨木神社のみどころは、京都の三名水のひとつに数えられる「染井の水井戸」です。
染井の水は、主に茶の湯に用いられていますが、実は「この水を使って日本酒を醸造してほしい」と依頼されたことが、過去にあるそうです。その依頼をしたのが人物が、丹波篠山出身の近代南画家、平尾竹霞(ひらおちくか)。多くの丹波杜氏を輩出した土地柄なのか、「ぜひともこの水で醸した酒を飲みたい」と思ったようです。
平尾翁は、幕末の安政三年(1856年)の生まれ。まさに丹波杜氏と灘の生酒(きざけ)が全盛ともいえる時代です。同郷の丹波杜氏へ対する誇りから出た言葉だったのかもしれません。
梨木神社のある寺町通りを北へ上がると、清浄華院(しょうじょうけいん)というお寺があります。
ここには戦国時代の公卿・山科言継(やましな ときつぐ)の廟所があり、石碑が建てられています。山科言継卿は、酒を通じて朝廷や武家とのサロンを築くことで歴史に名を刻んだ人物です。
山科言継は、尾張の織田家や駿府の今川氏など東海の武家との古くから親交があり、信長の時代、桶狭間や美濃攻略を経て、天下を望む大名として名を上げた織田氏の交渉役として自身の地位を高めていきます。
酒豪としても知られ、歴戦の武将たちであっても腕力では勝っても、酒では遠く及ばぬほど強者であったと伝わっています。
太守下戸タリト雖モ十余盃受用サレ了ンヌ
「太守は下戸ではあるけれど、それでも十盃くらいは飲んで仕舞われた。遊び人の本域である自分の酒量に比べると武士なんぞは然程に強くはないが、それでも十盃程度なら飲み干せるようだ」と、山科言継の日記には、その酒豪ぶりが記されています。
洛中の酒造りを継承する佐々木酒造
洛中に現存する唯一の造り酒屋の佐々木酒造は、俳優・佐々木蔵之介さんのご実家でもあります。
現在の蔵元である佐々木晃社長が家業を継がれたきっかけは、お兄さんである蔵之介さんが役者へ転身されたことでした。もともと、次男である蔵之介さんが、大学の農学部で酒米研究などをしていて家業を継ぐことが決まっていたのですが、芸能界入りが決まり、末っ子である晃さんにその役目が回ってきたのです。
それまで勤めていた会社を辞め、酒屋を継ぐことになった晃さん。不本意でいやいや後を継いだように聞こえてしまうこともあるようですが、ご本人は「今の稼業を楽しんで日々充実しております」と話します。
佐々木酒造の経営は実直で、問屋など取引先との信頼をとても大切にした商売をされている印象を受けます。
洛中の造り酒屋が廃業したり、移転したりするなかで、唯一この京都の中心地で商売を続けているのも、伝統を裏切らないという信頼関係の証なのでしょう。
蔵の直売店にもそれが現れています。お客さんからの「ここでしか買えないものが欲しい」との要望にも配慮しつつ、「自分たちが普段出しているお酒の良さをもっと伝えていく」という気持ちが感じられます。
この会社の姿勢に大きな影響を与えたのが、先代の蔵元かもしれません。当時、後を継ぐ予定だった佐々木家の長男が死去したことによって他家から養子として迎えられたのが、先代の勝也社長でした。
勝也氏は、跡取りの立場はあれど養子は肩身が狭く、子供のころから大変な苦労をしてきた人物です。小遣いなど一切与えられず、子供のころから自分で商売をして学費などの足しにしていたのだそう。そのような経験から非常に人に対して愛想が良く、ていねいな応対をすることで、周りの人たちからも「酒屋の社長であんなに腰の低い人はめずらしい」といわれていました。
佐々木酒造では生酒の販売をあまり見かけることがありません。
現代の技術なら品質のよい生酒を年中販売できますが、一度手元を離れたお酒がどのように取り扱われて消費者に届くのか、常によい状態で口にできるかは、酒蔵側では一切コントロールができません。そこで、自分たちのできる限りの品質を保証できるものだけを販売していこうということなのでしょう。
お酒のラベルにしっかりと書かれた「洛中伝承」の言葉には、京都の町衆文化の精神と、室町時代には200軒以上の酒屋が存在した地域の酒造りの伝統を一身に背負った気概が込められているように感じました。
(文/湊 洋志)