日本では、古くから神様とのコミュニケーションの場に酒がありました。酒は神様の領域に近付けるものと捉えられ、神事には必ず「御神酒(おみき)」が用意されています。
酒造りでも神事は欠かせません。日本酒を醸すということに対して、当時の人々は自然からの見えない力を感じ畏怖していたからです。そのため、酒を造るときは常に神様に祈りを捧げてきました。酒造りの歴史には、神様を祭る場所、つまり神社と密接な関係にあったのです。
この連載では、酒造りとの関わりが深い京都の神社について掘り下げていきます。第3回で紹介する神社は「北野天満宮」です。
菅原道真公をまつる北野天満宮
酒造家が三社詣りで訪れる神社は、松尾大社と梅宮大社、そして北野天満宮です。北野天満宮は、学問の神様・菅原道真公を祀る神社ですが、この京都の北野天満宮に限り、酒造家や醸造家にとって誠に縁の深い聖地となっています。
菅原道真は、唐の律令制をはじめ、あらゆる学問を極めたことで天皇から信頼を得て、異例の出世を遂げた平安時代の貴族です。
讃岐国での4年間の任期を終え、帰京した後に次々と出世をはたします。太政大臣への登竜門といえる蔵人頭(くろうどのとう)から式部少輔(しきぶしょうゆう)に任じ、従四位下を授与し、その後、参議に昇進しています。昌泰2年(899)、2月には右大臣に昇進をし、この時が道真にとって栄華の極みでした。
昌泰4年(901)正月、大宰府の長官である大宰権帥(だざいごんのそつ)に左遷されられ、失意の中、2月25日に生涯を閉じました。
東風吹かば にほいおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ
(春になって東の風が吹いたならば、その香りを私のもとまで送っておくれ、梅の花よ。主人がいないからといって、咲く春を忘れるなよ)
拾遺和歌集に収録されているこの歌は、菅原道真が太宰府へ向かう際に詠んだ有名な歌です。
2月の北野天満宮は、梅の花を楽しみに来る人や合格祈願する学生など、さまざまな思いを持った人々が訪れます。酒造家にとって、天神様は切っても切れない存在ではありますが、この時期に、菅原道菅の代名詞である梅の花を愛でる機会はあまりありません。
梅が咲く季節は、仕込みの終わりがようやく見えてくるころですが、冬の寒さを利用する酒造りの真っただ中。蔵を離れて、梅を見にゆっくりと参詣というわけにはいきません。
北野天満宮と麹屋のつながり
酒造りのみならず、味噌や醤油など日本の発酵製品で欠かせないのが麹です。
室町時代には、酒蔵が使う麹は麹屋が卸していました。当時の京都には300以上の酒蔵が存在していましたが、酒蔵はまだ麹造りを行っておらず、「麹屋」という麹の製造から販売までを担う専門業界が別個に存在していたのです。
北野天満宮は、「麹座」と呼ばれる麹屋の同業者組合(北野麹座)を結成し、麹の製造や販売の独占権を取り仕切っていました。幕府が北野天満宮の麹座に麹造りの独占権を認めていたため、酒蔵が勝手に麹を造ることはできなかったのです。
しかし、酒蔵全体が急成長し始め、その中でも資本力のある酒蔵が麹造りに取り組み始めます。これに反発した麹座は、京都全域における麹の製造販売の権利一切を幕府から獲得し、京都の酒蔵が自身で麹を造ることを一切禁じます。
麹販売権の規制緩和や撤廃を求めて圧力を掛けたのが、延暦寺でした。その対立はエスカレートしていきましたが、幕府は延暦寺からの抗議に折れた形で北野麹座の独占権の廃止を認めます。これに反対する麹座の面々は北野天満宮に立て籠もりますが、幕府側に鎮圧され、この事件(文安の麹騒動)により社が焼失します。
この事件の結果、麹屋は没落して酒造業へ組み入れられ、奈良の「菩提泉(ぼだいせん)」や近江の「百済寺酒」、河内の「観心寺酒」などの僧坊酒が台頭する一因ともなりました。
北野天満宮の宝物館に収められている「北野西京神人文書」は、当時の麹座に与えられた麹の製造や販売の特権にかかわる文書をまとめたもの。室町幕府など時の権力との関係や、酒蔵の市中における商業活動など、中世の京都における産業界の様子を具体的に知ることができる数少ない史料群で、現在はデジタル保存・公開もされています。
このように麹造りと密接に関わっていた北野天満宮ですが、酒好きな人には、秋の「梅酒まつり」の方が馴染み深いかもしれません。このイベントでは、日本酒蔵に限らず、焼酎蔵や梅酒製造メーカーなどが造る日本全国のさまざまな梅酒を楽しむことができます。
日本で最初に銘柄で呼ばれた酒
京都における酒の歴史を知るための一番のスポットは、堀川仏光寺を東に行った辺り。「花屋」という旅館があり、その角に室町時代に存在していたのが、京都を代表する酒を造っていた「柳屋」です。
美酒として知られ、「六ツ星紋」を商標にして、他の酒よりも高い値段で販売されていました。これが銘柄で呼ばれた最初の酒だといわれています。
当時の公家や僧侶の日記には、「柳一樽贈らるる」などが見られ、贈答品として重宝されていたようです。
当時の評判が記載されている「諸芸才代物附(しょげいかただいもつづけ)」には、以下のように記されています。
一 さけの代、本の古酒は百文別ニ五杓宛、新酒は百文別ニ六杓
一 やなきの代、古酒百文別に三杓、新酒百文別四杓、
柳の酒は、他のお酒に比べると2倍近くの値段がつけられていたことがわかります。現在だと、四合瓶1,500円の普通酒に対し3,000円の吟醸酒といった感覚かもしれません。
京都市内で発掘された室町時代の酒蔵の遺跡からは、木桶ではなく、甕(かめ)で仕込んでいた跡や周辺の井戸の跡も見つかり、敷地面積は非常に広かったものだったと想定されます。中世を代表する銘柄であった柳屋も、応仁の乱や戦国時代が始まり、京都が興廃していく中で衰退していったと考えられています。
その一方で、地方領主が成長し、本願寺などの一向勢力が強まるなど、産業全体には大きな変革が起こっていました。正暦寺や興福寺、金剛寺などが造る僧坊酒が台頭したのも、そのような変革の機を捉え、寺領から米を集め、僧侶を醸造技術の研究員や酒造工として活用して酒を造り、販売まで一貫して行えるネットワークを作り上げたためと考えられます。
250年前の酒造りを今に伝える記念館
京都市中京区にある「キンシ正宗 堀野記念館」は、「金鵄正宗」を醸すキンシ正宗株式会社の旧本家を改装した施設です。明治13年(1880)に酒造拠点は伏見に移されましたが、屋敷や酒造道具類は当時の様子を伝える文化資産として、今に受け継がれています。
「桃の井」と呼ばれる井戸も健在で、そのまろやかな仕込み水はビールの醸造に活かされています。洛中にある清酒製造蔵は、佐々木酒造の一軒が残るのみですが、麦酒製造の地酒蔵と呼ぶなら、この「キンシ正宗 堀野記念館」も、京洛の酒蔵と言えるでしょう。
「桃の井」の仕込み水を試飲することもできます。館長の話では「伏見工場の仕込み水よりこちらの方がまろやかですよ」とのことでした。
蔵の歴史をうかがうと、創業者が福井県若狭地方の出身だったことから、若狭地方の杜氏を呼んで酒造りをしていたようです。
「金鵄正宗」のおすすめのお酒は、京都産の酒米「祝」で醸した純米吟醸酒。鑑評会を意識せず、日常に合うようなお酒を目指した造りになっているそうです。一口飲んでみると、確かに食中酒向きの印象。最初に穀物系の香りを感じます。ふくよかで丸みのある伏見酒の特徴が活かされたお酒でした。
中世の京都といえば、さまざまな商工業の中心地でしたが、酒をはじめ、漬物や味噌、酢などの多くの発酵食品がつくられていた土地でした。
北野天満宮が庶民に慕われているのは、学問の神様というだけでなく、日々の食生活に密接に関わる「麹」と関わりが深かった神社というのも理由のひとつかもしれません。
(文/湊 洋志)