WSETのSAKEプログラム設立をはじめ、イギリス・ロンドンで日本酒を広める活動をしている菊谷なつきさん。

Museum of Sake 代表・菊谷なつきさん

Museum of Sake 代表・菊谷なつきさん

酒サムライとしても知られる彼女は、東京のコンサルティング企業から酒販店のアルバイトへ転身し、その後イギリスで日本酒ソムリエとして活躍。現在は、自身が立ち上げた「Museum of Sake」でロンドンの人々へ日本酒の普及活動を行なっています。

チャレンジに満ちた経歴を持つ菊谷さんは、日本酒をさらに普及させるためにはなにが必要だと考えているのか、お話を伺いました。

コンサルからはせがわ酒店で修行をする毎日へ

秋田県の酒蔵が実家という菊谷さん。幼いころから母方の祖父が蔵元として酒造業に携わるのを見ていましたが、日本酒に関わる仕事をするという意識はまったくなかったのだそう。

「両親からは『自分の好きな道に進みなさい』と言われて育ちました。18歳のときにアメリカの大学に進学し、卒業と同時に日本へ帰国。ベンチャーの経営コンサルティング会社に就職し、毎日仕事に没頭するストイックな生活を送っていましたね」

しかし就職から2年半ほど経ったころ、祖父が病に倒れてしまいます。コンサルティング企業にて教わった社会人としての基礎や指針を持って、次のステップに挑戦したいと考えるようになった菊谷さん。「日本酒の愛を伝えられる人が家族からいなくなってしまわないように」と、日本酒業界に足を踏み入れることを決心します。

2009年、まずは日本酒について学ぶところから始めようと、はせがわ酒店でアルバイトを開始しました。当時は、現社長の長谷川浩一代表が交流の深い「十四代」や「磯自慢」、「飛露喜」といった蔵元杜氏が発信する地酒銘柄が一斉を風靡し、「醸し人九平次」や「獺祭」といった銘柄が世界に進出しはじめていたころ。お店で日本酒のテイスティングをすると、菊谷さんは大きな衝撃を受けたといいます。

「実は、それまで実家のお酒もまともに利いたことがなく、日本酒には『罰ゲームで飲まされるもの』といったネガティブなイメージしか持っていなかったんです。でも、一口飲んだ瞬間、『お米からこんなに美しい味わいが生まれるのか』と驚きました」

はせがわ酒店で働きながら、日本酒の味わいの幅広さ、品質の高さ、造り手の本気を感じるにつれ、「恋に落ちてしまった」という菊谷さん。その確信と同時に、清酒出荷量ピークの1973年以降、下降の止まらない日本酒業界への疑問が湧いてきたといいます。

「こんなに素晴らしい造り手さんがたくさんいて、こんなにおいしいのに、『なんで私の世代は飲まないんだろう』と。『自分が日本酒業界にとってできることはなんだろう』と考えるようになりました」

ロンドンで学んだ、ゼロをイチにする難しさ

そんな中、「日本酒の未来は海外だ」という思いが日に日に強くなったという菊谷さん。自身の英語力を活かして、輸出国としてまだ未開拓の欧州の中心都市ロンドンにて日本酒事情を学び、「将来、実家の輸出に役立てられれば」と渡英を決意します。

ロンドンで新たな暮らしを始めた菊谷さんは、はせがわ酒店で培った知識とテイスティングスキルを生かし、SAKEソムリエとしてハイエンドな日本食レストラン「ZUMA」で働き始めました。

ZUMAのみなさん

ところが、お客さんに日本酒を勧めても、ほとんど断られてしまう始末。返ってくるのは、「まだ時間が早いから」「今日は大丈夫」「日本酒は嫌いなんだよね」など、ネガティブなコメントばかりでした。

「日本酒は蒸留酒だという誤解も多く、二日酔いの原因になるなど悪酒のイメージが強かったんです。日本酒に興味があって『飲みたい』と言ってくれる人はほんの一握り。どうしたら飲んでもらえるのかと考えるところからのスタートでした」

菊谷さんは「イギリスの方は新しいものに挑戦するのに保守的な傾向があり、一度コンフォートゾーンに入れば愛してくれるものの、そこにたどり着くまでの壁が厚い」と分析します。

日本酒を勧めて、「君が言うなら試してみるよ」と口にしてくれれば相手の目が変わる。菊谷さんが体験してきたのは、そうした「ゼロがイチになるポイント」でした。

ZUMAで働いていたころの菊谷なつきさん

ZUMAで働いていたころの菊谷なつきさん(左)

日本酒に興味がない人に日本酒を飲んでもらうためには、なにが大切なのか。菊谷さんに尋ねると、「相手を知ること」だと話します。

「日本酒を好きな人は、愛が強すぎて相手が見えなくなる傾向があるように感じます。相手が日本酒を好きになるかどうかは、その人次第。どんなライフスタイルを送っていて、どんなものにお金を払おうと考えるのか、これらをしっかり見る必要があると思っています」

また、菊谷さんはZUMAで初めて昇進が決まったときに、当時のゼネラル・マネージャーから「その少し増えた小遣いで月に一度でも星付きレストランへ行って、よいものを食べなさい。そういうことがお客さんのためになる」と言われたのをきっかけに、可能な限りさまざまなトップレストランで食事をするようになったといいます。

「飲食店へ来るお客さんが普段どんなものを選んでいるのかを注意深く学ぶことで、『ここに日本酒をつなげられるんじゃないか』という隙のようなものが見えてきたんです」

SAKEが生み出した「熱の伝導」

次第にZUMAでの活躍が認められ、系列店の「ROKA」でヘッドSAKEソムリエを担当することになった菊谷さん。しかし、当時のROKAでは取り扱う日本酒の数が少なく、ウエイターも日本酒の知識に自信がないため、お客さんが注文しようとすると逃げ出すありさまでした。

この状況を変えるため、菊谷さんはスタッフ向けに週に一度のトレーニングをスタート。また、週替わりで「Sake of the Week」をおすすめし、そのお酒の特徴や酒蔵のストーリーを教えたり、時には蔵元を呼んでいっしょにトレーニングやディナーイベントなどをするうちに、スタッフの日本酒愛が強くなっていくのを実感したのだそう。

スタッフとのトレーニング風景

トレーニングの様子

菊谷さんがヘッドSAKEソムリエを手掛けるようになってから、ROKAでの日本酒の売上は当初の2倍にまで成長。スタッフの情熱はお客さんにも伝わり、お客さんが自分の友達やほかのお客さんに「これ、飲んでみなよ」と日本酒を勧めることもあったといいます。

「スタッフから『この間はこのお酒を売ったよ!』『これについてもっと教えて』と報告や相談を受けたりするようになったんです。まさにSAKEコミュニケーションですよね。人から人へ、バトンのように熱が伝わっていく状況を目の当たりにして、日本酒振興のコアな部分を感じたんです。ZUMAとROKAの二店舗で変化を実感して、『これがロンドン規模で起きたらすごいことになる』と考えるようになりました」

ロンドンでの日本酒普及へさらなる意欲を燃やした菊谷さんは、2013年にレストランを退職して独立し、PR&教育事業「Museum of Sake」を設立。日本の酒蔵と契約し、プロモーションやエデュケーション、イベントプロデュースなどを手掛けるようになりました。

ワインの視点から日本酒を見る「WSET SAKE講座」の設立

独立して間もなく、世界最大規模のワイン品評会であるIWC(インターナショナル・ワイン・チャレンジ)の審査会場で、英国の世界的教育機関であるWSET(Wine & Spirit Education Trust)の戦略事業室長のアントニー・モスMWと出会った菊谷さんは、彼から「SAKEの教育に興味がある」という相談を受けます。

IWC審査会場での集合写真

IWC審査会場での集合写真

日本食ブームに乗って日本酒への興味が年々世界中で高まっている中で、英語や現地語で日本酒が学べる場所は日本国外にはまだ少なく、学ぶためには限られた書籍やインターネットを使うしかありません。

アメリカではジョン・ゴントナーさんを筆頭に、英語での日本酒教育者はいるものの、クイーンズ・イングリッシュや文化背景との違いからローカリゼーションが必須となります。

「ヨーロッパのワイン教育機関WSETを拠点に、日本酒を学べる講座を作ることはできないか」と同じ課題意識を抱えて意気投合した2人は、WSETにSAKE講座を作ることを決意しました。

菊谷さんいわく、WSETの教育手法の強みのひとつは「定量的かつ事実に基づく根拠をロジカルに伝える」こと。

「日本酒は職人の世界なので、説明がつかなくても疑問を持たずに続けている慣習はたくさんあります。でも、ワイン業界の人々はロジックを求めるし、筋が通らないとスッキリしない。そういう方たちの要望に応えられるような講座を作ろうと考えました」

WSET 日本酒講師認定ツアーの様子

WSET 日本酒講師認定ツアーの様子

さらに、テイスティングに関しても、WSETのワインなどにある手法を踏襲して体系化しました。

「日本における日本酒の味わいの表現は曖昧で、辛口・甘口・どっしり・しっかり・すっきりといったキーワードを英語に訳すると、内容が薄い言葉になってしまいがち。『20語でテイスティングノートを書いて』と言われても、どのように書くべきかわからないですよね。

WSETのテイスティングは明確な指標があり、『この果実のような香りはどこからくるのか』『この高めの酸は製造工程のどこで生まれたのか』など、お酒の色・香り・味わいが何に由来しているのかを突き詰めるよう努めています」

日本酒をいかにワイン文化の中に入れることができるかを考え、できる限り中立的な立場で日本酒業界を包括的に紹介することを目指したWSET講座。上級者コースであるLevel3は、日本酒業界を牽引する人々やワインソムリエ、これから日本酒ビジネスを始めようとしているプロフェッショナルが数多く受講しています。

「酒サムライ」の叙任式

「酒サムライ」の叙任式

こうした海外での普及活動が評価され、2015年、菊谷さんは日本酒と日本文化を世界に広めようと尽力している人に与えられる称号「酒サムライ」に叙任されました。

「世界中に私より功績を残されている方がたくさんいる中で選んでいただけたことを、とてもうれしく思っています。世界の各地で日本酒啓蒙に励んでいる仲間に、さらにスポットライトが当たるようなことがしたいという自分のミッションを再確認しました。

WSETは現在27カ国に160人以上の日本酒のエデュケーターがいて、ネットワークのようになってきています。『講師育成』というと偉そうに聞こえますが、彼らは共に学び合う仲間たち。お酒の世界には終わりがないので、WSETをお互いに情報交換をして一緒に楽しむためのプラットフォームにしていきたいと思っています」

講座では定量的なことしか教えないと決めながらも、「ロボットみたいな講師を作りたいと思っているわけではない」と菊谷さんは話します。

「同じ資格の講師だとしても、みんなが同じ教え方をする必要はありません。ひとりひとりが自分のパッションや思いを伝え、"熱"を伝導していくことが日本酒の根元だと思っています」

大切なのは、日本酒のポジションを確立させること

日本酒を世界へ普及させるための一番の課題は、日本酒の「ポジション」を考えていくことだと菊谷さんは話します。

「例えば、魚を食べるときは白ワイン、肉を食べるときは赤ワインというように、『どんなときにSAKEを飲むのか』というシチュエーションを確立していく必要があります」

菊谷さんいわく、ワイン業界の人々からは、「日本酒には日本酒にしかできない表現や合わせ方がある」との評価を受けることが多いのだそう。

「世界中のガストロノミーが繊細な方向へ進んでおり、塩分や油に頼らず、うまみをベースとした引き算の料理が評価されてきている。そのような料理に対して、タンニンがきつい赤ワインや酸が強い白ワインは合わせにくいのですが、淡い日本酒はきちんと寄り添ってくれます。

ワインでは、この『寄り添う』という表現をあまり聞かないので、日本酒独特の表現やペアリングにつながっていくのではないでしょうか」

菊谷さんとSAKETIMESの合同イベントのページ

そんな菊谷さんは、11月〜4月にかけて、全6回のビジネスパーソン向けの日本酒セミナーをSAKETIMESと合同で開催します。

「新型コロナウイルスの影響でオンラインでの会話が多くなり、日本と海外の距離がとても近くなったと感じました。ロックダウン中に開催したWSETの無料ウェビナーにも300〜400人もの人々が世界中から参加し、オンラインの力を実感していたので、『日本でもなにかできないか』とSAKETIMESさんに相談したところ、今回の企画につながったんです」

世界ではワインにまつわる知識がビジネスパーソンにとっての教養であるように、日本人に対して日本酒の教養が求められる場面は増えていきます。菊谷さん自身、駐在でロンドンに赴任している人々から相談されることは少なくないそうです。

「日本酒は、何百年もの暖簾を守ってきた家族や地域の歴史風土や伝統文化を伝える、すばらしい飲み物だと思っています。海外の現場を知りたい人もいらっしゃると思います。外から日本酒を見つめることで、その魅力を再発見し、固定観念にとらわれない楽しみ方を学べるようなイベントにしたいですね。イギリスではこんな風に飲んでいる、こんな飲み方が流行っている、といったこともお伝えしながら、みなさんと議論や情報交換ができるとうれしいです」

◎イベント概要

(取材・文/Saki Kimura)

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