創業明治43年、富山県黒部市にある銀盤酒造は、折からの日本酒不振と「普通酒」の出荷量減の影響を受け、売上高はピーク時の6割ほどに落ち込んでいました。彼らが取った選択は「事業譲渡」。2016年6月にニュースで報じられたように、兵庫県神戸市の阪神酒販株式会社の傘下に入り、同社取締役の田中文悟さんが社長に就任しました。

田中文悟新社長のもとで企業再生を推し進め、およそ半年。「新生・銀盤酒造」の今、そしてこれからを、SAKETIMESは連載でお届けしています。第1回では事業譲渡に至るまでの経緯と、譲渡先の決定をした取締役・相談役の堀川悦朗さん、長く銀盤酒造に勤めている総務部・相談役の松川弘子さんにお話を伺いました。

第2回では、事業譲渡の決断に際して、実際に現場で働く社員の方たちにインタビューをしました。告知された時に感じた印象をはじめ、この半年で実感できる変化や展望はあったのでしょうか?勤続20年以上(40年を超える方も!)のベテラン社員ならではの銀盤酒造への想いに迫ります。

「何かが起きる」ことはみんなが感じ取っていた

この日、インタビューに応じてくださったのは6名の社員さんたち。杜氏から物流部門まで、まさに銀盤酒造における商品づくりの全行程に携わるみなさんです。

酒造りの最高責任者である杜氏を務め、酒造部の部長でもある荻野久男さんは、第1回でも話題に触れた複数社との事業譲渡の交渉テーブルに同席。通常の業務と並行して水面下で交渉を進めるにあたって、その悩みや心のわだかまりを他人へ口にできない苦しみを感じていました。

「社内で話しにくい内容があるときは、近隣の宿泊施設を借りる場合もありました。最終的には阪神酒販に決まった、という事業の事実を知っていても、発表されるまで誰にも言えず、つらかった」と荻野さんはこぼします。

酒造部と製品部で副部長を務める中陣理さんは、事業譲渡の交渉が進む以前から、会社へ意見をしていたひとり。

 

「以前まで組織としてはトップダウン式でしたから、意思決定が適切であれば効果的にも働くのですが、(復調の兆しもなかなか見えず)末端の従業員にいたるまで閉塞感が充満していました。私は、このまま潰れるのは避けたいと、意見を言うようにしていました。きっと会社は良くなるだろうと信じていたからです」

社内の様子に気を払う一方で、銀盤酒造に何かが起きていることは中陣さんも感じ取っていました。
「ある時から見学者が急激に増え、普通の見学では案内しいてない部分も見せていましたから、これはなにかあるな、と察していました」

声に出せないまま交渉を続ける者あり、流れる空気を感じ取って会社の行く末を案じる者あり……事業譲渡の前後、銀盤酒造はまさに「風雲急を告げる」具合だったのでしょう。

閉塞感の中でブランドを食いつぶしていた。でも、ここで終われない。

事態が動き始めたのは、2015年の10月を過ぎたころから。一部の社員には内々に「事業譲渡はするが、銀盤ブランドは残ること」などが明かされていき、安堵感を覚えたそう。営業部の部長である大作導雄さんは「12月に知りました。率直に言って、良かった、救われたかな、と思いました。事業譲渡までの2年間は、営業としても閉塞感を感じ、『銀盤ブランド』を食いつぶしているような状態でした」と振り返ります。再び表れた「閉塞感」というキーワードは、当時の銀盤酒造を語るのに避けては通れないようです。

いったい何が閉塞感のもとになっていたのか。大作さんは「平成5年ごろは商品にも新鮮味があり、得意先からも商品力を褒められる時代でした。しかし、近年は商品にも代わり映えがなく、『ラベルは変わるけれど、中身は一緒じゃないか』と反応されることも多かったですね」と話します。

この要因は、ものづくりへの姿勢の違いに大きく表れているようです。「(良い時代もあったために)前社長は『つくれば売れる!』という考えがあるようでした。しかし、田中社長は『売れるものをつくろう!』という考えが先にきます」と大作さん。

歯がゆい思いをしてきた大作さんは勤続30年。おそらくは何度か「退社」という選択も頭によぎったはずです。それを選ばなかった理由を問うと、「銀盤はここで終わるブランドじゃない。自分が働いてきた30年間も無駄にしたくはない」という愛着と熱意が消えることなく灯り続けていたからでした。

事業譲渡が決まり、田中社長との面談では「会社の悪い部分は全部伝えた」と言います。長く会社にいるからこそ、ボトルネックは把握している。悪い部分は改善し、これまで培ってきた銀盤ブランドでの再出発をしたい。今までやりたかったこと、これから実現したいことは様々あると期待する目は、その思いが表れている力強いものでした。

初めての飲み会、初めての名刺…田中社長がまず変えたこと

そして、田中社長へ代替わりして、およそ半年。銀盤酒造にはどのような変化があったのでしょうか。みなさんの声を総合すると「一般的な会社であれば当たり前のようなことが、当たり前に行われるようになった。これは劇的な変化だ」ということでしょうか。

総務部で社長秘書を務める道又美奈子さんは、こう言います。

「田中社長の一声で、これまでになかった朝礼も始まりました。エレベーターの中にも貼ってあったように、社員紹介の写真や標語、理念を通じて『銀盤ファミリーになろう!』とおっしゃられたのは印象に残っています。これまでは『毎日出社して、働いていればよい』という意識があったのも否めません、でも、今はみんなが一生懸命で、会社が一つの方向を見ているように感じます」

実は、これまでの銀盤酒造は、朝礼はおろか、部署間のコミュニケーションも「ほぼ無い」状態だったといいます。その状態は、物流部の部長である高村敏幸さんのエピソードにも表れています。

「物流部の倉庫は酒造りの現場と違うこともあって、僕らは現場社員の顔がわからないくらいでした。そもそも入社時にも、僕はみなさんに紹介されなかったほどですから(笑)。それが、いまは製品部に意見を言ったり、人手が足りない時に出来る仕事を助けたりと、交流がある。これまでは『できないことは、できない!』だったけれど、今はみんなが『できる限りやってみよう!』という気持ちになっています」

酒造メーカーにも関わらず"初めて"と言うほどの「飲み会」で、社員同士の人となりがわかったのもよかった、という声も。取材班が手渡された名刺も、田中社長になってから全社員に配布されたものだといいます。定期ミーティングで数値や目標も共有するようになり、会社として向かうべき方向が見えやすくなりました。

一方で、田中社長に変わって「負担も増えました」と苦笑いするのは、製品部の部長である佐々木富夫さん。「昨年度実績を見て、売上と在庫のバランスから欠品を詰められたりするプレッシャーもあります」と新たな仕事の仕方にまだ戸惑っている様子も。

酒蔵にとっての命ともいえる酒について、荻野杜氏は「新酒鑑評会で金賞を獲ろう!と田中社長からは発破をかけられています(笑)。ただ、先代は未来を見越して高度な機械を導入していきましたし、酒造りにおいては先代のおかげで良い設備は整っています。まずは銀盤ブランドとして品質を改善し、消費者に伝えていきたいと思っています」と意欲をのぞかせていました。

2年後には、何かが変わる。これからの銀盤酒造が造る酒

インタビューを終え、「みなさんの写真を撮らせてください」とお願いしました。銀盤酒造本社の屋上では、透き通った青空が、黒部の山々をいっそう美しく見せています。社員のみなさんは慣れない取材からの開放感もあったのでしょうか、お互いに声をかけ、「今年は紅葉がいまいちだなぁ」「こんなふうに撮ったらカッコいいのでは!?」と笑い合いながら、撮影に応じてくれました。

その和やかな空気に、「事業譲渡」につきまとうネガティブなイメージは感じさせません。これまで携わってきた「銀盤」への愛着や想いを、前向きに進むための動力へと変えているように思います。そこに「閉塞感」はありません。

銀盤酒造の公式サイトにある、田中社長のあいさつ文には、こう記されています。

蔵の雰囲気が必ず酒質に出ると私は思っております。

蔵が明るくなければ、良い酒は出来ません。
商品を愛せなければ、良い酒は出来ません。
常に挑戦し続けなければ、良い酒は出来ません。

新生銀盤は皆様の期待を裏切らない酒造りに
これからもしっかりと取り組みます。

かつて、さらりとした飲み口で人気を博し、富山が誇る有力酒蔵として市場を牽引してきた銀盤酒造の酒。これからはその酒に、どのようなエッセンスが加わるのでしょうか。社員のみなさんの笑顔に、その答えが表れているようです。

事業譲渡を経て生まれ変わる銀盤酒造は、まだ道半ば、むしろスタートラインに立ったところといえるのかもしれません。荻野杜氏も「社長が変わったから酒も人々も全てがすぐに変わることは難しい。きっと2〜3年はかかるでしょう」と口にしましたが、その「2〜3年」は“事業譲渡をしなかった”未来とは、きっと違うかたちになることは容易に想像ができます。

生まれ変わる銀盤酒造。その未来に、大いに期待が高まります。

(取材・文/長谷川賢人)

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