東京から北陸新幹線「はくたか」に揺られ2時間半、黒部宇奈月温泉駅で降り、車で少々。名水との呼び声高い黒部川扇状地の軟水を使い、よくよく磨かれた米をもって、今日も酒造りに勤しむ蔵があります。創業明治43年、その名は銀盤酒造。
富山県では名の知れた大酒蔵である銀盤酒造は、折からの日本酒不振の影響を受け、売上高はピーク時の6割ほどに落ち込んでいました。SAKETIMESでも以前解説したように、日本酒業界は純米酒や吟醸酒といった「特定名称酒」が伸びる一方で、これまで消費を支えてきた「普通酒」の出荷量が減少。普通酒を事業の屋台骨とする酒蔵が煽りを受けています。
そのひとつに、銀盤酒造もありました。最盛期には3万石あった年間出荷量も現在は約1万石。全国新酒鑑評会で金賞を通算26回受賞した実力を持ちながらも、経営層の高齢化や世代交代もあり、まさに岐路に立たされました。そして、銀盤酒造は大きな決断を下します。
2016年6月、「銀盤酒造が事業譲渡」のニュースが報じられました。兵庫県神戸市の阪神酒販株式会社の傘下に入り、同社取締役の田中文悟さんが社長に就任したのです。代々受け継いできた銀盤ブランドを他社へ譲り渡す……とも、一見は思える決断。しかし、その裏には「事業譲渡によってブランドを残し、再生する」という確固たる意志がありました。
あれから、およそ半年。銀盤酒造はどのような姿となったのでしょうか。SAKETIMESでは、彼らの今、そしてこれからを取材し、連載でお届けします。事業譲渡の決断に至った背景には、社員のどんな想いがあったのか。出荷量の落ち込みを見せる酒蔵は、新たな経営者のもとでいかに復活を遂げるのか。
僕らは一路、富山県へ向かいました。
社屋のいたるところに掲げられた、新しいスローガン
本社屋を訪れた僕らが目にしたのは、ブルーで描かれた新しいスローガン「LOVE銀盤!MOVE銀盤!」の垂れ幕。リニューアルした公式サイトのトップページにも打ち出され、社員が毎朝唱和している言葉だそうです。
ふと横を見ると、通用口の窓には「変える、変わる」と書かれた張り紙。エレベーターに乗れば、経営理念「心を酔わす酒造り」の解説ポスターと、インスタントカメラで収められた社員のプロフィール写真が部署ごとに並べられていました。その脇にはホテルの宴会場で撮られたと思しき「銀盤ファミリー(2016年7月)」と書かれた集合写真。どれも田中文悟社長になってから掲示されたものだといいます。
通された応接間から寒風吹く黒部の山々を眺めていると、2両の電車がやってきました。銀盤酒造の社屋裏には、単線の無人駅があります。いま、その無人駅にはおよそ不釣り合いなほど大きな、銀盤酒造の看板が備え付けられています。「LOVE!MOVE銀盤!」のフレーズに添えられた「目の前にギンバン」のコピー。看板越しに社屋が見えることから付けたのでしょう。遊び心を感じさせます。
社屋の至るところに掲示された理念、ファミリーとしての社員たち、そして無人駅の大看板。田中文悟社長が公式サイトの代表あいさつにも書く「蔵の雰囲気が必ず酒質に出る」の言葉をひとつ体現するような光景でした。
まず、僕らを迎え入れてくれたのは、2名の社員でした。銀盤酒造創業家に生まれ育ち、先代から一旦は代表権を引き継いで譲渡先の決定をした取締役・相談役の堀川悦朗さん、先代の頃から長く銀盤酒造に勤め、会社の姿を見てきている総務部・相談役の松川弘子さんです。連載第1回は、「事業譲渡」の裏側とその想いを、おふたりに伺いました。
機械化は、社員の「長期・安定雇用」を考えた結果にあった
銀盤酒造が目指したのは「飲み飽きず、悪酔いしないような、毎日楽しめる酒」。その気持ちから生まれる澄んだ酒は人気を呼び、時代の求めに応じて生産量も上がりました。
一時期は、新潟県などの県外から10数人の杜氏が訪れるほどでしたが、先代の堀川勲さんは、昭和30年代から機械化にも積極的に取り組みます。現在においても銀盤酒造の酒造りに機械が大きな働きを担っているのは、公式サイトの紹介ページにも明らかです。
機械化を推し進めた理由は、品質の安定とコストを抑えるだけではありませんでした。
「(先代が)従業員の負荷を減らすことを考えていたからでしょう。従業員も夜中に作業せず、日勤で済むようにがんばっていましたね。だから私も大きな苦労もなく、今まで長く勤められたと思います」と松川弘子さんは微笑みます。
堀川悦朗さんも「父は社員が夜中までずっと働いているということは避けたかったようです。瓶詰め機械を考案するなど、いかに負荷を減らし、社員が長く安定して働けるかを考えている人でした」と振り返ります。
銀盤を続けたい。発展させたい。悩んだ末の事業譲渡
先代のもとで好調な時期を経験しましたが、地酒ブームが去って以降は、苦しい状況が続きます。加えて、先代の堀川勲さんは89歳の高齢まで社長を勤めてきましたが、体調などを理由に辞することに。
息子である堀川悦朗さんは「本来であれば私が4代目だった」と口にしますが、酒造りの経験はありません。悦朗さんの本職は皮膚科医。銀盤酒造の社屋からほど近い場所に「堀川皮膚科クリニック」を構え、現在も運営に当たっています。
「(父から代表権が移ったが)黒部の地場産業として100年以上続けた事業を、簡単には手放せません。先代に対しても顔向けができない。従業員を守りたかったですし、銀盤に愛着もありましたから、廃業は考えていませんでした。しかし、経験のない自分がしゃしゃり出て、会社がさらに悪い方向へ行くのも本意ではありませんでした」
悦朗さんは悩みます。40年続けた医師から転じ、酒蔵の経営をやる才覚があるのかを。日本酒の消費量そのものが落ちる中で、革新的な挑戦ができるかを。それでも、銀盤酒造は、銀盤ブランドは、何としてでも続けたい……辿り着いた答えが「より発展させてくれるノウハウをもった方に任せる」こと。つまり、事業譲渡の道でした。
その悩める姿から、松川弘子さんは内心を感じ取っていました。「その決断には大きな苦悩があったのだと思います。創業以来、堀川家が先祖代々営んできた銀盤の酒造りの歴史もあります。設備投資を積極的に行ってきた酒蔵があり、40人近い社員の生活もある。これだけの規模のものを、どうすれば良い方向にもっていけるかを考え抜くのは大変なことですから……」
譲渡先の決め手は「酒蔵を横並びで捉える」こと
事業譲渡に詳しい仲介業者に依頼し、数名の候補と面会するも、心に留まる人はすぐには現れなかったそう。交渉にあたって大切にしたポイントは「従業員の生活を守り、銀盤ブランドを絶やさず、発展させてくれる」こと。たとえば、ある酒蔵からの提案では、いわゆる下請けにも近い状態になってしまいそうな姿を危惧し、「それでは“発展”にならない」と判断しました。決めあぐねる中、登場したのが田中文悟社長でした。
ユニークなキャラクターも魅力の田中文悟社長
悦朗さんは「初対面から印象は良かったですね。体格から圧倒されたのは事実ですが(笑)、体だけでなく心も大きな方だと感じた。明確な根拠はありませんでしたが、『この人になるんだろうな』と直感的に思いました」と言います。
前述の「ポイント」も田中文悟社長はしっかりと踏まえていました。阪神酒販はこれまでにも秋田県の阿櫻酒造、岐阜県の三千櫻酒造といった酒蔵の運営にも携わってきた実績を持つだけでなく、「グループ経営に変わりはないが、酒蔵を横並びで捉えている」という点に大きな違いがあったそうです。すでに経験があり、銀盤酒造の名前もブランドも継続しながら、発展の可能性を感じさせてくれる……まさに「その人」が表れたのです。
「今も100%田中社長を信じていますし、さらにうまくいくと確信していますよ」
"銀盤らしさ"とは何か?
田中文悟社長のもとで再出発となった銀盤酒造。事業譲渡の後は、僕らが目にしたスローガンやコピーを掲げるだけでなく、目に見えて新しい取り組みが増えたと言います。
「理念を作り直すだけでなく、みんなでラジオ体操をやったり、これまでなかった朝礼をやるようにもなりました。(地元の有力紙である)北日本新聞に従業員を紹介する広告を打ってくれたりもしましたね」と松川弘子さん。長くその目で銀盤酒造の酒造りを見つめてきた松川弘子さんに「銀盤らしさとは?」を尋ねてみると、すこし考えてから、「飲む人にも、造る人にも優しいこと、ではないでしょうか」と答えてくれました。
「飲む人にも、造る人にも優しい」
飲み飽きずに楽しめる『銀盤』、喉ごしよく「翌日に残らない酒」と好評の『播州』、精米歩合35%にまで磨き上げた淡麗辛口『米の芯』……銀盤酒造が造り上げてきた酒たちは、かかわる人みんなを優しく包みます。それは事業譲渡があっても変わらない、銀盤酒造の基礎となっているようです。
連載第1回では、事業譲渡に至るまでの経緯を振り返りました。ともすれば「身売り」と捉えられがちな事業譲渡ではありますが、銀盤酒造においては「自らが再起するための契機」としての選択であることが見えてきました。それを支え、受け容れてくれる田中社長との出会いが、その決意を後押しします。そして、すべての根底には、銀盤酒造が酒にも人にも以前から大事にしてきた「優しさ」が流れていることが大きく働いているようです。
その基礎は、連載第2回に登場するベテラン社員たちのエピソードにも続きます。各部署からお聞きした現場の声から「新生・銀盤」への期待をさらに探っていきます。
(取材・文/長谷川賢人)
sponsored by 銀盤酒造株式会社
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