ある分野における偉人を"神様"と呼ぶことがあります。野球の神様ならベーブ・ルース、漫画の神様なら手塚治虫......日本酒業界においても"神様"と讃えられる人がいます。それは、"酒造りの神様"と呼ばれる醸造家・農口尚彦氏。

能登杜氏四天王、現代の名工、吟醸酒や山廃ブームの火付け役......農口杜氏を表現する言葉は数多くあります。醸造家として70年近いキャリアをもち、全国新酒鑑評会で連続12回を含む、通算27回の金賞を受賞するなど、まさに生ける伝説と言えるでしょう。

建設中の酒蔵を視察する農口杜氏

建設中の酒蔵を視察する農口杜氏

「酒造りの現場から退いていた農口杜氏が、2017年冬から酒造りを再開する」

このニュースは日本酒ファンや業界関係者に瞬く間に広まりました。

2年の時を経て蘇る農口杜氏の酒。その醸造現場として、農口杜氏が酒を造るための理想をつめこんだ酒蔵が石川県に新設されます。その酒蔵の名は「農口尚彦研究所」。その名の通り、農口尚彦のもつ匠の技術・精神・生き様を次世代に継承することを大きなコンセプトとしています。

農口杜氏が若い世代へ受け継いでいきたい、酒造りに対する信念とはいったいどんなものなのでしょうか。SAKETIMESは連載という形で、この挑戦的なプロジェクトの軌跡を追っていくことになりました。

連載第1回は本人へのインタビューも交えながら、プロジェクトの概要や今後の方針、そして、期待が寄せられる酒造りについてお届けします。

「技術・精神・生き様」を受け継ぐ場をつくる

「引退した後でもファンレターをもらうことがあったので、お客さんの期待に何とか応えたいと思っていました。酒造業界に良いインパクトを与えてから引退したいという気持ちがあったんです」

農口杜氏は以前から、今の日本酒業界に対して「お客さんの求めるものを造り、酒蔵は自信をもって適正な価格で提供すべきだ」と考えていたのだそう。しかし、復活の目的はただ美酒を追い求めるだけではありません。自身が長年酒造りに携わるなかで習得した匠の技術や精神を、次世代の酒造りを担う若者たちへ受け継いでいきたいと考えたのです。

「農口杜氏の酒造りにおける匠の技術・精神・生き様を研究し、次世代に継承することをコンセプトとし『株式会社農口尚彦研究所』と命名」(公式サイトより)

たとえ農口杜氏といえど、ひとりの力では日本酒を取り巻く状況を変えるのは困難です。しかし、"農口イズム"を受け継いだ蔵人が増えることで現状を打破できるかもしれない......このプロジェクトは日本酒業界に対して投じられた一石とも言えるでしょう。

農口杜氏

プロジェクトが立ち上がってから約2年。酒造りをするのに理想的な場所を探し求める日々が続きました。農口杜氏からのオーダーは「良い水。おいしい空気」。みずからの足でひとつずつ土地を視察し、水質を見るためにボーリング調査も行いました。

新しい酒蔵を建てるにあたって重視されたのは、細部に至るまで農口杜氏の『技術・精神・生き様』を込めること。「農口尚彦研究所」という名前が付けられたのは、農口杜氏が再び美酒を追い求める場所でありながら、「農口尚彦」という人物そのものを継承していく場所だからです。

農口尚彦研究所の外観

建設中の建物内部には、日本酒や農口杜氏の歴史に触れることができるギャラリースペースや、日本酒を最高の状態で楽しむために設えられたテイスティングルームも備えられています。単なる"酒を造る場所"ではなく、文化を伝えるSAKEツーリズムの発信拠点としての役割も担っています。

農口尚彦研究所の入口

未来の杜氏を育成する、農口尚彦の流儀

酒造りがスタートするにあたって蔵人を募集したところ、全国各地から応募が殺到。現役蔵人から未経験の大学生までが名乗りを挙げました。厳正な審査を乗り越えた8名を迎え入れ、今冬の酒造りに向かうのだそう。これからの世代を担う未来の杜氏たちは、実際の酒造りを通じて"農口イズム"を継承していきます。

ただ、技術を継承するだけであれば、農口杜氏が以前執筆した『魂の酒』のように、日本酒造りの神髄を筆に載せる方法もあったかもしれません。しかし、文字や写真だけでは伝わらないものが数多くあるのも事実。

たとえば、麹の造り方などは実際の現場でなければ学ぶことはできません。仕上がった麹をそのまま食べ、五感で判断するのが農口杜氏の流儀。口当たりで水分量を計り、過去のデータと照らし合わせながら、思い描いた酒造りが進められているかをチェックするのです。

現在建設が進んでいる、農口杜氏こだわりの麹室

現在建設が進んでいる、農口杜氏こだわりの麹室

農口杜氏は若き蔵人たちに対して、酒造りを模索する先に見つける"旨さ"を教えたいと意気込み、このように語っています。

「杜氏になってまず考えたのは、自分の方針をはっきり打ち出して、働いている人たちに『酒母はこうや。麹はこうや』と、自分が頭の中で考えていることを伝えること。もし質問されても、即答できなければ杜氏ではありません。だから、働いている人には何でも尋ねてほしいと思っています。

こんな風に人を育てようと思うのは、『菊姫』(石川県)にいたからでしょうね。菊姫にいたときは一生懸命に勉強して、7,000石をひとりで管理していました。『大吟醸の品質を下げるわけにはいかない』という大きな責任があったんです。

(石川県の鹿野酒造で)『常きげん』を造っていたときの弟子たちは、みんな一生懸命になって質問してきてくれたので、自分の考えを隠さずに伝えました。10年をかけて、それぞれを杜氏として育て上げることができたと信じています。

今回も、お客さんから教えてもらった、"この味"と言える味わいをしっかり出して、それをちゃんと教えてやりたいですね。先日、教え子である『常きげん』の杜氏・木谷くんが造った本醸造酒を飲みました。『あぁ、俺の教えた通りに、ちゃんと"この味"が出てるな』と感じましたね」

いまの日本酒業界は、お客さんのニーズを汲んでいるか?

農口杜氏の酒造りには、"お客さん"や"市場"が欠かせません。たとえば、農口杜氏がブームに火を付けたという山廃仕込み。当時は人気がなかったというその技術を、京都の酒蔵で3年かけて会得したのは、味わいの濃い酒を求める地元の人々を満足させたいという気持ちが発端でした。

実は、農口杜氏ご自身は、どちらかといえば下戸に近い体質だそう。それでも生産者と消費者が直接つながれるイベントなどに積極的に参加し、みずからの酒を振る舞い、その感想を聞くことで着実に経験を積み上げてきました。また、台湾やブラジルなどの海外へ視察に行ったり、講演会で日本各地に赴いたりするなかで、市場や時代のニーズを読み解きながら酒造りを続けてきました。

今もその姿勢は変わりません。商品の多様化が進む日本酒業界の向かうべき方向性を聞いてみると、農口杜氏は「時代や海外のニーズにあった酒を造ること」と話します。

「一昔前には"労働酒"という概念がありました。重労働後の空きっ腹に濃い酒を流し込めば、頭のてっぺんから足の先まで酔うことができたんです。それで寝付きやすくなって、朝の目覚めも心地良い......そういう旨味のある濃い酒を飲むが一番の喜びだったんです。

ただ、今は重労働で腹を減らすことが少なくなり、時代に合わせた軽快な味わいの酒が必要になってきました。そういう時代には労働酒のような濃い酒は求められず、ビールやワインを飲みたいという感覚になるのかもしれません。だからこそ、軽快でありながらも、日本酒の特徴である米の旨味があって、キレの良い酒のニーズが高まっているのだと思います」

壁面の農口杜氏が若手蔵人を見守り、語りかける仕込み室

壁面の農口杜氏が若手蔵人を見守り、語りかける仕込み室

また、日本の人口が減り続けていくと言われていることから、海外のニーズを汲み取った酒造りも欠かせないと考えているのだそう。海外で日本料理店が多く出店されていることを追い風にしながら、「その国々のニーズに合わせた酒も造っていかないと」と話していました。

目指すのは、もっとも難しい日本酒

ついに始動する農口尚彦研究所。最初の搾りは12月を予定しています。いったいどのような酒を造るのでしょうか。造る酒について農口杜氏が思い描くのは「旨味とキレを両立させた酒」だそう。

「旨味とキレを同時に求めるのは難しいことなんです。キレを優先すると旨味が少なくなってしまう。キレを出すためには酵母を健全に育て、最後まで仕事をしてもらうための追い水が欠かせません。しかし水が多すぎると、キレがあっても味のない"水臭い酒"になってしまう。また、適度な酸のバランスも大事。酸が多すぎると飲みにくくなるし、少なすぎるとモタっとする。つまり、もっとも難しい部分を両立させながら仕込んでいかなければなりません」

復活してすぐに、最大の難しさに挑戦する。その姿勢に、並々ならぬ熱意を感じます。この新しい酒蔵の登場は、日本酒業界にとって大きなターニングポイントになる可能性を秘めているでしょう。

農口杜氏の発言「ひと口飲んで『ああ、おいしいなぁ』っていう、ため息が漏れるような酒を造りたい」

かつて、農口杜氏は出演したテレビ番組でこんな言葉を残しています。

「一生かかっても『わかった』ということはないと思うんです。そこにどこまで近づけるか。ひと口飲んで、ため息が漏れるような酒を造りたいですね」

農口尚彦が再始動する。盃を傾けた私たちが唸るようにため息をつく日は、そう遠くないのかもしれません。

本プロジェクトの詳細や最新情報は「農口尚彦研究所」の公式サイトから会員登録(無料)することで確認することができます。会員には農口杜氏本人からメールマガジンが届くのだとか。ぜひ、こちらもチェックしてみてください。

(取材・文/長谷川賢人)

この記事を読んだ人はこちらの記事も読んでいます