日本酒の輸出金額は150億円を突破し、世界への堅調な広がりを見せています。
最近では商品の輸出だけでなく、日本酒の魅力を海外で広げてくれるインフルエンサーの養成を行う動きも増えてきています。

日本酒の魅力を世界へと発信する時代から、世界から日本酒の魅力を発信する時代へと変えていこうという試みです。

今回は、農林水産省と世界的に有名なワイン教育プログラムである WSET が連携した「日本料理と日本酒のマリアージュ体験研修」の様子をレポートし、その意義を考察していきます。

世界的に有名なワイン教育プログラム「WSET」とは

ワイン&スピリッツ・エデュケーション・トラスト(Wine & Spirit Education Trust:略称 WSET )は、1969年に創設され、ロンドンに本部を構える世界最大のワイン教育機関です。

日本におけるワインの資格として代表的なものは「ソムリエ」が挙げられます。ソムリエはワインの普及や食文化の向上を目的とした飲食業界向けの資格でしたが、WSET の資格はワインやスピリッツに関する全般的な知識が求められます。WSETが提供するプログラムは、初心者から専門家まであらゆる人々が対象で、現在は19の言語で世界60か国以上にわたって展開されています。年間およそ56,000人が認定試験を受験し、国際的に認められた認定資格なのです。

受験者の中にはワインジャーナリストやワインメディアの関係者も含まれ、彼らがこうした教育を受けることで第三者として客観的な情報発信を行うことができます。さらに、国際的な資格を保有していることに裏打ちされた消費者に対する信頼の付与が可能となり、ひいてはワインのブランド向上に寄与すると期待されています。

2015年、WSET は英国女王賞(Queen's Award for Enterprise)の国際貿易部門に選出されました。この賞は、女王陛下により毎年贈られる、もっとも名誉あるビジネスの功績を称える賞で、成功を収めた英国の企業・機関を認定するものです。2015年の受賞は、WSET の国際市場における優れた功績が認められたことを示しています。

世界中のワイン業界の成長・発展に寄与してきた WSET ですが、2014年より日本酒コースも導入されました。今回の研修では日本の酒蔵見学、テイスティングを通して資格試験が実施されました。では、このコース導入にはどういった狙いがあるのでしょうか。

農林水産省とWSETの連携による体験研修のねらい

2013年12月に「和食 日本人の伝統的な食文化」がユネスコ無形文化遺産に登録されました。和食に対しては海外でも大きな関心が寄せられるようになり、日本を訪れる外国人にとっても来日の目的のひとつとして位置づけられるようになりました。東京オリンピック・パラリンピックが開催される2020年を目前に控えるいま、日本は海外への食文化発信に向けて絶好の機会を迎えています。農林水産省は、日本の食文化の普及に取り組みつつ、日本の食産業の海外展開と日本の農林水産物・食品の輸出促進を一体的に展開することにより、グローバルな食市場(2020年には680兆円の見込み)を獲得することを目指しています。

こうした背景のもと、農林水産省は WSET と連携し、2017年1月15日から19日までの5日間で、日本料理と日本酒のマリアージュを体験する研修を実施しました。受講するのは WSET 日本酒コースの教育候補生。世界中から選抜されたワインのスペシャリストたちが一堂に会しました。

本研修は2013年より実施されており、今年で4回目。今回の研修には従来の酒蔵めぐりに加えて、伝統的な日本食・食文化および日本料理と日本酒のマリアージュの体験、茶の湯文化体験、日本産米や日本独自の食材である京野菜・和牛についての講義を学ぶことのできる、より充実した内容となっています。

総合的なプログラムを通じて、日本酒を含めた日本食文化の魅力を世界に広める、未来のインフルエンサーを育てることが本研修の最大のねらいです。

今回のレポートは2017年1月16日に開催された研修のうち、伝統的な日本食・食文化についての講義、日本料理と日本酒のマリアージュ体験、酒蔵見学についてお届けします。

熊倉功夫さん講義~日本の食文化~

日本料理と日本酒のマリアージュ体験研修は、大正元年創業の老舗料亭である京都・東山区「菊乃井 本店」にて行われました。

まずはじめに、和食の世界無形文化遺産認定の立役者である歴史学者(日本文化史・茶道史)で、日本料理アカデミー理事の熊倉功夫さんによる日本の食文化についての講義がありました。

「伝統的な日本食のスタイルは大きく3つの形に分けることができます。1つ目は、家庭の料理。これは、飯・汁・菜・漬物の4つの要素からできており、「一汁三菜」とも呼ばれています。一人一台のお膳にちょうど乗り切るサイズのこの料理は、およそ900年前の絵巻物にも登場するほどの歴史があります。

一汁三菜のスタイルはやがて、お客様をもてなすためにお膳の数を増やすようになり、最大で七膳の豪勢な料理も登場します。これが2つ目のスタイルの「本膳料理」と呼ばれるものです。本膳料理は一人分の量がとても多く、食べきれるものではありません。そこで、本膳料理の中には、はじめから手を付けずに持ち帰って家族へのお土産にするための料理もありました。たとえば、鯛の尾頭付きですね。現在は安全面での心配から持ち帰りを断られることも多いですが、昔はこうしたことが気づかいとして存在していたのです。

豪華な本膳料理ではありますがその量の多さのために、温かい料理は冷めてしまい、逆に冷たい料理はぬるくなってしまいます。そんな事情から、3つ目のスタイルの「懐石料理」が生まれました。

懐石料理のポイントは「出来立てが出てくる時系列をもった料理であること」「食べきれる量であること」「料理人からのメッセージが込められていること」です。懐石料理では最初に、折敷(おしき)に載った飯・汁・向付が提供され、次いで煮物・焼物と続きます。

向付、煮物、焼物を三菜と数えると、ここまでに一汁三菜のスタイルが取り込まれており、伝統的な家庭料理を意識していることが分かりますね。懐石料理ではその他にも、強肴や吸い物、八寸などといったお酒のアテとなる料理もふんだんに盛り込まれています。

今回、みなさんに楽しんでいただくのは、本膳料理と懐石料理の長所を合わせ持った新しいスタイルの料理です。大きく違うのは、最初にご飯が出てこないところです。代わりに、液体の米が出てきますが。そう、今回はお酒を楽しむための料理です。

最後にひとつだけ。日本料理にはメッセージが込められています。それは、言葉にならないメッセージです。たとえば、この部屋の床の間の掛け軸には正月を祝う宝船の絵が描かれています。

これは、みなさんの新しい一年を祝福する気持ちを表しています。また、日本には器を手に持って食事をする文化があり、食器の触感を楽しむこともまた食事の醍醐味です。このように、舌や鼻だけでなく、目で、耳で、手で、五感をつかってメッセージを受け取り、日本料理を楽しんでみてください」(熊倉氏)

村田吉弘さん講義~日本料理の構造とうま味の関係~

続いて、菊乃井の三代目主人で全日本・食学界理事長の村田吉弘さんによる、日本料理の構造とうま味の関係についての講義がありました。

「今回は日本料理の構造について話します。私たちは普段、どのようなものを食べて生きているでしょうか。ヒトのような大型の霊長類は、1日に30品目ほどの食品を食べます。これは、小動物のように同じものばかりを食べていると、相手の種が絶滅してしまうからなんです。だから、ヒトと似た大型の霊長類、たとえばゴリラなども、森の生態系を守るためいろいろな葉を食べると言われています。

そんなヒトでも、生後3か月くらいは同じものを摂取し続けていますね。そう、それは母乳です。母乳には糖、脂質、うま味が含まれています。ここで大事なのは、うま味が頭の中の快感中枢を刺激してドーパミンを生成させ、また母乳を飲みたくさせるように仕向けているということです。赤ちゃんが飽きずに母乳を飲み続けられるのは、こうした理由があるからなのです。そして、うま味を欲するという記憶は大人になっても残っています。

人間の食事に欠かせないのは糖質です。米、パン、ナン・・・どの民族の主食にも欠かせない栄養分ですね。そして脂質。世界の料理は油脂を中心に成立してきました。そんな中、一民族だけがうま味を中心に料理を構成しました。それが日本人です。日本料理は五味(甘味・かん味(塩辛さ)・苦味・酸味・うま味)を重視しますが、世界の料理はうま味のない四味とも言えるでしょう。

うま味成分には昆布や野菜から取れるグルタミン酸、魚や肉から取れるイノシン酸などがあり、異なるうま味成分を同時に口にすると、8倍から12倍のうま味を感じられる相乗効果が期待できます。こうした強いうま味成分を上手に活用するのが日本料理なのですが、総カロリー量はたいへん低いです。一般的な懐石料理では平均で65品目を提供しますが、デザート前まででたったの1000kcalしかありません。洋食と比較してみると、ハンバーガー1個で800kcal、カルボナーラ1皿で1200kcal、フランス料理のコース21品目で2500kcalですので、差は歴然ですね。

カロリーが低くて、いろいろなものが食べられて、お腹もいっぱいになる。これは人類の健康に役立つと、世界のトップシェフたちが和食に注目し始めているのです。そして、カロリーや油の少ない和食には、酸味の優しい日本酒がピッタリです!みなさんもぜひ、これから出てくる料理とお酒のマリアージュを楽しんでみてください」(村田氏)

日本料理と日本酒のマリアージュを楽しむ

お待ちかねの食事の時間。部屋の前方に用意された京都の地酒の数々に、参加者の顔も思わずほころびます。

ていねいに出汁が取られ繊細なうま味が凝縮された料理と、優しい味わいの日本酒はすこぶる相性がよく、料理とお酒が互いに引き立てあいます。

ほろ酔い気分で、参加者の会話も盛り上がっていました。

60品目以上を食べ終え、心は満足感でいっぱいでしたが、不思議と胃がまったくもたれないことに驚きました。うま味を活用することでヘルシーに仕上がる和食が健康的であると注目される理由がよく分かります。

京都・月桂冠への蔵見学

菊乃井での日本料理・食文化体験を終えたあとは、伏見へ。1637年創業の日本を代表する日本酒メーカー・月桂冠を訪れ、年27万石を生産する大規模な施設を見学しました。

2つの班に分かれ、大手二号蔵内を見学します。月桂冠の社員による英語での案内に、研修生は真剣なまなざしで耳を傾けていました。

まずは5階の屋上で伏見区内を一望しながら、銘酒づくりを支える水と自然についてのお話。

その後、酒米の品種や酒造工程について全体的な説明を受けます。内蔵(うちぐら)で杜氏を担う相川さんによるプレゼンテーションもありました。

その後、日本酒の製造工程に沿って、蒸米・製麹・もろみ・搾り・濾過の現場を見学しました。

見学中には案内役の社員を引きとめて、

「精米歩合によって蒸らしの時間はどのくらい調節するのですか?」
「今年の粕歩合はどの程度まで出したんですか?」

などといった質問を投げかける研修生も。日本酒製造現場の細部まで迫ろうとする姿勢が感じられました。

製造現場の見学を終えた後は、月桂冠総合研究所へ。

月桂冠総合研究所は、品質安定向上を目指した「品質第一主義」を掲げ、酒造全般における基礎研究を行うとともに、確信性・創造性をもって幅広い技術開発や商品開発に挑戦する研究開発機関です。

研究所内では、液体化させた麹の実用化に向けた研究や酵母の発酵力に関する検証など、興味深い研究の数々を見学しました。この日の最後にはテイスティングの時間も。真剣なまなざしで利き酒に臨む研修生たちの姿が印象的でした。

農林水産省× WSET の体験研修が見据える未来

日本酒のインフルエンサー育成は、これから世界に向けて日本酒を普及・啓蒙していくフェーズにおいて重要な位置を占めています。来日した受講者たちは酒蔵を訪ね、テイスティングを通じて流暢に日本酒を表現し、評価していきます。

農林水産省は、グローバルな市場における日本酒の普及・啓蒙を行う際に、同時に日本の食文化や日本独自の食材の魅力を合わせて伝えることで、世界におけるより実践的で本質的な日本食・日本酒の提供を加速化し、ひいては輸出の拡大につなげることを目指しています。嗜好品としての日本酒の魅力をじゅうぶんに伝えつつも、その背景にある日本の歴史や成り立ちなどを含めた「文化体験としての日本酒」を広めることで、海外においても高いレベルで日本酒の普及が実現されると SAKETIMES は感じています。

日本酒の世界進出にあたっては、日本から世界への一方的な情報発信や商品輸出に留まらない戦略が必要となるでしょう。農林水産省と WSET の提携による体験研修では、世界各地において強い影響力をもつワインのエキスパート人材に日本食と日本酒の魅力を体験し学んでもらうことで、現地での日本食文化の盛り上がりや日本酒のローカライズの大きな流れを生み出すことが期待されます。

本研修での取り組みが今後どのような広がりを見せていくのか、注目していきたいですね。

(文/綱嶋航平)

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