日本酒の知識はもちろん、造り手の気持ちを伝える接客が魅力的な店は数多くあります。
今回紹介する東京都尾山台の「蕎麦前 ながえ、」も、そんな店のひとつ。東急大井町線の尾山台駅から歩いて3分ほど。一見では蕎麦屋とわからない、おしゃれでモダンな外観です。
それぞれに物語がある、数々の日本酒
間接照明が、店内をやわらかく照らしています。「蕎麦前 ながえ、」は、カウンターを含めて14席の小さな店。ゆっくりとした時間を過ごせるように、座席の間隔はゆったりとしています。
「日本酒を入れる冷蔵庫を5℃に設定している店が多いようですが、うちは1℃の設定にしています。そのほうが、酒質の変化が少ないんです。冷蔵庫から出して注いだ時点で、日本酒の温度が上がってしまうので、できるだけ低い温度で保存したほうが良いと思います」と、日本酒へのこだわりを語るのは、店主の中溝伊織さん。
店内には、常温のものを含めて、常時40~50種類の日本酒が置かれています。
熟成された古酒など、幅広いジャンルの日本酒を取り扱っているようです。
特に目を引いたのは「磐城壽(鈴木酒造店/福島県)」の空き瓶のボトル。この日本酒は、2011年の東日本大震災で被災した鈴木酒造店が、同年の春から夏にかけて、同県内にある国権酒造の設備を借りて造った1本です。「あの震災を忘れてはならない」と、このボトルが教えてくれているような気がしました。
日々変化する味わいを見極める
「蕎麦前 ながえ、」では、日本酒をグラス(100cc)か一合で提供しています。常連のお客さんはメニューを見ずに、店主・中溝さんのおすすめを注文することが多いのだそう。中溝さんは、お客さんの好みだけでなく、何杯くらい飲むのかまで考えて、日本酒を選んでいます。
メニューブックだけでは、その酒の魅力を伝えきることはできないため、銘柄の説明は最小限に抑え、お客さんとの会話を大切にしています。
「酒によっては、開栓からの変化を数日間かけて楽しめる。その日その日で酒の美味しさが変わっていくんです」という中溝さん。なかでも「竹鶴」は、開けた直後よりも、1ヶ月ほど経過したもののほうが美味しくなっていました。
「昔から飲んできた酒だからこそ、特徴もピークもわかる。それでも、年によって多少の違いがあるので、それを知るために酒蔵や酒販店に通って情報を仕入れ、接客に活かしています」
ついつい杯が進んでしまう、こだわりの料理
また、蕎麦はもちろんのこと、おつまみが充実しているのもこの店の魅力。使っている野菜は、生産者の顔がわかる有機栽培のものを中心に使っています。冬場に登場する九条ネギは、千葉県の自宅で育てているのだとか。
杯をかたむけながら、おつまみをいただいてみましょう。
まずは名物の「蕎麦前セット(1人前850円)」から。板わさ、はりはり漬け、焼き味噌、鯖ハムの燻製、鴨味噌、わさび茎のかえし漬が載った盛りだくさんの一皿です。焼き味噌の香ばしさや、わさび茎のツンとした辛味や香りなど、バラエティに富んだ味わいで、日本酒が進みます。
1杯目は、島根県で開発された酵母を使った「加茂福 無濾過 生原酒(加茂福酒造/島根県)」です。フルーティーな香りが印象的ですが、甘ったるさはなく、後味はすっきりとしています。
続いて、人気メニューのひとつである「ポテトサラダ(600円)」。他店にはないポテトサラダを目指して、研究を重ねた一品です。蕎麦の実とボローニャソーセージが入った、独特の香ばしさがあります。
ポテトサラダに合わせるのは、中溝さんが日本酒に興味をもつきっかけとなった「東北泉 瑠璃色の海(高橋酒造店/山形県)」です。
中溝さんが飲食関係の職に就いたころ、初めは日本酒への興味がまったくなかったそうです。そんななか、ある酒販店で勧められて飲んだのが、この「瑠璃色の海」でした。「こんな美味しい日本酒があるのか!」と衝撃を受けたそうで、それ以来、店の定番酒になっています。
人気の「合鴨ロースの蒸し煮(1,000円)」は、1人前の量でも注文可能です。ひとりでも来店しやすいような細かい心遣いが随所に感じられます。
こちらは、夏場に人気の「アナゴのてんぷら(1,200円)」。旬の料理もしっかりとそろえています。
「だし巻き(800円)」は、出来立て熱々で提供されます。生産者の名前がメニューに明記され、安心感のある味わいです。
続いていただくのは、石川県輪島にある白藤酒造店の「寧々」
低アルコールのお酒ですが、しっかりとした味わいのある酒でした。梨のような甘い香りで飲み口も優しい印象です。
締めにいただくのは「もり蕎麦(700円)」。日ごとに蕎麦の産地が異なるようで、取材で訪れたときは北海道産でした。
「ストーリーもあわせて楽しんで」
中溝さんは、小さい店だからこそ、お客さん同士の縁を大事にしています。お客さんの8割は、地元に住む方々なのだとか。
「テーブルに置いた日本酒の瓶をきっかけに、見ず知らずのお客様が会話を始める。そんな、酒場の雰囲気が好きなんです。酒という共通の興味を通じて、仲間の輪が広がっていけばいいなと思います。だからこそ、ひとりでも気軽に入れるような店にしたいですね」
「かつて、勉強のし過ぎで、頭でっかちになってしまったことがありました。でも、お客さんは時間とお金を使ってうちの店に来てくれている。それなのに、私のほうから能書きを押し付けるようなことはしたくない。たとえば、蕎麦のメニューでも『○○産』という風にはあまり書きたくないんです。酒の味だけではなく、その背景にあるストーリーもいっしょに楽しんでもらいたいですね」
また、不定期で蔵元を呼んだ会もやっているのだそう。
「酒蔵さんと長く付き合っていくには、誠意をもって接しなければなりません。そこから、人との付き合い方やその大切さを再認識しました。うちに来てくれるお客さんに対しても同じですね」
「お客さんの様子を見ながら、酒と料理を提供したい」と決め、オープンしてあっという間に1年。奥様の佳子さんとともに、多くのお客さんに喜びを与えてきました。
蕎麦屋でゆっくりと日本酒を楽しむ。少しハードルの高いイメージがありますが、「もっと軽い気持ちで来てほしい」と中溝さん。縁を大切にする気持ちが、接客にも表れているように感じました。
(文/あらたに菜穂)
◎店舗情報
- 店名:蕎麦前 ながえ、
- 住所:東京都世田谷区等々力4-9-3 M´s Garden尾山台
- 電話:03-3701-6050
- 営業時間:11:30~14:00(L.O.) 18:00~21:00(L.O.)
- 定休日:火曜
- ※予約はお酒を楽しむ方に限ります。夜の未成年者の入店は不可です。