こんにちは、SSI研究室専属テイスターの石黒と申します。
日本酒が低迷した原因を作ったのは三増酒という意見は多いですが、どのような経緯で三増酒が造られ、どのように純米酒が復活したのかまでは意外に知られていないように感じます。三増酒について、また純米酒が復活に至るまでの経緯を説明させていただきます。
Vol.1では、「合成酒と三増酒の登場」と「満州国とアルコール添加酒」について、
Vol.2では、「終戦直後の食糧難と施設及び人的損失による酒造りの困難」と「戦後闇市にて販売されていた密造酒」についてお伝えしました。
昭和30年代後半から昭和40年代後半にかけての日本酒ルネッサンス
Ⅰ昭和20年代における三増酒の製造比率と三増酒に対する当事者間の考え
◎ 昭和24~27年酒造年度製造分日本酒三増酒比率
下記の表のように、毎年三増酒比率は高まっていった。食糧管理制度のもとで、原料米の割合は逐年増加していきましたが、政府が懸念したのは酒税の減収でありました。
酒造年度 | 原料米総石数(千石) | 内三増酒分(千石) | 製成比率(%) |
昭和24年(1949年) | 494.75 | 9.28 | 95:5 |
昭和25年(1950年) | 592.11 | 48.91 | 80:20 |
昭和26年(1951年) | 718.00 | 101.57 | 65:35 |
昭和27年(1952年) | 910.54 | 194.64 | 55:45 |
(出典:麻井 宇介著 「酒・戦後・青春」)
このような状況の中で当時の当事者間の考え方の違いは以下の通りでありました。
Ⅰ 当局(大蔵省、日本国政府) 原料米割当数量如何によっては、大幅造石やむを得ない。
Ⅱ 大手メーカー 品質保持の為、総石数の半分を上回ってはならない。
Ⅲ 中小メーカー 大衆酒としての三増酒は増石すべきである。
Ⅳ 技術者 原料米割当数量の如何にかかわらず、一定の線を超えるべきではない。
(出典:麻井 宇介著 「酒・戦後・青春」)
このときの大手メーカーや技術者が後の時代に品質が問われるようになることをすでに確信していたことは、1973年(昭和48年)以降現実となり、現在の日本酒の生産量は当時の約3割まで落ちています。
ただ、時代背景を考えるとこの時代三増酒を増産せざる得ない状況にあったことは確かで、三増酒を一概に批判することはできないと思われます。
Ⅱ酒造り純米酒復活の動き
昭和36年(1961年)日本人の米の消費量がついに減少へと転じ、食糧管理制度は米不足とは正反対の深刻な米あまり現象を招き形骸化していきました。
これ以前からイ号清酒(米、米麹、水のみを原料として発酵させたもの)つまり純米酒について、研究が行われていたようですが製品化は行われていませんでした。
1964年(昭和39年)京都伏見の玉乃光酒造から無添加清酒として純米酒が発売されました。
最初に商品化されたのは玉乃光でありますが、1967年(昭和42年)から鳥取県では上原浩先生(元財務局課税物件鑑定官、日本酒サービス研究会(SSI)最高技術顧問)と有志酒蔵が中心になり純米酒の醸造を行い、広島県では賀茂泉酒造が純米酒の研究を行っていて1971年(昭和46年)に本仕込み賀茂泉として製品化を行いました。
1973年(昭和48年)には純粋日本酒協会が発足し、2013年(平成25年)現在17の酒蔵が参加しています。
この昭和30~40年代の酒類マーケットとして、高度成長期に入った1955年(昭和30年)~1964年(昭和39年)にかけてビールの消費量は5倍に、ウィスキーはトリスバーを中心に、無に近いところから橋頭堡を確保するまでに達し、さらに1965年(昭和40年)~1973年(昭和48年)にかけてビールは2倍に、ウィスキーは3.6倍に需要を伸ばしていました。
一方で日本酒では灘の酒の需要が増え昭和40年代後半から昭和50年代に桶売り・桶買いが行われるようになり中小の酒蔵は大手の酒造りを行っていました。
また、この頃(昭和40年代後半)から、愛飲家は日頃飲む酒を日本酒からビールやウィスキーに切り替え出し、日本酒離れが徐々に起こりだしました。
Ⅲ 賀茂泉のイ号清酒
昭和30年代半ば頃から賀茂泉酒造2代目前垣寿三氏は日本酒の置かれた状況に危機感を抱き、1965年(昭和40年)から純米酒醸造を開始しました。
この高度成長の時期に徐々に日本人の食生活が豊かになるにつれて、アル添酒中心の酒造りをしていたのでは消費者から日本酒が見放されて、欧米から本格的にワインやウィスキーが入ってくれば太刀打ちできなくなることを見越し、早くから純米酒を中心にした酒造りを行うべきだということを海外視察より感じ、前垣寿三氏はレポートを作成し醸造協会に提出していました。
その頃に、玉乃光酒造が無添加清酒を製品化させ、賀茂泉酒造もイ号清酒(純米酒)である本仕込み賀茂泉を1971年(昭和46年)に製品化させました。
Ⅳ地酒ブームと日本酒ルネッサンスともいえる動き
昭和40年代後半から地酒ブームが消費者の間で徐々に起こり始めました。
これは地方の酒蔵が、アルコール添加の普通酒や三増酒主流の時代に敢えて純米酒や本醸造酒を差別商品として売り出したことに起因しています。
この頃、一部の地方の酒蔵は、消費者の食に対するニーズの多様化による日本酒に対する危機感を大手に先駆けて持ち始め、大手と同じことをやっていては生き残れなくなると危機感を持っていました。
その結果として、1964年(昭和39年)に玉乃光の純米酒である無添加清酒の発売、1966年(昭和46年)には、京都伏見で月の桂の㈱増田徳兵衛商店が大吟醸古酒を造り始め、1976年(昭和51年)に全国に先駆けて発売、1971年(昭和46年)の賀茂泉酒造の純米酒である本仕込み賀茂泉の発売、大阪では西條合資会社によって天野酒の銘が復活、1980年(昭和55年)にまだ吟醸酒という言葉があまり世の中に知られていない時期に出羽桜 桜花吟醸酒が出羽桜中吟として無鑑査の2級酒として発売されました。
昭和40年代後半~昭和50年代前半にかけての新潟酒の淡麗辛口化が起こり、その後、昭和50年代後半から新潟の酒である越乃寒梅を筆頭に久保田、〆鶴、八海山等の銘柄が幻化していくことになります。
三増酒やアル添酒が本格的に生産されだした昭和20年代半ばの時点では、大手もアル添酒や三増酒については否定的であり、1981年(昭和56年)には月桂冠が6月1日以降発売の製品には糖類を添加しないことを決定し、同年に菊正宗も三増酒の造りを廃止しています。
この時期、地方の酒蔵は大手とは異なり日本酒本来の造りを始めることができましたが、大手の酒蔵は雇用や国税局との兼ね合いから中々三増酒中心の造りから切り替えるのは困難であったのでしょう。
一方で、この時期に大手の桶売り・桶買いを行うことで地方の酒蔵の中には技術力と設備、後に特定名称酒を造る上での基礎となるノウハウを蓄えて、後の吟醸酒ブームや、特定名称酒が見直されるにあたって平成に入って台頭してくる蔵が出てくる要因となったと考えられます。
◎ 純粋日本酒協会とは ⇒ 1973年に(純粋な日本酒とは何か)をテーマに発足し日本酒の在りかたについて研究し続けている協会。発足時より、水、米、米麹のみを使った純米酒の開発と普及、啓蒙活動を行っています。 (出典:純粋日本酒協会)
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