長期熟成酒研究会が創設された1985年当時は、ちょうど吟醸酒が大ブームになり始めたころ。誰もが「吟醸酒こそが究極の日本酒だ」と思い込んでいました。

そんな状況のなか、色も香りも味も吟醸酒の対極にある熟成古酒の試飲をすすめると、ほぼ全員が「日本酒は古くなると酢になるのだろう」「こんな酒は飲めない。単に奇をてらっているだけだ。」と全く相手にされませんでした。そのような反応に対してきちんと説明できるようにしようと、長期熟成酒研究会では、熟成古酒の理論とこれまでの歴史について研究をはじめます。

今回は、古い文献からみる熟成古酒の歴史をご紹介していきます。

日蓮上人と古酒

鎌倉時代中期に日蓮宗を開いた日蓮は、邪教に惑わされている人々とそれを容認する幕府を厳しく非難する「立正安国論」を書いたことから、幕府の厳しい弾圧を受け身延山へ隠遁しました。そんな日蓮が書いた、厳しい山中に隠遁する自分に多くの門徒が寄せてくれる食料・生活品に対する礼状のなかに、酒に関する記述も多く残されているんです。

聖人(すみざけ)一つつ、味文字(みそ)一おけ、生和布(わかめ)一こ 」
「鵞目(がもく)一結、三年の古酒(ふるざけ)一筒給了」
「粽(ちまき)五把、箏(たかな)十本、千日(さけ)一つつ給了」
「新麦一斗、箏(たかな)三本、油のような酒五升、南無妙法蓮華経と回向いたし候」
「人の血を絞れる如くなる古酒(ふるざけ)を、仏、法華経にまいらせ給える女人の成仏得道疑うべしや」 (人の血のような真っ赤な古酒を、仏・法華経にお供えされた貴女は必ず成仏得道できますよ)

これらの手紙に書かれた、門徒たちが上人へ贈った酒は

    • 「聖人」=濁りのない透き通った酒
    • 「三年の古酒」=三年以上貯蔵した酒
    • 「千日」=約3年間(1000日)以上貯蔵した酒
    • 「油のような酒」=トロリと粘性のある酒
    • 「人の血を絞れる如くなる古酒」=人の血のように濃い赤色をした古酒

などから、3年間以上貯蔵・熟成された酒で、その色は濃い赤、油のような粘性のある酒であったことが読み取れます。これは現在造られている熟成古酒の特性となんら変わりません。

貧しい農民の門徒たちが自分たちの食べる貴重な米を節約し、身を削る思いで造った酒。しかも、それを3年間も貯蔵・熟成させたたいへん貴重な酒です。日蓮上人は酒の美味さを味わいながらも、それは酔うためではなく少しでも元気が出る薬のつもりで、それこそ舐めるように飲んでいたのではないでしょうか。

火入れと長期貯蔵の技術

これらの礼状の中で注目すべきことは、鎌倉時代中期に、貧しい農民たちが自分で酒を造り、3年間も貯蔵すると美味しく薬にもなるという熟成の効果を知り、それを腐らせずに貯蔵する技術貯蔵する容器を持っていたことです。

貯蔵中の酒が腐るのは「火落菌」という一種の乳酸菌が繁殖するためで、火落菌を取り除けば酒は腐りません。その方法の一つが「火入れ」という酒を加熱する技術です。酒の場合はアルコールが含まれている点と火落菌の特性から65℃ぐらいの加熱で完全に殺菌ができます。

江戸時代に書かれた醸造技術書「童蒙酒造記(どうもうしゅぞうき)」には、火入れの温度についての記述があります。

「薄火(うすび)」
蜜火(かくしび)ともいい、煮ている酒に手を差し入れ、釜の鍔(つば)のあたりで三回まわしても熱さを感じない温度。
「手引燗(てびきかん)」
上記のようにして差し入れた手を、釜の鍔のあたりで回して三回目に熱さを感じてひっこめるくらいの温度。主に江戸へ出荷する酒はこのようにして火入れされた。
「熱火(あつび)」
手引き燗よりも強く加熱する。釜の底でさわさわと沸騰する音が聞こえたら、酒を取り出す。熱しすぎると「煮殺す」といって、アルコールが飛んでしまう。

このような殺菌技術は「低温殺菌」と言われ、ヨーロパではワインの変質や腐敗を防ぐために、1865年にフランス人のルイ・パスツールによって発明されました。日本酒ではその300年以上も前の戦国時代のころには実用化されており、明治時代に日本へやってきた科学者たち驚かせたというエピソードがあります。

貯蔵容器については、鎌倉時代の資料によると、1252年に出された「沽酒禁令」によって、鎌倉地域の家々にあった酒壺(さかつぼ)が各家1個を残してすべて破却されたそうです。その数は37,274個におよんだとされることから、酒造りや酒の貯蔵には甕(かめ)や壺が用いられていたことがわかります。その容量は、現在の2升(3,6ℓ)~4升(7,2ℓ)と推定されるので、鎌倉時代には膨大な量の酒が造られ貯蔵されていたことになり、その量の多さには驚かされます。

(文/梁井宏)

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