川柳は、江戸時代後期の風俗習慣、特に江戸っ子の日常的な生活をうかがい知ることができる貴重な資料です。江戸時代の川柳集『誹風柳多留拾遺』の中には、酒にまつわる川柳が数多くあります。
体質的に酒に弱い日本人
世界的にみると、酒を飲み過ぎての失敗や醜態は厳しく非難され、その人格まで否定されることが多いかもしれません。しかし、日本では、ごく最近まで酒を飲み過ぎての失敗や醜態は、「酒の上で」という一言で許されてきたばかりではなく、周りの人たちはむしろそれを面白がっていたとさえ思われる節があります。
酒飲みは川柳師の格好のターゲットとして、多くの句が残されています。その最大の原因は、日本人の体質にあるのかもしれません。
- 酒に強く、普通に酒が飲める人(約55%)
- 少しは飲むことはできるが、あまり強くない人(約40%余り)
- 全く酒が飲めず、少しでも飲むと頭が痛くなったり、体調が悪くなる人(約4%)
日本人の体質には、上記の3種類のタイプが混在しており、それは本人の意思や体力には関係なくほぼ遺伝で決まります。これは白色人種や黒色人種にはない日本人の特異な体質によるもので、その原因が分からなかった時代が生み出した、独特の文化とも言えるでしょう。
灘から江戸への下り酒
灘の酒が、他の地方の酒にはない芳醇な味わいで江戸で持て囃されるようになったのは、江戸時代中期の18世紀になってからのこと。はじめは2斗(36リットル)入れの桶2丁を天秤棒で担って江戸へ運んでいましたが、その後は、
「酒十駄 ゆりもて行くや 夏木立」
の歌にあるように、4斗樽(72リットル)2丁を背に乗せた馬を、何頭も連ねて運ぶようになります。
ところが、陸路では大消費地である江戸の需要にとても追い付かないことから、大阪から江戸へ油や醤油などと混載する菱垣廻船を使い大量輸送をするようになりました。それでも追いつかなくなり、ついには300樽もの酒を積むことができる酒専門の樽廻船が登場し、大量の灘の酒が江戸へ運ばれていきました。
「すき腹へ 剣菱 えぐるように効き」
その当時は、全国的にみるとまだまだ酒造りの技術は未発達で、現代の酒と比べると、アルコール度数がかなり低かったと思われます。
しかし、灘では宮水の発見、摂播の米、六甲おろしの寒風、六甲の急流を利用した水車による高精米、摂海の気候などに加え、丹波杜氏の技術の進歩で、強い発酵でアルコール度数も高いほぼ現代に近い酒が造られるようになりました。
「剣菱」はアルコールも十分ある辛口の酒としてよく知られた酒で、"えぐるように効き"と言う言葉が、その味を良く表しています。
「船中で もめばやわらぐ 伊丹酒」
一方、酸が多く辛口で飲み難い酒も、何日間も船で揺られて江戸まで運ばれて来るうちに味がなじみ、口当たりの柔らかい酒になっていたようです。
当時の記録によると、灘から江戸へ運ばれた酒は年間60万樽、およそ3万8000キロリットル(約21万石)にも及んだということですから、その酒を荷揚げした日本橋の新川には立派な下り酒問屋が軒を連ね、大変な賑わいであったことがわかります。
「新川は 上戸の建てた 蔵ばかリ」
その賑わいを、普段酒が飲めないことから何かとバカにされる下戸が、酒に強い上戸に対し「お前たちは酒を飲んでご機嫌だけど新川へ行ってみろ。軒を連ねて建っている立派な酒倉は、みんなお前たちが飲んで儲けさせたものじゃないか」と皮肉って見せれば、
「世の中に 下戸の建てたる 蔵もなし」
「下戸のお前たちは、酒も飲まずに小銭をためているつもりだろうが、下戸が建てたと言う蔵が在ったら言ってみろ。一つもないじゃないか」と、上戸は切り返して見せます。
新川の酒問屋に受け入れられた酒はそのまま売られたのではなく、そこで何種類かの酒をブレンドし、さらに玉川上水の水を加えて味の調整を行い、それぞれの酒問屋の銘柄として売り出します。ですが、酒の味に敏感な酒飲みたちは、その水の加え方が多い酒をすぐに見破り、
「新川へ 玉川を割る 安い酒」
と、酒問屋への牽制も忘れません。
江戸時代にも楽しまれていた熟成古酒
江戸時代にも、酒を3年、5年と長く熟成させるとうまくなることが知られており、高価な商品としても流通していました。
酒を飲むと苦しくなることを知っている下戸が、この酒は3年間も熟成させた貴重な酒だと勧められると、珍しさも手伝って、ちょっと口を付けてみたら意外に美味い!つい自分が下戸であることを忘れて、二口三口飲んでしまいます。
「三年酒 下戸の苦しむ 口当たり」
は、そんな顔が真っ赤になって苦しくてたまらないという、下戸の悲しさを表した歌です。三年間も熟成させた酒は、味が丸くなって口当たりも良く飲みやすい貴重な酒として珍重されていたことがわかります。
(文/梁井宏)