かつて日本酒好きの間では、東北や新潟の銘酒が好まれる傾向がありました。さらに北にある北海道の地酒は、両銘醸地の陰に隠れがちでしたが、近年は、各蔵の努力や方針転換、新たな酒米の誕生により酒質を上げ、注目を集めはじめています。

北海道の地酒・酒米が注目されだした頃、真っ先に正真正銘の「北海道の清酒」を造ろうと改革を進めてきたのが「北の錦」を醸す小林酒造株式会社です。彼らの酒造りを知るべく、札幌から東へ45㎞の地にある小林酒造を訪ねました。

赤煉瓦の酒蔵!北海道で錦を飾る「北の錦」

札幌から高速バスに乗り、約1時間。人口約1万2400人の小さな街・栗山町に到着。北海道日本ハムファイターズの栗山英樹監督が、野球場と住宅を所有している街としても知られています。

JR栗山駅から徒歩15分で、赤レンガや石造りの蔵や建造物が壮観な小林酒造に到着。

蔵元の小林家は新潟から札幌に入植後、明治11年に初代・小林米三郎氏が酒造業を開始し、同33年に栗山町へ移転しています。銘柄「北の錦」は北海道のこの地に錦を飾ってやろうという意味で名づけられました。

写真は現在使用している仕込み蔵です。北海道の明治・大正建築の象徴である、和洋折衷の赤レンガと、札幌軟石による石造りの蔵や事務所、木造家屋が18棟も並び、そのうち9棟が国指定の重要有形文化財に登録されています。

赤レンガの仕込み蔵は全国的にも珍しく、この建築物を見るだけでも価値がります。仕込み蔵は6番蔵まであり、小さな街の酒蔵としては異例の大規模な施設です。

仕込み蔵の中は広々としていて、蒸米機、放冷機、浸積機などさまざまな作業が機械化されているのが印象的でした。

甑から蒸米をベルトコンベアに乗せ、放冷機で冷ましてから、バキュームカーのようなホースで吸引し、仕込みタンクに投入していました。

製麹室の中にも入らせてもらいました。放冷していた純米吟醸の麹を口に含ませてもらうと、ほのかに甘栗のようなふんわりとした味わいを感じます。

仕込みにかかわる蔵人は10人。南修司杜氏のもと、酒づくりに取り組んでいます。蔵人の半分は地元の農家の方で、自社で栽培した酒米を使用しています。

平成28醸造年度の仕込みは9月から始まりました。通常は10月1日からスタートする仕込みですが、小仕込みのPB(プライベートブランド)の需要も増えてきたため、異例の早さとなったそうです。

北海道の過酷な自然のもとで挑み続けた酒造り

現在、小林酒造の生産石高はおよそ1200石。それほど多くはありません。最盛期には1万4000石もの生産石高があったといいますが、そのうち糖類添加の三増酒がほぼ100%のシェアを占めていました。しかし、130周年を迎えた平成20年(2008年)、北海道でいち早く全量特定名称酒蔵を宣言し、少量生産の高級酒生産に切り替えました。その2年後の平成22年には全量北海道産米の使用へ転換ました。同蔵を統括している小林精志専務(47)は「昔は生き残るために大量生産し、今は生き残るために生産を減らしました」と語ります。

蔵には、大量生産の当時をしのばせる巨大な圧搾機やタンクがそのまま残っています。

なぜ、これほど大量生産を行っていたのでしょうか。そこには北海道ならではの事情、歴史がありました。

空知地方は、明治から昭和30年代まで日本のエネルギー政策を担った日本屈指の石炭の産地であり、たくさんの炭鉱労働者が空知に移住してきました。同蔵が札幌から栗山町へ移転したのは、夕張市など同町近隣に炭鉱を開いた北炭(北海道炭礦汽船)と契約を結び、清酒を独占的に卸す狙いがありました。

大規模な赤レンガの蔵も、自前のレンガ工場で、夕張炭鉱などの大量需要に備え急ピッチで建築しています。明治から終戦までは日本が戦争に明け暮れていた時代。戦争のためにいずれ米不足になる。その時に、蔵を工場のように大きくしていかないと生き残れない時代でした。どこよりも蔵を大きくして効率よく酒を造り、そうして国の管轄する基地となれば、米を優先的に回してもらうなどの恩恵を受けられる、という先見の明でした。

生き残るために炭鉱に目をつけ、戦争の時代に国策に沿う経営を模索。毎日氷点下が続く北海道では、木造の蔵で酒は発酵しません。そのため、耐寒性のある煉瓦で蔵を造り、蔵全体を大量の石炭で温める必要があったのです。その上で、極寒でも氷らない三増酒を大量に生産したのでした。「北海道で一番先に石炭で日本酒を造った蔵でした。蔵存続への血のにじむような背景が、近年になって明らかにされてきています」と小林専務は感慨深げです。

北海道の地酒を支えた、道産酒米

北海道にも明治期には200近い蔵がありましたが、寒さから酒が発酵しない北海道の醸造環境では、設備投資ができない蔵はどんどん消えていきました。小林酒造のような大きな蔵でも壮絶な歴史があったほどです。

しかし、平成7年までに空知の炭鉱すべてが廃坑となると、人口流出で深刻な過疎化が進み、それは現在も続いています。もちろん栗山町も同様で、地元消費は自然と減ります。今度は生き残るために「炭鉱の酒」からの転換を求められたのです。そこで、前述したように、今度は量より質、そして「北海道の酒」にこだわることを決断します。

新たな酒米の誕生も後押ししました。2000年に「吟風」、2006年に「彗星」と北海道産の酒造好適米が登録されます。北海道の米は全国有数の生産量を誇りますが、かつては飯米、酒米ともに質が良いとは言えませんでした。道産酒米1号は「初雫」ですが、現在はほとんど使われていません。「昔の北海道米は溶けないので、道産酒は『細くて薄っぺら』という印象を持たれていたかもしれません」と小林専務。しかし、「吟風」「彗星」がしっかり溶け、内地(本州)の酒米にも負けない質を得られ、2014年には「北雫」も誕生。現在、同蔵は吟風を中心に、彗星、北雫、そして飯米の「きらら397」を一部使用しています。

「ウチのお酒の7割は吟風を使っています。北海道の米の中ではやわらかい味わいで、秋を越えるとより味が出てきます。彗星はスッキリとした香りの良いタイプになります」と南修司杜氏。20歳から小林酒造に務めて30年を超えるベテランで、杜氏としては8年目。転換前と以後の蔵をよく知っている方です。

「現在は、酸がしっかりした、食中酒として呑んでもらえる、それでいて綺麗なお酒を目指しています。昔は造っていても『これが食事やおつまみに合う酒か』と疑問に思うことがありました」と正直に話してくれました。北海道は日本の食糧基地で、酒肴の種類も豊富。食中酒を造らない手はありません。中には生酛系の醸造技術を持った蔵人もいて、近年は山廃や生酛造りにも取り組んでいます。

文化財を利用して蕎麦屋・カフェ・コンサートホールを開設

小林専務は「北海道は地酒にこだわる酒販店がたくさんあって、そこが私たちの強みであり、財産です。大切にしていかなければいけないと思います」と話します。酒販店から消費者に口コミで伝わり、北海道の日本酒ファンには揺るぎない評価を得てきました。「それも酒質を一歩でも向上させてきたからできたこと」との自負も持っています。

さらに、町と協力して1990年代から蔵をリノベーション。コンサートホールや、レストランをオープンさせ、旧事務所の「北の錦記念館」もショップ・資料館として開放。町屈指の観光施設という側面も持っています。

旧役員宅の木造家屋を改装し、道産そば粉と蔵の仕込み水を使った手打蕎麦店「錦水庵」も開いています。おすすめしたい美味しい蕎麦です。

さながら日本酒のテーマパークのようで、毎年4月の蔵開きイベントには2万5千人もの市民や観光客が訪れます。「暗いイメージがある空知ですが、地元に明るい話題を提供したい。蔵に来るだけですべてを完結できる施設にしたいと考えています」と小林専務。栗山監督のお祝い酒を造っているのも、明るい話題を共有し合おうという気持ちのあらわれです。

さらに、3年前まで小林家が住んでいた、明治30年築の生家(登録有形文化財)も有効利用しています。

3代目の小林米三郎氏が2011年に他界後、維持管理にお金がかかるため取り壊しの危機もありましたが、専務の姉・千栄子さんが教員を退職し、生家保存のため会社を立ち上げ、カフェや、家屋を案内するサービスを開始したのです。

カフェでは大吟醸粕を使った甘酒が上品で美味でした。

品質向上と共に、蔵の資産を生かし柔軟なPR戦略を打ち出している小林専務は、根本的には「蔵を見ていただいて、楽しみながら歴史を感じてもらい日本酒に興味を持っていただき、ウチのお酒を買っていただく。それが一番の戦略だと思います」と話します。全国展開を目指す以上に、あくまで北海道に根差すお酒を造りたいと考えているようです。

「東京で飲まれるお酒を目指すことも必要ですが、それとは別に、北海道でウチだけしかできないお酒を造っていくことも大事です」と小林専務は言います。「純米大吟醸 冬花火」はまさに同蔵しかできないお酒。北海道の特約店限定で、蔵に昔からあるオリジナル酵母を使用し、吟醸香は穏やか、お燗でも美味しい大吟醸です。炭鉱に育てられた蔵の矜持を持ちながらも、空知や北海道にこだわり「北海道で愛される日本酒」への進化という成長軸がある限り、小林酒造の前進はこれからも続いていくはずです。

◎スポット情報

  • 名称:小林酒造株式会社
  • 住所:北海道夕張郡栗山町錦3丁目109
  • TEL:0123-72-1001
  • アクセス:JR札幌駅から高速バスで約60分。
  • 蔵見学:10人以上の団体に限り可能。5日前までに要予約。
  • 予約TEL:0123-76-9292

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