杜氏を筆頭とする酒造り集団が誕生したのは江戸時代初期。池田や伊丹など、下り酒の産地が発展していくなかで人手不足が生じた結果、田舎から出稼ぎに来る奉公人が増え、酒蔵独自の社会ができあがっていきます。
当時、播州や丹波など近畿以西の各地には、山口県の熊毛杜氏、愛媛県の越智杜氏、広島県の沼隈杜氏、岡山県の備中杜氏など、多くの杜氏集団が存在していました。
これらの地域は、5世紀以降に大陸からやってきた渡来人の寄港地と関係があります。酒造技術は西から東へ、いくつもの時代を経て伝わっていったのでしょう。江戸時代の奉公人たちも、一から酒の仕込みを学んだのではなく、それぞれの地域で銘酒を醸していた人たちが灘や伊丹へ来ていたようです。
今回は、集団で作業を行う酒造業に必要な規律と組織について、みていきましょう。
杜氏を中心とした、酒造りの組織
以下は、灘の酒造りを担った丹波杜氏の役職です。昭和42年(1967年)には、杜氏を除いたすべての役職が、酒造組合と杜氏組合によって改正されました。
- 杜氏
- 頭 → 杜氏補佐、副杜氏
- 大師 → 麹主任
- 上酛廻り → 酒母主任
- 下酛廻り → 酒母係
- 釜屋 → 蒸米係
- 道具回し → 整備係
- 上人、中人 → 係員
- 飯炊き、下人 → 廃止
伝統的な名称を変えることになったきっかけは、灘五郷の酒造会社に労働組合ができたことです。酒造りの近代化が急速に進んでいくなかで、季節労働者が取り残されてしまうことを危惧した丹波杜氏組合長の指導によって、変更が決まりました。
現在は、会社組織における役職名を使う場合もあるので、職人の世界の名称と異なる部分も多いでしょう。また、小さな蔵では、すべての作業を全員でこなすため、こうした名称が使われることは少ないかもしれません。
酒造りを指揮する「杜氏」
杜氏の語源は「刀自」。"外で働く男"を意味する「刀禰」に対する、家事一般を取り仕切る女性の呼称でした。
当時、酒は家庭で造るもの。鎌倉時代、日本の東西に住む人々の交流が盛んになるにつれて増加した宿屋で、お客さんにふるまうための酒を造ったのは、主に女性といわれています。それが、大量に酒を造る時代になると、酒蔵という男社会を取りまとめる肩書きに変化したのです。
大正時代に記された、灘の酒屋で働いていた人物の回想録には、このような記述がありました。
「みろ、あれが丹波の百日いうんや」
モッコ日(酒造りの期間中に1日だけ許された休日)に灘の蔵から神戸の湊川神社を参詣した酒屋男たちの一向に侮辱の眼が向けられました。しわだらけの着物に手拭いの頬かむり姿、オヤジの荷物を数人の下働きが奪い合って太鼓持ちに励む自分たちの姿を客観視して、
「一度この世界に踏み込んだら絶対に杜氏にならなあかん」
と身にしみて思った。
これは昭和中期まで活躍した杜氏・畑栄一さんの言葉です。当時の蔵人は同じような気持ちで辛い仕事に耐え、精進したのでしょう。
今では「蔵人」という言葉が一般的に使われるようになりましたが、酒蔵で働く人間にとって、「蔵人」と呼ばれることは決して気分の良いものではありませんでした。「蔵人」と呼ばれるたびに、自分が未熟であることを恥じ、1日でも早く杜氏にならなければと精進したのです。
杜氏は酒造りの責任を一手に担うだけでなく、蔵人の仕事や生活の管理、スタッフの編成、賃金や労務条件の交渉、そして、蔵人の家族の世話、あいさつや礼儀作法の指導など、さまざまな仕事をこなさなければなりませんでした。
杜氏が「おやっさん」と呼ばれるのは、蔵人にとって肉親以上の存在だからです。酒蔵で寝食をともにし、厚い人情をもって蔵人を指導する「おやっさん」ほど、部下に慕われている上司は他にいなかったのではないでしょうか。しかし、この先何年もすれば、酒蔵の杜氏が「おやっさん」と呼ばれることもなくなってしまうかもしれません。
現場のリーダー「頭」
杜氏の補佐役を務めるのが「頭」です。
杜氏を監督とするなら、現場に立って指揮を執る頭はフィールドプレイヤーのリーダー。つまり、キャプテンのような存在です。酒造り唄の際、唄の始めと終わりを仕切る指揮者の役割をもっていました。仕事の上では、杜氏と同等の能力が必要になりますが、待遇面では大きな差があります。杜氏には飛びぬけた厚遇を与える代わりに、下働きの賃金をできるかぎり低く抑えていたのが、19世紀以降の酒蔵の世界です。
頭を務め上げたものの、あと一歩で杜氏になれなかった人の話もよく聞きます。強力なコネや太鼓持ちの美味さなど、実力以外の要素が大きく係わる出世競争。ピラミッド型ではなく、杜氏以外はみんな並列というのが、酒蔵の組織でした。
麹造りを担う「大師」
「一麹、二酛、三造り」という言葉があるように、麹の出来は酒の良し悪しを決定する重要な要素。麹造りを担当する「大師」は、頭が兼任することも多いようです。
「代司」という漢字が当てられることもあるのは、杜氏の目が届かない麹室という閉鎖空間において、杜氏に代わる権限を委任されているということなのかもしれません。杜氏を目指さず、大師のままでいることを望んだ人も少なくなかったようです。
酒母の世話をする「酛廻り」
「酛廻り」の役目は、酒母の世話。麹造りと並んで、酒造りの花形ともいえる仕事です。
しかし、暖気樽の詰め替えなど、大怪我のリスクをともなう危険なポジションでした。樽の中に湯を詰め込む際や、樽を抜き差しする際など、高温の湯を身体に被ってしまう危険がつきまとい、耐熱防具のない時代は、さぞ苦労したことでしょう。
蒸米のプロフェッショナル「釜屋」
米を蒸すのは、原料処理のなかでも重要な工程。「釜屋」の仕事は、甑(こしき)の蒸気をいかに上手く扱うかにかかっています。
米の状態に合わせて、蒸気が出る量を調節しながら、"ひねり餅"をつくって、杜氏とともに蒸し具合を確認しました。杜氏は、ひねり餅の伸び具合などから、蒸米の状態を確かめる「検蒸」を行い、その良し悪しを見極めます。ひねり餅はそのまま神棚にお供えして、酒造りの成就を祈願していました。
酒造りを支える「道具回し」
その日の仕事を的確に把握し、決められた時間までに必要な道具を準備するのが「道具回し」の役割です。全体の工程を充分に理解する必要があるため、端役が務められる仕事ではありません。
一流のスポーツ選手が自分の道具を大切に扱うように、酒造りの職人にとっても、樽や桶などの手入れはとても大事でした。道具の世話を通して、そのありがたさを知り、そして、造りを下支えする影の役割がいかに大切かを心得ることで、気遣いのできる人間が形成されていったのかもしれません。
酒蔵で一番の働き手「上人・中人・下人」
甑堀り(蒸米をすくって掻き出す作業)という、もっともキツい肉体労働を担うのが「上人」です。
蒸米を運ぶ担当者が桶を肩に担いで待ち構えているところに、蒸米の塊を放り込む作業を、延々と繰り返します。甑の中は蒸気で充満しているため、作業が終わってからも、身体にしみ込んだ熱が一日中冷めず、辛い思いをしたそうです。
甑の仕事が終わると、上人は酒を搾る役割にまわります。搾りには「槽(ふね)」という機械が使われていたため、作業のリーダーは"船頭"とも呼ばれていました。上人の下には「中人」「下人」という役職があり、さまざまな雑務をこなしながら、酒造りを覚えていったのです。
蔵人としての姿勢を学ぶ「飯炊き」
酒蔵のルーキーが、まず経験するのが「飯屋(ままや)」という炊事係。朝昼晩の食事から寝床の準備、風呂の掃除や使い走りなど、落語の世界における内弟子修業のように働きながら、蔵人としての人格を形成していったのです。
収入格差の大きかった、杜氏と蔵人
杜氏になると、その収入は大きく変わります。江戸時代後期の資料では、他の蔵人との賃金格差はなんと3倍以上。基本的な給料以外の収入を考慮すると、さらにその格差は拡大します。
蔵人たちの給料は全体的に安いですが、杜氏になれば、驚くほどの稼ぎが得られる世界でした。大きな財を築けるかもしれないというモチベーションが、ツラい蔵人生活を乗り越える糧だったのでしょう。
(文/港洋志)
◎参考文献
- 『続 丹波杜氏』(丹波杜氏組合)
- 『西日本の酒造杜氏集団』(篠田統/京都大学人文科学研究所)
- 『近世灘酒経済史』(柚木學/ミネルヴァ書房)
- 『丹波杜氏畑栄一とその蔵人たち(現代の職人-2-)』(深沢武雄)