「蔵人をしています」と話すと、「それってなんですか?」と聞き返されることがよくあります。

酒造工、酒職人、酒屋稼ぎ......酒造りに携わる人の呼び名はいくつかありますが、もっとも知られているのは「杜氏(とうじ)」でしょう。

「杜氏」は酒造りの現場における長であり、最高指揮官です。しかし一方で、「杜氏」は"冬場に出稼ぎとして酒造りをする人"の総称として使われることも多く、「今年から杜氏に出ることになりました」という言い方も通用しています。

酒蔵の風景

今でこそ、酒は冬に造るものという考え方が当たり前になっていますが、冬場のみに酒を仕込む「寒造り」が確立されたのは、江戸時代と言われています。

戦後まもなく、伝統的な酒蔵の世界にも労働基準法を適用しようという動きが始まったときに「酒造りの現場にこの法律を当てはめてしまうと、酒を造ることができなくなってしまう」という杜氏組合の強い意見があったように、酒を造る職人たちは独自の労働条件を維持してきました。

一方、四季醸造を行う蔵では、休日を設けながら無理のない就労をする年間雇用の社員制度が確立されています。酒造りのプロには、社員として働く人と、冬場にのみ蔵へやってきて働く人のふたつが存在しているのです。

今回は、酒蔵で一冬を過ごす蔵人の生活について、紹介いたします。

蔵人=フリーランスの酒造り職人

蔵人は、"フリーランスの酒造り職人"と捉えることができるかもしれません。

川面に群れる鴨たち

正社員ではなく、半年家業の出稼ぎが基本。杜氏組合の斡旋で、仕事さえあれば、長年の経験と技術を武器に、日本全国どこの酒蔵へも出向きます。ひとりで行くことはなく、杜氏が信頼できる蔵人を集め、チームをつくって酒蔵に向かいます。この蔵人同士のつながりが、一番の財産。酒蔵の組織は、一般的に以下のような役割で構成されています。

  • 杜氏(とうじ)
    酒造りの総責任者。酒造りのみならず蔵人の体調管理、家族の面倒、折々の挨拶、礼儀などを教える人間性が第一に重視されていました。
  • 頭(かしら)
    醪造りの責任者であり、杜氏の補佐役。酒造り唄では、頭が唄の始めと終わりの音頭を取ります。
  • 大師(だいし)
    麹造りの責任者。酒の良さは麹で決まると言われていたため、大師の待遇は格別でした。
  • 酛廻り(もとまわり)
    酒母造りの責任者。
  • 釜屋(かまや)
    酒米を蒸す係。
  • 道具回し
    道具を洗浄し、整備する係。
  • 上人(じょうびと)
    蒸米を甑から掘り出す役。酒を搾る"槽"を扱うため「船頭」とも呼ばれます。
  • 中人(ちゅうびと)
    水汲みや米洗い、蒸米運び、洗いものなどを担当します。
  • 下人(したびと)
    主な仕事は食事の準備や掃除、風呂焚き、使い走り。新人が担当します。

仕込み期間の秋から春まで、正月も休むことなく24時間、醪の面倒をみる生活を送ります。残業手当や宿直手当はありません。しかし、このままでは蔵人の負担が大きいため、昭和38年に賃金や労働条件の協定がつくられ、月48時間の有給休暇が与えられることになりました。

蔵によっては、休みで欠員が出ると作業に支障をきたすため、休暇を買い取ったり、休日出勤分を給与として付与したりするところもあります。

蔵人にも与えられる、失業保険

有給休暇の制度と同じ時期に適用されたのが「短期雇用特例被保険者制度」です。酒造りのような期間が決まった季節的な業務でも、一定の労働条件と労働日数をクリアすれば、失業保険を受給することができます。長い酒造り生活が終わると、稼いだ給料と失業保険を合わせたそれなりの金額を得られるため、春の到来がより一層待ち遠しく感じられます。

昔ながらの酒蔵では、杜氏を含めた蔵人たちは住み込みで仕事を行います。私の経験でいえば、初めて酒造りの道に入ったのは、職業紹介所を経て、正社員として小さな酒造会社に入社してからです。

その冬から酒造りを教えてもらうことになり、私以外はみな、蔵に寝泊まりしていました。自宅から通っていましたが、それでは本物の酒造りを学ぶことができないと思い、みずからお願いして寝泊まりさせてもらうことにしました。冬の仕込みが終わった後は、酒販店やデパートなどで行われる催し物での販売や瓶詰め作業、商品開発企画などに携わりました。

季節杜氏の生活に魅せられた私は、次の年から名実ともに"蔵人"として、丹波杜氏の一員になりました。

「蔵人」が生まれたのはいつ?

昭和50年ごろに改定された古い広辞苑を開いてみると「くらびと」という項目はありませんでした。実は「蔵人」の当時の正式な読み方は「クロウド/クランド」だったのです。

麹造りの様子

これは「平安時代、天皇に近侍し、伝宣・信奏・儀式など、宮中の雑事を掌する役所『蔵人所』の職員」を意味していて、現在のような「酒造りの専門集団」という意味はありませんでした。

酒蔵の主人を「蔵元」と呼びますが、これに対して、主人は雇い入れた奉公人を「蔵の人」と呼んでいました。「蔵の人」はあくまでも話し言葉なので、これを書き言葉として使うときに「蔵人」と表記されて、今のような使い方が定着したのかもしれません。

江戸時代に寒造りが確立すると、「百日稼ぎ」と呼ばれる、10月半ばから翌年3月中旬までの出稼ぎが誕生します。

仕込みの季節が終わると雇用関係がなくなるため、蔵人はそれぞれの稼業に戻ります。蔵人は、それぞれ本業や家業をもち、臨時的に酒造りに携わるケースがほとんど。これが、酒造りに関わる職人の一般的な呼び名がはっきりしない理由なのではないかと思います。

「職業は大工をしていますが、冬場は酒造りにも出ています」と説明するくらいが精一杯で、灘地方においては「百日モン」などと嘲笑の対象にもなったのだとか。出稼ぎの職人が胸を張って自称することはなかったのでしょう。

酒蔵の生活で大事なこと

酒蔵の休憩スペース

蔵人として生活するには、いくつかクリアしなければならないことがあります。

  • 風邪をひかない
  • すぐに寝付ける
  • 理屈を言わない

ごくごく当たり前のことですが、もっとも重要なのは体調管理。蔵に閉じこもった生活をしていると、外からのウイルスに対する抵抗が弱くなってしまいます。ひとたび風邪が蔓延すれば、たちまち蔵中に広がってしまう恐れがあるのです。だからこそ、徹底した体調管理が求められます。

本格的な酒造りが始まると、微生物のサイクルに人間の生活を合わせなければならないため、朝と夜の区切りのない生活が始まります。そんななかで、隙間の時間を見つけて仮眠をとらなければなりません。少しの時間でどれだけ質の良い睡眠をとれるかという"ショートスリーパー"の能力も蔵人には必要です。

蔵人が一日のなかでもっともゆっくりできるのは、昼食後の数時間。伝統的な蔵人の働き方を維持している剣菱酒造の話をうかがうと、朝の仕事が終わって正午前に昼食をとり、16時ごろまでは休憩時間になるのだそう。その後、すぐに夕食を食べ、夜中の作業と仮眠を断続的に繰り返しながら朝を迎えるのだとか。独特のルーティーンで、仕事そのものよりも生活習慣になじむことのほうが大変だったという話を聞きます。

そして、さらに肝心なのは、蔵人同士で争いをすることなく、無事に勤めることです。大正時代の蔵人の様子を回想した書籍『醸技』(かもしわざ)のなかで、著者の小島喜逸氏が初めて蔵入りする際に「ええか、まじめに勤め上げるんやで。口答えするんやないで」と、見送りに来た父親に嗜められている描写があります。

理不尽なことでも、口をつぐんで文句を言わない。江戸時代から現在にまで通じる、不文律なのかもしれません。

これができて一人前。蔵人に必要な3つの技術

タメ桶を担いで運ぶ蔵人

さらに「これができないと蔵人ではない」といわれる3つのことがあります。

タメ担ぎ

元禄時代の酒造りを描いた『日本山海名物図絵』には、タメ桶を担いで階段を上る蔵人の姿があります。20リットルの容器を肩にヒョイと乗せて、蔵中を歩き回るのです。

現在はホースをつないでポンプで酒を送ったり、ベルトコンベアで米を輸送したりすることが多くなったため、タメ担ぎができる蔵人は少なくなってしまったかもしれません。充分な設備がない時代の仕事で、もっとも頻度の高いものがタメ担ぎでした。注意しなければならないのは、桶に顔が触れてはいけないこと。熱湯を運ぶときに波が立ってこぼれ出ると、火傷を負うなどの危険があったのです。

相当な重量のタメ桶を、バランスをとって運ぶのは思ったより難しく、ただ階段を上るだけでも、かなり鍛えられた男でないと務まらない仕事でした。

酒屋ことば

酒蔵にはいろいろな道具があり、それぞれおもしろい名前がついています。キツネ、ネコ、サル、スズメなど、形状を動物に例えたものから、暖気樽や麹蓋など、用途をそのまま当てたものまでさまざま。蔵入りした新人は、まずこの言葉を覚えるところから始めなければなりません。

酒造りの道具のひとつ「バンチョウ」

タライではなく「半切り」。ゴザではなく「筵(むしろ)」。木づちではなく「バンチョウ」。それぞれ、独自の呼び名が付けられています。

私が蔵人1年生のとき「おやっさん、このゴザはどこに敷きますか?」とたずねると、「お前、酒蔵へ来てそんな呼び方しとったら、人に笑われっじょ」と冷やかされたことがあります。

酒蔵におけるとても重要な言葉のひとつに「甑」があります。米を蒸す道具を指し、「コシキ」と呼びます。酒造りを始めることを「甑始め」、終わることを「甑倒し」と表現するように、象徴的な言葉です。

これを知らなければ蔵人にあらずと言われるのが「畚」という言葉。これは「モッコ」と読み、酒蔵では休日のことを指しています。

働きづめの蔵人にも一日だけ休日がありました。造りに使う最後の米が蒸される日、つまり甑倒しの翌日です。

いよいよ蔵を出て帰郷するというとき、蔵元からはお土産の酒や酒粕を持たされます。丹波杜氏は、灘から丹波までの道中、大きな荷物を竹や藁で編んだ袋に入れて持ち帰りました。「畚」とは本来、この袋のことを指します。甑倒し後の休日に、全員で藁を編んで作っていたのだとか。それがそのまま、休日を意味する酒屋ことばになりました。

「畚」は蔵人にとって最大の楽しみであり、この日が来るのを心待ちにしながら、苦しい仕事に耐えるのです。どれだけ物覚えの悪い蔵人でも「畚」という言葉だけは覚えています。

酒造り唄

酒造り唄のほとんどは、櫂入れを行うときの作業唄として唄われます。

酒造り唄は現場の指揮官である頭によって、どの程度の長さで唄うのかが決められました。杜氏は蔵人の酒造り唄を聞くことで、作業の進行具合を確認するのです。内線や携帯電話などがない時代の通信手段でもあったんですね。

唄の進行はひとりで唄う前唄と、全員で合唱する後唄に分かれ、蔵人は前唄を取り合うようにのど自慢に励みました。歌声は、名刺代わりとして、自身の仕事ぶりを誇示する手段のひとつ。酒造り唄は、作業の精神的苦痛を緩和するだけでなく、出世に必要な宣伝材料でもありました。

酒造り唄ができないと櫂入れの作業に参加できず、仕事が雑用ばかりになってしまうため、蔵人は必至で覚えていたことでしょう。

上手に休むことも蔵人の手腕

酒造りに使う筵

造りの期間中は無休での仕事が続く蔵人生活。そんななか、自由な時間もありました。

就労時間の縛りがないぶん、空いた時間に休息をとることがあります。夜の仕事を担当するときは、昼間に時間が空くこともあり、昼食をとってから夕方まで、特に何をすることもなく過ごすこともありました。仕込みがおおよそ片付く時期になると仕事がなくなるので、コタツの世話が日課になることも。繁盛期に働き過ぎたぶんを取り戻す時間が、まったくないわけではありませんでした。

そして、蔵元に見つからないように休息をとるのも、蔵人が身につけなければならない技術のひとつ。

ある日、ふだんよりも30分ほど余分に休憩していたところ、本社から電話が入りました。状況を正直に報告した瞬間、おやっさんに怒鳴られてしまったことがあります。「嘘も方便でごまかすのも、酒屋モンの技量やろ」とまさかの大目玉。学校では教えてくれない、現実社会の渡り方を学んだ瞬間でした。

甑倒しで、ホッと一息

明治時代の食事の風景

冬の酒造りが終わりに近づくと、のんびりとした日々がやって来ます。

すべての米を蒸し終える「甑倒し」を迎えるころになると、あとは仕込んだ醪の経過を見つつ、片付けの作業が続くだけ。寝る間もなく昼夜働いた期間を終え、気楽でのんびりとした生活が始まるのです。

かつての農家は、酒造りに取り組む冬の日々よりも、むしろ夏場の農作業が忙しく、造りが終わったあとも休む暇なく働いていました。1年のなかでもっともゆっくりできるのは、造りが終わる時期だったのかもしれませんね。

(文/湊洋志)

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