新潟県といえば、兵庫県の灘や京都府の伏見に並ぶ全国屈指の酒どころ。そんなイメージが定着するきっかけのひとつには、ある日本酒の大ヒットがありました。

新潟県新潟市に蔵を構える石本酒造の「越乃寒梅」は、1975年ごろに起こった第1次地酒ブームの波に乗って当時の日本酒ファンを魅了し、"幻の酒"と呼ばれるほどの人気を誇った銘柄。後に新潟県の日本酒の代名詞として広まる「淡麗辛口」を象徴する味わいで、現在でも全国に多くのファンを抱えています。

SAKETIMESでは、全4回にわたって「越乃寒梅」の魅力を改めて紐解く連載を始めます。

第1回のテーマは「越乃寒梅は、なぜ売れたのか」

当時から「越乃寒梅」を取り扱っていた酒販店と日本酒の歴史に詳しい専門家の話を通して、「越乃寒梅」が人々を惹きつけた理由に迫ります。

地元の人々に喜んでもらえる酒を造る

石本酒造は、新潟市の亀田郷(現在の江南区)にあります。信濃川、阿賀野川、そしてその2つを結ぶ小阿賀野川に囲まれた水資源が豊かな立地で、さらに冬季の厳しい寒さが酒造りにふさわしい環境だったことから、初代の石本龍蔵さんが酒造業に進出。『農作業に励む亀田の人々に喜んでもらえる酒を造る』という信念のもと、1907年に創業しました。

代表銘柄の「越乃寒梅」は、地元の亀田郷が江戸時代から続く梅の産地であることに由来しています。冬の厳しい寒さに耐え、凛とした美しさを放つ梅の花のようなお酒でありたいと、「越乃寒梅」という名前が付けられました。

日本が高度経済成長期に入ると、日本酒の消費量が増え、最新の技術と設備を使った大量生産の酒造りが中心になっていきますが、石本酒造は創業当初から続く、基本に従った丁寧な酒造りにこだわりました。大きく増産することはなかったため、1970年代の地酒ブームで注目されるとすぐに品薄状態となり、"幻の酒"と呼ばれるようになったのです。

越乃寒梅が売れた理由①:当時は珍しい、淡麗辛口の酒質

「越乃寒梅」が人気となった理由のひとつは、「すっきりとした淡麗辛口の酒質」です。

東京都の西荻窪で3代にわたって酒販店を経営する「三ツ矢酒店」の鴨志田勝義(かもしだ・かつよし)さんとその息子の知史(ともふみ)さんに、当時の「越乃寒梅」を取り巻く状況について語っていただきました。

西荻窪にある「三ツ矢酒店」の鴨志田勝義さん(左)と知史さん(右)

西荻窪にある「三ツ矢酒店」の鴨志田勝義さん(左)と知史さん(右)

御年81歳になる勝義さんは、「越乃寒梅」を初めて飲んだ時の衝撃を今も覚えていると言います。

「あのころ(1970年代)の酒は、とにかく甘かった。なんせ、うまい酒のことを"甘露"といったくらいだから。『越乃寒梅』はそういう酒とはまったく違う、本当にするすると飲めちゃう酒だったね。そして、酔い覚めも良かった」

当時の石本酒造は、2代目の石本省吾さんのもと、特に米を磨くことに注力していました。まわりからは「芸術品を作ってどうするんだ」「甘い酒が流行っているんだから、糖を入れろ」と厳しい声があったそうですが、省吾さんは「10人のうち、たった1人が気に入ってくれればいい」と、自身が心から美味しいと思える日本酒を追求します。

また、多くのメーカーが合理化された酒造りを進めるなか、「設備が不十分な酒蔵が生き残っていくためには、とにかく手間をかけた美味しいものを造るしかない」という考えもあったようです。

「三ツ矢酒店」では1980年ごろから石本酒造との取引をスタートしました。仕入れた商品はすべて予約販売にしましたが、予約が殺到し、半年待ちになってしまうことも。当時、石本酒造の商品を取り扱っている都内の酒販店はごくわずかだったため、遠方から買いに来るお客さんも少なくありませんでした。「石本酒造に足を向けて寝られないくらいでしたよ」と、勝義さんは笑います。

「三ツ矢酒店」の外観

西荻窪にある「三ツ矢酒店」の外観

それから約40年が経った今も、石本酒造は変わらず三ツ矢酒店の取引先のひとつ。

幼いころから勝義さんが働いている様子を見ていた知史さんによると、「問屋を経由する商品よりも強い思い入れをもって売っていたように感じます」とのこと。

問屋を通さない直接取引は、当時はまだ珍しかったようですが、酒蔵と酒販店の直接取引によっていわゆる特約店のような信頼関係を築いたことも、「越乃寒梅」が人気になった要因のひとつかもしれません。

越乃寒梅が売れた理由②:メディアの情報発信による、地酒への注目

「越乃寒梅」が全国区の知名度を獲得した背景には、淡麗辛口の酒質に加えて、もうひとつの要因がありました。それは、新聞や雑誌などのメディアの力です。

そのなかでも、1968年1月7日付の読売新聞に掲載された、当時の社会部の記者だった小檜山俊(こひやま・しゅん)さんによる『地酒のふるさと』という記事には大きな反響がありました。小檜山さんは記事の中で「越乃寒梅」を『幻の名酒』として紹介。『味にもかおりにも、素朴な手づくりの風味がみなぎっている』と評価しました。

石本酒造の酒造りの様子

また商品のほとんどが近隣で売れてしまうため、『在庫はいつもからっぽ』と書いたことも希少性に拍車をかけ、飲み手の興味をそそったのでしょう。このほか雑誌『酒』の編集長だった佐々木久子(ささき・ひさこ)さんや作家の開高健(かいこう・けん)さんが絶賛したこともあり、知名度が一気に上昇します。

株式会社SAKEマーケティングハウスの代表であり、日本酒にまつわる執筆や講演なども数多く手がける松崎晴雄(まつざき・はるお)さんも、「越乃寒梅」に魅了されたひとり。出会いは大学時代にさかのぼります。

「1981年に友人と新潟旅行をしたときに、石本酒造の近くの酒屋さんを訪ねたんです。当時から日本酒は好きで、『越乃寒梅』は絶対に飲みたいと思っていました。すでに人気で品切れだったのですが、店主が『せっかく東京から来てくれたから』と300mL瓶を分けてくれて、それを仲間と飲みました」

すでに入手困難となっていた「越乃寒梅」は、大学生だった松崎さんにとって高嶺の花でした。恋い焦がれた「越乃寒梅」の味は「すっきりとした中にも芯のある、硬派な印象」だったと言います。

松崎さん自身、「越乃寒梅」の名前はメディアで知ったと言いますが、そもそも地方の酒蔵が注目されるようになった背景には、当時の社会の変化もあったのではと分析します。

「高度経済成長期に日本の交通網が全国的に発達したことから、1970年代に入ると、国鉄(日本国有鉄道)が個人旅行客の増加を狙った『ディスカバー・ジャパン』というキャンペーンを始めます。人々の興味・関心が地方に向き始めるなかで、その土地でしか飲めない日本酒も注目されるようになり、『越乃寒梅』がその筆頭となったのではないでしょうか」

それまでにも「地酒」という言葉はあったようですが、文字どおりの「それぞれの地域のお酒」という意味にとどまっていたそうで、現在のような特別なイメージはありませんでした。しかし、「越乃寒梅」などの各地の銘酒が知られるようになり、その価値観は一変。その土地でしか飲めない、職人が良質な原料を用いて丁寧に造った日本酒は、ファンにとって新しい魅力に映りました。

「『越乃寒梅』が出てこなかったら、いま私たちが日本酒に対してもっている『地酒』の価値観は生まれなかったかもしれない」と松崎さんは話します。それは、地方の酒蔵が生き残る道を示し、日本酒産業に大きな影響を与えた出来事でした。

越乃寒梅のこれからに対する期待

酒販店と専門家のそれぞれの立場で、「越乃寒梅」のこれからに期待することは何でしょうか。まずは、松崎さんにお伺いしました。

「『越乃寒梅』の魅力は、透明感のあるモノクロームな世界の先に感じられる奥深い味わい。そんな『越乃寒梅』ならではの味わいをこれからも極めていってほしいと思います。高級な日本酒ほど冷やして飲むのが当たり前ですが、燗にして美味しいハイエンドな日本酒など、新しいスタイルを提案する商品にも期待しています」

その一方、三ツ矢酒店の知史さんはこう話します。

「以前、うちに来てくれた20代の女性に新商品の『灑(さい)』をおすすめしたところ、とても美味しいと喜んでくれました。しかし、その方は『越乃寒梅』のことは知らなかったのです。飲み手が世代交代したことで、銘柄に対する先入観をもたずに味わいを楽しめる方が増えていることを実感しました。

私たち酒販店としては、落ち着いて飲める酒質の商品も大事ですが、ひと口飲んだ瞬間に心を奪うような感動を呼ぶ商品も用意しなければなりません。石本酒造は技術力が高い酒蔵なので、そういう新しい酒質にもチャレンジしてほしいですね」

「越乃寒梅は、なぜ売れたのか」という問いに、酒販店や専門家へのインタビューを通して、「当時は珍しい、淡麗辛口の酒質」「メディアの情報発信による、地酒への注目」という答えを得ることができました。

「越乃寒梅」は、松崎さんが「地酒の価値観を変えた」と話すほどのエポックメイキングな銘柄ですが、それはマーケティングやブランディングによる成果ではなく、地元の方々のために、ただ自分が納得できる日本酒を追求した結果でした。

時代のトレンドに流されることなく、実直な酒造りに取り組み続けること。「越乃寒梅」の真っ直ぐな姿勢はこれからもブレることはありません。

(取材・文:渡部あきこ/編集:SAKETIMES)

sponsored by 石本酒造株式会社

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