池波正太郎著「食卓の情景」内、「鵠沼の夏」に出てくるうどん
池波正太郎著「食卓の情景」内、「鵠沼の夏」に出てくるうどん

酒に寄り添う今夜の逸品 その21「恩人のうどん」- 池波正太郎『食卓の情景』より -

今宵もまた、文学作品から酒肴のお膳立て。池波正太郎氏のエッセー集『食卓の情景』に収録されている一編「鵠沼の夏(くげぬまのなつ)」(新潮文庫)の中から、亡き恩人に教わったといううどんの食べ方を真似て、酒を味わってみました。

亡き恩人とは小説家であった故・子母沢寛(しもざわかん)氏のこと。この一編は同氏と池波氏の付き合いや恩恵の念を綴った回想録です。恩人への思いをていねいに記す池波氏の作家としての品格や、人としての律儀さに引き込まれるとともに、ほんのりと切ない池波氏の人間像がいっそう力強く書かれています。

「食べものに関連したことなら何でもいい」と編集者に促されて始まった連載のようですが、「鵠沼の夏」で語られるうどんのエピソードは挿入の間合が絶妙。何度読んでも胸がきゅっとなります。そして、うどんにも興味が湧いてきました。

恩人のうどんを作ってみる

実はこのうどん、子母沢氏が自身の著書『味覚極楽』(中公文庫)で書いていたと池波氏が作中で紹介しています

鍋に湯をたぎらせ、これに豚肉を二百匁ほど入れ、ぐたぐたと煮たてた中へ、うどんをさっと入れ、玉がくずれてさらさらになったところをつまみあげて下地へつけて食べる。うどんの芯まで熱くなっては駄目。うどんの玉がくずれたかくずれないかという、この加減が、ちょっとめんどうだが...

「鵠沼の夏」では、これに特定の呼称を付けていません。しかし、スタイルは釜揚げうどんに似ています。具(豚肉)とともに煮ているという点では「うどんすき」ともいえるかもしれません。ともあれ、多分こうだろうというものを作ってみました。

池波正太郎著「食卓の情景」内、「鵠沼の夏」に出てくるうどんと、日本酒「雁木」

池波氏の食べ方はこうです。

これを子母沢氏にきいてやって見たが、まことにうまい。いまでもよくやる。~中略~ さっと煮えたうどんに豚の脂がとろりとからまったのを引き上げ、これを子母澤氏に教えられた醤油一、みりん一、昆布だし四の割合にととのえたものへつけて食べる。めんどうなときには生醤油でもよい。

『食卓の情景』(新潮文庫)収録「鵠沼の夏」より

ちなみに『味覚極楽』によると、脂はうどんにからんでもいいが芯までしみてはいけないとも言っています。また、下地は昆布がどろどろになるくらい充分に熱くしてあるようですね。

池波正太郎著「食卓の情景」内、「鵠沼の夏」に出てくるうどん

さあ、池波氏にあやかって「まことにうまい」うどんを私も賞味。子母沢氏が言うように豚肉をぐたぐたと煮ただけ。うどんをさっと入れつまみ上げただけ。それを、これまた子母沢氏の言う"つゆ"につけて。

こうして食べるのは初めてですが、本当に美味い。多くの食通が「素材の味を楽しむにはシンプルな料理が良い」と言うのもうなずけます。つゆのおかげでうどんの風味が引き立つばかりでなく、つゆの味にさえ改めて「醤油とは旨いものだな」と感心してしまいました。うどんとはなんと魅力的な料理でしょうか。

雁木の実直な旨味がうどんをより美味しく

今回の肴はうどん。淡白という点では、当たりが軽めの酒であれば無難かもしれません。しかし、つゆの濃い味や豚の脂を考慮すると話は別でしょう。ここは、華やかな香りや酸味よりも旨味ファーストで。素材感のある実力本位の酒が良さそう。そんなイメージが湧いてきます。

雁木 ノ壱 純米無濾過生原酒(八百新酒造/山口)

雁木 ノ壱 純米無濾過生原酒(八百新酒造/山口県)

冷蔵庫から出し、肉やつゆなどを調理しながら鍋の湯が沸く間、室温で放置しておきました。それから片口に注いだので温度はかなり常温に近づいたでしょう。

香りは穏やかながら凛としたものが確かに感じられ、鼻腔を心地よく刺激してくれます。口に含めば、まず柔らかく広がる旨味。舌に、喉に、じんわりと馴染んでいきます。酸の広がりや甘みも見つけることができました。神経を集中させるほどに、入れ代わり立ち代わりで何らかの風味が伝わってきます。

そうそう、これこそが複雑味。複雑でいながらもまとまりがあって一本筋が通っている。味のノリが良い酒というのはこういうことを言うのでしょうか。この酒の魅力はこの味わいにこそあるのかもしれません。

酒でリフレッシュされた口の中で、うどんはその素材感をいっそう快活にし、食欲をぐいぐいと刺激します。そして、うどんを食べながら進む酒。複雑味をより一体化させつつ、こちらもぐいぐいとアタックしてきます。濃いつゆや豚の脂とも渡り合い互角の勝負。相性は抜群です。

肴が素朴であるほど酒の実力がわかる。そんな文句がふと思い浮かびました。さて、自分もあの恩人を思い浮かべて、もう一献。

(文/KOTA)

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