安土桃山時代、1577年に来日したポルトガル人のジョアン・ロドリゲスは、イエズス会における高位の修道士として布教活動に深く関わる一方、その高い日本語能力を買われて通訳としても活躍しました。豊臣秀吉や徳川家康など、時の最高権力者たちとの交流もあったようです。
そんな彼は、日本滞在中に観察した日本人の日常生活の様子を『日本教会史』に書き残しました。
『日本教会史』は全3巻の構成。35章からなる第1巻では、日本という国の成り立ちやその風俗習慣などを。16章からなる第2巻では、日本人の学芸や科学的な知識を。28章からなる第3巻には、日本におけるキリスト教の布教活動の実態を詳しくまとめています。今回は第1巻に記載がある「日本人の酒の飲み方」についてご紹介します。
接待や宴会の席における日本人独特のもてなし方が、ヨーロッパのそれとはあまりにも異なること。その驚きが詳細に書き綴られています。
日本人にとっての宴席
酒を酌み交わすふたつの場
当時の日本人が酒を酌み交わすシーンには「儀式ばらない簡素なもの」と「儀式に則って行うもの」という2つがありました。
「儀式ばらない簡素なもの」の場合、招くのはお互いにそれほど気を遣わない友人や知人。客を歓迎していることを示すために酒を勧めることも多いですが、宴席まで設けることはありません。簡単なおつまみ程度で済ませていました。また、盃やそれを載せる台も特別なものではなく、ありきたりなもの使います。特に親しい友人や、頻繁にやって来る人などに対しては、酒を出さずにお茶だけで済ませることもあったようですね。
「儀式に則って行うもの」は、正月などの祝祭日に行われる儀礼や宴会、遊興、盛大な公式行事などを指しています。そこで使われる酒器には、礼法と尊敬の気持ちを伝えつつ客のメンツが立つよう、見るからに荘重さが伝わる華麗な装飾が施されていました。加えて、酒を少しでも多く飲んでもらうために、数々の美味しい食べ物や、酒が飲みたくなるような汁ものも用意されます。
酒がもつ、もうひとつの役割
同じ盃で飲み交わすことはお互いの心をひとつに結び付ける印であり、差し出された酒を飲まないのは敵意を抱いている、もしくは交流を拒絶するという意思表示とされていました。もともと敵同士の場合でも、一方が口を付けた盃でお互いに酒を酌み交わすことで和解を確認したようです。
陰謀など仲間同士が重大なことを決行する前は、お互いの指を刺して採った血を酒に混ぜて飲み交わします。祭事や慶事を祝う喜びの印として、遠方へ旅立つ人への別れのあいさつとして、非業の死(切腹)などによる親族との別れに際して、さらには問題の円満な解決や結束を確認するためなど、人間関係のあらゆる場面で酒が酌み交わされました。
外国人を驚かせた、酒の飲み方
完全に酔っ払うまで飲み続ける
ジョアン・ロドリゲスを特に驚かせたのは、どんな宴会・遊興・娯楽でも必ず酒が出されることです。あらゆる手段を使って酒を強要し、参加者が完全に酔っぱらって前後不覚になるまで飲み続ける。日本人の間では、祝い事などの酒を飲む席で酔っ払うことは、決して無礼なこととは考えられていませんでした。
宴もたけなわになってきた適当なタイミングで「充分以上に酒をいただきすっかり酔い、もうこれ以上は一滴も飲めません」と、ぐでんぐでんに酔っ払ってみせることが、その席を設けてくれた主人への礼儀とされていたようです。
宴会の途中とか、酒の冷めない内にとかに、飲むのを度々ことわろうとして、「すっかり酔いました。これ以上は頂けません。(酔ったふりをして)家へ帰れそうにありません」という。
第2巻 第26章
さらに、宴会の翌日に礼状を送る際にも、お礼の言葉とともに「前後不覚になるまで飲んだので、お礼の手紙を書くのが遅くなってしまった」と、わざと遅く届けさせることもあったようです。
飲みっぷりをほめる
客人が大いに酒を飲んで泥酔に陥った時、その飲みっぷりの強く勇ましい元気さを話題にしてほめ、すでに多量に飲んだ者が、他の者から挑戦されても、みなと張り合って怯みも負けもしないで飲む。
第2巻 第26章
大酒を飲むように勧めるために、悪魔が日本人に教えた数々の工夫や方法を見ると、はなはだ驚くべきものがある。生来ほとんど飲まない者にさえ飲むことを強要することがあって、その者は拒むことができず、その言い訳を聞き入れてもらえないので、身の健康を害してまで飲まねばならない場合もある。
第2巻 第26章
日本人のなかには体質的に酒が一滴も飲めないか、もしくは酒を飲めても強くない人が約半分ほどいると言われていますが、それをまったく知らなかった当時の人たちにとって、酒を飲まない人は仲間意識が薄く、軟弱であるとされたようです。
そのため、無理に酒を飲ませることに対しての罪悪感は一切なく、飲まされる方も飲み過ぎで死にそうな思いをしながらも、メンツと礼儀にこだわって必死に酒を飲んだのでした。
自分のペースで酒を飲む習慣をもっているヨーロッパ人は、飲みたくない者にまで無理に酒を飲ませる行為について、まったく理解できなかったのでしょう。
宴席で客をもてなす
農民たちを招待する領主や地主
正月や結婚式などのめでたい行事で、領主や地主がその地域の家主全員を自宅に招待して酒を飲ませることは、貧しくてめったに酒が飲めない農民などに対して威厳を見せることに加え、領民から慕われることでその地域の安定が保つという重要な役割をもっていました。
そんな時、農民は自分で作った野菜や山で採れたもの、漁師は魚や貝など、職人は自分の作品を持ち寄って宴会を行います。
まず、上座の貴人や領主が一言「さらば」と言って一同に礼をした後、盃に2度酒を受け、少し口をつけてから、小姓にその盃を座敷の中央まで運ばせます。参加者たちは順にその盃を押し頂き、全員が2回飲んだところで儀式が終了。そのあとは、各人に用意された盃で飲み放題の宴会が始まります。彼らは酒を充分に堪能したあと、使用した盃はそのまま持ち帰ります。
領民を自宅へ招き充分な酒を飲ませることが、主従の関係を確認しそれぞれの絆を強める重要な行事であったことがわかりますね。
特に大切な客に対するもてなし
客人にさらに厚遇する心持を表したければ、添い物(soimono)という、魚か肉の入った一種の汁を出すのが習慣である。これで再び酒と肴(sakana)のもてなしが始められる。なぜなら、この添い物(soimono)が出るたびに客人は必ず酒を飲み、肴(sakana)を食べるからである。
第2巻 第26章
客に対して、いかに大量の酒を飲ませて酔わせるかが重要な問題だったので、いろいろな肴も用意されました。当時は肴が代わるたびに、必ず酒を飲まなければならないことになっていたからです。
これは主人が飲み終わって酒が下げられるまで続けられました。酒が下げられると、客は上座の者から順に帰っていきます。主人は、客が「早く帰らなければ」と思わないように、最後に席を立つという配慮をしていたようです。
お互いに身分が高い人同士の交流
身分の高い人が他の身分の高い人を正式に訪問してゆくたびに、毎回酒を出すだけでは充分でなくて、その他に、客人に酒を飲むように勧めるのに適した酒に添える食べ物を必ず一緒に出さなければならない。それは客人に対してなされる礼法と歓待のしるしでもある。
第2巻 第26章
この当時は、現代でいう料亭のようなものはまだ存在していなかったため、あらゆる宴会が誰かの家で行われていました。この場合でも、より多くの酒を飲ませるために、肴を何種類も用意することになります。その肴は、主人が箸でつまんで渡すことができるように、細かく刻んであるものやひと口で食べられるものが選ばれました。主人はまず酒を飲むように勧め、それから客に肴を渡し、食べ終わるとさらに一杯勧めるという流れだったようです。
主人は少しでも多くの酒を飲ませるため、それをしつこく繰り返し、客が泥酔して立ち上がれなくなるまで続けました。客が多い時は、客同士で同様のやり取りを行ったようですね。
安土桃山時代に飲まれていた酒
熱い酒と冷たい酒
日本の古来正真の流儀によれば、第九の月(旧暦九月)から、翌年の第三の月(旧暦三月)三日までは必ず熱い酒を用いる。ただし、正月の訪問に出る最初の酒は例外である。
第3巻 第28章
と書かれているように、正月の訪問客には平安時代以来のしきたりに則って、まず冷たい酒を酌み交わし、そのあとに温めた酒を飲んでいたようです。
日本酒に含まれる乳酸やコハク酸は、温めることでより美味しく感じられます。当時の酒は、現在よりもかなり大量の酸が含まれていたようなので、1年を通して温かい酒を飲んでいたことはある意味で理にかなっていると言えるでしょう。
銘柄へのこだわり
彼らの酒宴と招待には、常に最良で有名な酒を手に入れようとし、遠方の土地の有名なものを前もって取り寄せておく。
第2巻 第28章
この代表的な例は、豊臣秀吉が最晩年に行った「醍醐の花見」。そこで飲まれたのは加賀の菊酒(石川県)、麻地酒(大分県)、天野酒(奈良県)、平野酒(兵庫県)、僧坊酒(奈良県)、尾道酒(広島県)、博多の煉(ね)り酒(福岡県)など、いずれも各地の銘酒として知られていた酒でした。
ルイス・フロイスの『日欧文化比較』を紹介した以前の記事でも、宴会でベロベロに酔っ払う日本人の姿に驚いた欧米人の姿をお伝えいたしました。どの時代から見ても、どの国の人間から見ても、日本人の飲酒文化が奇妙に感じられたのでしょう。さて、現代の日本人の飲酒文化は、海外の目にどう映るのでしょうか。
(文/梁井宏)