江戸時代に台頭した「伊丹諸白」は江戸積酒造業として発展し、江戸の市場では「丹醸」ともてはやされ、銘酒の座をゆるぎないものとしました。その一方で、室町時代後期から江戸時代に至る中世の後期になると酒造りの技術は複雑に進歩し、「いなか酒」と称する、商品として造られる銘酒が各地に現れます。
日本各地で造られた様々な中世の「いなか酒」
柳酒
14世紀ころから商品としての酒造りが本格化し始め、15世紀に調査した京の洛中洛外の「酒屋名簿」には342軒もの造り酒屋が登録されていました。
中でも美酒として質量とも飛びぬけていた柳酒屋の「柳酒」は、当時の公卿や僧侶の日記には“柳”あるいは“柳一荷”などと頻繁に登場し、贈答品として珍重されていたそうです。この「柳酒」は酒に銘柄名が付いた最初のものとされ、六ツ星紋を商標に他の酒よりも高く販売さてていました。
天野酒
室町時代の末期になると酒造りの技術は一段と進化します。その酒造りと流通の中心になったのは各地にある寺院で「僧房酒(そうぼうしゅ)」と言われていました。
当時の最先端の技術で造られた「僧房酒」は、朝廷や有力者などの限られた人しか飲めないものでした。その中でも大阪・河内長野の天野山金剛寺で造られたものは「天野酒」として、その名声を誇ります。
菩提泉(ぼだいせん)
平安時代中期から室町時代末期にかけ、奈良の菩提泉正暦寺で造られた酒「菩提泉」は、同寺の境内を流れる菩提仙川の水で仕込み、乳酸発酵を利用した菩提酛(ぼだいもと)で造られました。
最も上質な高級酒として当時人気のあった「天野酒」を圧倒したとされます。ここで開発された菩提酛の革新的な技法は、後の生酛造りに受け継がれました、
江川酒
伊豆国韮山周辺(現在の伊豆半島北部)で、同地区の領主・江川氏のもとで造られた酒です。
江川氏は鎌倉期に大和国から伊豆へ移って韮山で酒造りを始めます。一時は廃れますが室町期に復活、北条早雲から「江川酒」の名を賜ったとされ、早雲が上杉謙信や織田信長らに贈った銘酒として知られています。
加賀の菊酒
室町時代後期の随筆『三愛記(さんあいのき)』にも書かれている「加賀の菊酒」は、北國有数の港であった河北潟河口(現在の石川県中部)の宮越で造られ、京の都を始め諸国に送られてその名声を高めました。安芸の田植え歌にも詠い込まれています。
また、『言継卿記』には、白山本宮である白山神社の鎮まる鶴来郷で手取川の水で造られたとされてます。他にも、金沢市内を流れる浅野川の水で造ったという説や同じく犀川説もありますが、いずれにしても、その酒を仕込む水の水源が菊の花が咲き乱れる渓谷とするところに共通点があります。
練貫酒(ねりぬきさけ)
筑前博多(現在の福岡県)で造られた「練貫酒」は、もち米で仕込み醪を臼ですり潰して造り、白い練り絹のような照りを持ったペースト状のしっとりと滑らかな酒でした。都の貴族や戦国大名の間で、その色の白さととろりとした甘みがもてはやされました。
麻地酒(あさじざけ)
豊後日出藩(現在の大分県)で造られた酒で、蒸米・麹・水で仕込んだ後、密封して土の中に埋め、翌年の土用まで熟成させると固形物は沈殿して、すっきり甘い澄み酒でした。
「麻地酒」の名前の由来は、お寺の小坊が壺に詰めた甘酒を盗み出し、麻畑に埋めて長い間隠しておいたところ、すっきりと澄んだ美味い酒に変わっていたという民話から。豊後、肥後、紀伊などにも同様の、それぞれ特徴のある酒が造られていました。
このほか、兵庫西宮の「旨酒」、近江坂本の「大津酒」、摂津国平野の「平野酒」、備前児島の「児島酒」、備後尾道の「尾道酒」をはじめ、「三原酒」「道後酒」「小倉酒」「伏見酒」など、全国各地にそれぞれ銘酒とされた酒が造られています。
花見酒のルーツは「醍醐の花見」にあり
豊臣秀吉が、その最晩年の慶長3年(1598年)に京都の醍醐寺で行った「醍醐の花見」は、派手好みの秀吉らしく、近親者はもちろん、諸大名や配下の女房女中など1,300人にも及ぶ盛大なものでした。花見を盛り上げるために全国から集められたのは、先に紹介した「天野酒」「菩提泉」「江川酒」「加賀の菊酒」「練貫酒」「麻地酒」など数々のいなか酒です。
この盛大な「醍醐の花見」は、それまでの、桜の花だけを愛でるという日本人の花見観を覆し、花よりも団子、花を肴に酒を飲んで盛り上がるという、現代にまで続く花見のルーツとなったとも言われています。
(文/梁井宏)