日本酒の主原料は米。どんな米を使うかによって、日本酒のできあがりが決まると言っても過言ではありません。日本酒造りに適した「酒造好適米」と呼ばれる米のなかでは「山田錦」「五百万石」「雄町」などがよく知られていますが、現在、100種類以上もの酒造好適米が存在し、品種改良などによって、その数は年々増えています。

同じ品種であっても、米の出来はその年ごとに違うため、米選びは造り手にとって悩ましい問題です。そんななか、埼玉県小川町の武蔵鶴酒造は、"神米"と呼ばれる「イセヒカリ」を使って日本酒を造りました。

伊勢神宮の神田で発見された"神米"

イセヒカリの田んぼ

イセヒカリが発見されたのは1989年。伊勢神宮(三重県伊勢市)の神田で栽培されていたコシヒカリが、2度の台風ですべてなぎ倒されてしまったときに、倒れずに残った2株がルーツです。やがて、黄金色の穂を実らせるまでに育った2株は、コシヒカリとは明らかに違う品種でした。この突然変異種は、神田の管理責任者・森晋さんによって、翌年から試験栽培されるようになります。

1995年、「山口イセヒカリ会」の発起人で元・山口県農業試験場長の岩瀬平さんに、神様に捧げる米として適しているのかどうか、鑑定評価を依頼しました。岩瀬さんは、稲の鑑識における県内の第一人者だった内田敏夫さんに、米の美味しさの指標となる食味値を測ってもらいます。すると、山口県の推奨品種の基準値を上回っていることが判明したのです。

そして、県内の篤農家(とくのうか)4人によって試験栽培が始められ、成熟期や栽培特性が明らかになっていきます。コシヒカリよりも美味しく、茎が太くて倒れにくく病気にも強いため、無農薬・無化学肥料でも栽培しやすいのが特徴でした。

1996年、皇大神宮御鎮座から2000年を記念する米として、当時の少宮司を務めていた酒井逸雄さんによって、「イセヒカリ」という名前が付けられます。それまでは門外不出とされていましたが、1997年からは希望する神社に種籾が頒賜(はんし)されるようになりました。伊勢神宮の事務を司る神宮司庁の「神様からいただいた米なので、慎んで作っていただきたい」という思いから、品種登録されることなく今日に至っています。

「山口イセヒカリ会」会長が語る、イセヒカリの美味しさ

イセヒカリのお米

1998年に結成された「山口イセヒカリ会」の現会長である宮成惠臣(よしひろ)さんによると「イセヒカリは、その性質上、突然変異種が起こりやすい品種」とのこと。そのため、山口県で試験栽培されたなかから、最初に神田から送られてきた原種と同じ基準を満たすものだけを残していったそうです。

2002年には、100年分の原種の種籾を冷凍保存し、年ごとに伊勢神宮へ種籾を奉納する体制ができました。また、神事だけでなく、地域おこしなどに利用したいときでも、一定の条件を設けて農家に種籾を分け与えるようになりました。ただ、栽培しやすいとはいえ、とても手間のかかる米なので、大量に栽培しようとすると品質が落ちてしまうのだとか。

「味は本当に良い。温かいうちだけでなく冷えてもおいしいのが特徴で、一時期はお寿司屋さんが注目したり、グルメマンガに取り上げられたりしました。梅雨の時期を過ぎると米は味が落ちてしまう傾向にありますが、イセヒカリは食味値が年中変わりません」と、宮成さんは太鼓判を押します。

イセヒカリを使った日本酒「大愚」

蔵の中と日本酒「大愚」

山口県内の酒蔵の協力を得て、イセヒカリを使った日本酒を試験的に造ったところ、出来が良く、それから「イセヒカリ」は酒造りにも使われるようになりました。

埼玉県の武蔵鶴酒造で杜氏を務める福島さんは、それまで無農薬有機栽培の米作りに力を入れていたこともあって、伊勢神宮の神田で発見されたというストーリーに大きな魅力を感じたようです。今では、みずから栽培にも取り組んでいます。

気になるのはイセヒカリで醸したお酒の味。「お酒の美味しさは個人の好みにも左右されるので、表現するのは難しく、伝わりにくいものです。米の品種が変わってもお酒の味は変わらないという人もいますが、単一品種を使って醸すと、やはりお酒に特色が出ます」と、福島さんは話してくれました。イセヒカリのお酒は、さらっとしたタイプではなく、旨味のあるお酒に仕上がる傾向にあるとのこと。

埼玉県小川町周辺の有機農家によって、農薬や化学肥料を一切使わずに栽培したイセヒカリで造られた日本酒が「大愚」です。銘柄の名前には、"原材料から愚直に真面目に造る"という意思が込められています。

埼玉県小川町にある武蔵鶴酒造で醸される大愚のラインナップ

「大愚」は、造り方と搾り方がそれぞれ異なる「純米酒 山廃仕込 超辛口」「純米大吟醸 槽汲み」「純米大吟醸 袋吊り」「純米大吟醸」「純米大吟醸 活性にごり原酒」の5種類があります。

  • 「純米酒 山廃仕込 超辛口」
    精米歩合80%ですが、きれいな印象です。山廃らしさを残しつつも、ゴツゴツとした感じはありません。1年後や2年後の変化も楽しみな味わいで、ぬる燗やオンザロックでも美味しく飲むことができます。
  • 「純米大吟醸 槽汲み」
    槽から直接瓶詰めした、搾りたての無濾過生原酒。上品な微発砲がクセになります。
  • 「純米大吟醸 袋吊り」
    圧力をかけずに、醪の入った酒袋から滴り落ちるお酒を瓶詰めしたもの。雑味のない味わいです。
  • 「純米大吟醸」
    すっきりとした口当たりのあと、上品な旨味とバランスのとれた酸が広がります。
  • 「純米大吟醸 活性にごり原酒」
    発酵中の醪をある程度残した、酵母がまだ生きているお酒です。

「"無農薬・無化学肥料で米を作る"ことに意味がある。そうやって育てられた米は明らかに違う」と語る福島さん。美味しさだけでなく、その背景にあるストーリーを大切にしなければならないのは、米も日本酒も同じです。"神米"で造ったお酒に魅力を感じるのは、日本酒ファンのみに留まらないでしょう。

(文/乃木章)

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