スペイン・カタルーニャの州都バルセロナから車で2時間半。ピレネー山脈の絶景を縫うようにたどると、小さな村の広場が現れます。

「遠いところまでようこそ!」と、溢れんばかりの笑顔で迎えてくださったのはアントニ・カンピンズさん。スペイン国内で初めてSAKE(清酒)の醸造を始めた蔵元杜氏です。

Cadi-Moixero 国立公園内にある人口60人ほどの村Tuixentの様子

フランスにほど近い、カディムシェロ国立公園内にある人口60人ほどの村・トゥイシェントは、冬になると冷たいおろし風が吹き、0.5~1.5mほどの積雪があるそう。冬の日中気温は0℃前後ですが、夜間にはマイナス10度ほどにまで下がるという寒暖差の激しい地域です。しかし、この環境は日本酒の寒造りにとっては理想的といえるでしょう。カンピンズさんは酒造りの期間中のみ、バルセロナからトゥイシェントに移って酒造りに励むのだとか。

トゥイシェント村の様子

15分もあれば一周できそうなこの村の中心から歩いて数分。切り立った崖の上にある見晴らしの良い小さな広場に、斜面に寄り添うようにして建っているのがカンピンズさんの「絹の雫」醸造所です。もともとは、17世紀に建てられた村の小さな礼拝堂だったのだとか。

17世紀に建てられた礼拝堂が、現在は「絹の雫」の醸造所として利用されている

入り口には、小さな杉玉が下げられていました。バルセロナの花屋さんに、特注で作ってもらっているそうです。

すべて手作業で醸される「絹の雫」

「絹の雫」シリーズ

カンピンズさんが醸すのは、純米にごり酒「GRAND CRU」、無濾過生原酒「NUVOL」、特別純米酒「KRISTALL」です。仕込みには日本から空輸される50%精米の山田錦と、同精米歩合の山田錦を使った乾燥麹を使用しています。

2015年から始まった「絹の雫」の醸造。初年度の生産量は1,500Lタンク1本分でした。以降、2016年は750mlボトルで約3,000本、2017年は5,000本(予定)と、順調に生産量を増やしています。カンピンズさんとともに酒造りを行う季節労働の蔵人は4名です。

創業よりわずか3年ながら、すでに50ほどの取引先を抱え、「ムガリッツ」「エル・セジェール・デ・カン・ロカ』などの有名レストランやワインショップなどで取り扱われています。カンピンズさんは「ヨーロッパ全体でもっと取引先を拡大していきたいですね」と話していました。

「絹の雫」に使用されるお米の穂

「将来的には、地元産の米でSAKEを造りたい」と展望を語るカンピンズさん。しかしスペイン原産の米は心白がなく粒が小さいため、高精米のお酒には不向きなのだとか。そこで昨年、バルセロナ近郊を通って地中海にそそぐエブロ川のデルタ地帯で、試験的に五百万石を有機栽培の契約農家に育ててもらったそうです。その結果、2,500㎡の圃場から450kgの収穫を得ることができました。ただし、残念ながら今は業務用の精米機がないそうで、中古の業務用精米機を輸入できないかと道を探している最中です。

醸造用器具を説明するカンピンズさん

酒造りは旧礼拝堂の1階と2階を使って行われています。「造りはすべて手作業。手探りでやっているんですよ」と笑いながら話してくれました。「絹の雫」はすべて槽搾り。手間をかけて上槽されます。

牛乳用のものを転用した貯蔵タンク

蛇口がついたステンレス容器は、牛乳用のものを転用した貯蔵タンク。奥に見えるのが醪タンクで、カンピンズさん自身の背丈に合わせて特注したそうです。

スペイン語でSAKEの本を書こう──カンピンズさんが下した決断

「絹の雫」を飲むことができる村のバル

懇意にしている村のバルを案内していただきました。ピレネー山脈の山間で、まさか菰樽(こもだる)が飾られたお店に出会えるとは。このバルで、SAKEを使ったカクテルと地元のハモン・セラーノ(スペインの生ハム)をいただきながら、カンピンズさんがなぜSAKEを造り始めたのか、その情熱溢れる軌跡を聞かせていただきました。

カンピンズさんはバルセロナ生まれ。14歳の時に日本人の女の子と文通を始めたのがきっかけで、日本に強い興味を抱いたのだそう。80年代に日本の箸から着想を得た料理用ピンセットなどを扱う業務用調理器具の会社で成功を収めます。しかしその一方、親日家として、スペインで日本文化がまったく知られていないことに心を痛めていたそうです。

「10年以上前に、マドリードの日本料理店で日本酒を頼んだら蒸留酒が出てきて『これがSAKEだ』と言われてしまいました。繊細な食文化を持つ日本人の飲む日本酒がこんな強く荒々しい風味であるわけがないと抗議しましたが、当時のスペインでは日本食レストランのスタッフですら日本酒について無知だったんです」

これは絶対におかしいと思ったカンピンズさん。スペイン語で日本酒について調べてみましたが、情報がまったく見つからなかったのだそう。「それなら、自分で日本酒について調べて本を書いてみよう」と決心し、日本酒伝道師として知られるジョン・ゴントナーさんや日本の酒蔵に連絡し、知識を深めていきました。そのときに快く反応してくれた酒蔵とは、いまでも密にコミュニケーションをとっているのだとか。

そして2009年、スペイン語でSAKEの魅力を紹介する初めての本『SAKE - La Seda Liquida (絹の雫)』を出版しました。

カンピンズさんが執筆した「SAKE - La Seda Liquida」

著書名を『絹の雫』にした理由については「ドイツで初めてにごり酒に出会ったとき、白い滓(おり)がワイングラスの中で繊細な絹織物のように光の筋を描いて舞っているのを見て、日本酒は"La Seda Liquida (絹の液体)"なんだと思ったんです」と教えてくれました。

ちょうどそのころ、「日本の某大手酒造メーカーがスペインで日本酒を販売する意向があるので、スペイン側の公式コーディネーターになってほしい」と大使館からコンタクトを受けます。販売促進のヒントを求めて、酒造メーカーの担当者らと国際的に有名なワインやカヴァ(スパークリングワインの一種)の大手メーカーなどを巡りました。しかしカンピンズさんは、当時の担当者が酒造メーカーに法外な広告料を求めたことに激怒します。

「『日本の酒をなめている』と思いました。高いお金を払って広告を打ち出したところで、日本酒になじみがないスペインで一般消費者にアピールできるはずがありません」

そこで、カンピンズさんはひとつの決断をしました。

「『そんな意味のない広告料を一銭も払ってはいけません。その代わりに、僕が日本酒を造りましょう』と、酒造メーカーに言ったんです。スペイン人がSAKEを造りミシュランの星付きレストランで認められたら、メディアに取り上げられます。そうしたら、一般の人も日本酒を飲んでみようと思うでしょうってね」

そして「酒造りの費用はすべて自分でなんとかするので、造り方の指導をしてくれませんか?」と酒造メーカーに申し出ました。こうして、自分の著書名である『La Seda Liquida (絹の雫)』という名前を銘柄として採用し、みずからの事業を売却して酒造りに専念することにしたのです。

醸造用水として用いられるトゥイシェントの雪解け水

トゥイシェントの地を選んだのは、もともとセカンドハウスとしてここに家を購入していたことに加え、寒暖差が激しいという気候条件、そして何よりも良質の仕込み水が湧き出ていたことが理由でした。ヨーロッパの水は基本的に硬いものが多いですが、トゥイシェントの雪解け水は酒質に悪影響を与える鉄分やマンガンの含有量が少ない代わりに、発酵を助けるカルシウムやマグネシウムなどが理想的に含まれた中硬水。灘五郷の宮水と同じくらいの硬度なのだとか。

カンピンズさんと「絹の雫」

カンピンズさんに、今後の日本酒造りへの思いをうかがいました。

「スペインにも食べることや飲むことが大好きで、好奇心に溢れている人々が一定層います。たとえば、メッシやロナウドなどの有名人が『カン・ロカ』や『ムガリッツ』でスペイン産のSAKEを飲んでいるということになれば、そうした人たちが飛びついてSAKEの人気も上がるでしょう。和食にSAKEを合わせるという狭い発想にとどまらず、SAKEはスペインの日常にも取り入れる価値があることを一般の人たちに知ってもらうことで、ヨーロッパでのSAKEの浸透が始まるのです。そのために、僕はここでSAKEを造るんです」

「ソブレメサ」に溶け込む日本酒

地元レストランのメニュー

取材を終えて「さあ、ご飯にしようか」と連れていっていただいたのは地元のレストラン。セットメニューに少し上乗せすると、地元産チーズと「絹の雫」のペアリングプレートが食後についてきます。

地元産チーズと日本酒のペアリング

半径20キロ圏内でとれたチーズのセレクトと「絹の雫 にごり GRAND CRU」のセット

さっそく「絹の雫」を口に含みます。思ったよりもドライで、香りと旨味は軽め。にごりならではの穀物の要素をもったミルキーさと、バナナやアプリコットを思わせる少しの甘みが口に広がります。また、ほのかにフレッシュチーズのような乳製品らしい風味もありました。

これが、地元のチーズにとてもよく合います。チーズのみで食べるとかなり強烈な個性があるため、日本酒には合わないのではと思ってしまいそうですが、「絹の雫」といっしょにいただくと、口の中で楽しい会話が繰り広げられるような感触を覚えました。スペインでは、食後にお酒やちょっとしたスナックを片手に友人や家族との会話を楽しむことを「ソブレメサ(Sobremesa)」というのだとか。ソブレメサをさらに盛り上げてくれるようなペアリング体験でした。

日本への深い愛情、そして蔵人としての凛とした矜持、親しみやすく温かい人柄を併せもったカンピンズさん。その努力が実り、スペインの街角で、現地の方々がSAKEを飲みながらソブレメサを楽しんでいる光景を目にするのは、さほど遠くない未来なのかもしれません。

(文/山口吾往子)

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