世界で影響力を持つ女性100人を選ぶ「BBC 100 Women 2020」に選出された今田酒造本店・今田美穂さん。
同プロジェクトでは、芸術、医療、スポーツや貧困・差別問題など、さまざまな分野で注目された人々が取り上げられ、過去には歌手のアリシア・キーズさんやプロテニスプレイヤーの伊達公子さんなどがノミネートされています。
ひたむきに酒造りと向き合い、日本だけでなく、世界からも注目を集める今田さん。その背景には、「広島」という土地に連綿と続く日本酒の文化と、その地酒を造る技術者としての矜持がありました。
「BBC 100 Women 2020」に選ばれて
瀬戸内海に面する広島県安芸津町(あきつちょう)。1868年に創業した今田酒造本店は、酒造りが地元文化として根付くこの海辺の町で、繊細ながらも食事に寄り添う吟醸酒を造り続けています。
その蔵元杜氏である今田美穂さんは、2020年にイギリスの公共放送BBCがその年に大きな影響を与えた女性100人を選出する「BBC 100 Women」に選ばれました。
「2020年のテーマ『How Women Led Change In 2020(2020年、女性はいかに変化を引き起こしたのか)』に沿って選ばれたようですが、日本酒業界の中でも、こんな片田舎の酒蔵をよく調べてくれたなと驚きました。前年に、映画『カンパイ!日本酒に恋した女たち』に出演させていただいたことくらいしか、選出の理由が思い当たりません」
「BBC 100 Women」選出の影響は強く、今田さんはにわかに時の人となります。イギリスの大手新聞「ザ・ガーディアン」に記事が掲載されたほか、各国のメディアからインタビュー依頼が舞い込みました。
「私を取材してくれたコロンビアのジャーナリストは、ジェンダー問題について熱心に勉強している女性でした。そんな方とお話しする機会はなかなかないので、私自身も刺激を受けました。酒蔵の売上にはどのくらい影響しているのかはわかりませんが、コロナ禍ながら、ヨーロッパからの問い合わせが増え、商談がスムーズにいくなどの後押しになりました」
「造り仲間」という性別を超えたつながり
5人兄弟の長女として生まれた今田さんは、実家の酒蔵を継ぐ意思はなく、大学進学とともに上京。1980年代なかばからの10年間は、東京で百貨店や能楽などの文化事業にまつわる仕事に携わっていました。
転機が訪れたのは、1990年代前半のこと。唯一の男兄弟であった弟さんが医者の道に進むことになり、酒蔵の後継ぎ問題が発生しました。
自身が実家へ戻ることを「偶然に偶然が重なって、成りゆきで」と話す今田さん。事務方として経営を支えるという選択肢もありましたが、蔵人として酒造りに携わることを選びます。
「それまでは文化事業で、アーティストの展覧会の準備や舞台の制作など、裏方の仕事をしていました。造り手として表舞台に立つチャンスは、一生のうちに今しかないだろうと考えたんです」
級別制度が廃止された当時は、日本酒業界が大きく変動していたころ。規制緩和によりディスカウントストアが台頭し、地方の酒蔵や酒販店が生き残りを賭けていた激動の時代でした。
「東京でおいしい日本酒をたくさん飲むなかで、これからは味で選んでもらえるブランドにならなければ会社として成り立っていかないと感じていました。でも、経験のない私が酒質を変えようと父や杜氏を説得していたら、どれだけ時間がかかるかわかりません。それなら、自分で造れるようになったほうが良いと考えたんです」
広島県では女性が杜氏を務める前例もあったことから、酒造りの道へ進むのにそこまでの抵抗はなかったといいます。
「広島杜氏は人材を大切にするんです。冬の間の出稼ぎの時期だけ働きに来るのではなく、地域に根ざした人たちが蔵人になるので、技術職としての側面が強いんですよね。『造り仲間』という言葉があるんですが、これは技術を自分のものだけにするのではなく、人に教えたり教わったりを繰り返すことでレベルは上がるから、情報共有を大切にしようという考え方からきています。やや封建的な部分もありますが、理屈が通っていて、やる気と実力がある人は評価してもらえる環境でした」
そうは言っても、女性として大変だったこともあるのではないかという質問には、「よく言われるんですけど、一人前の技術者になるっていうことのほうが数倍大変なんですよね」と言い切ります。
「酒造りの難しさに比べたら、女性として受けたことはなんでもないし、気にしたことはありません。周りで働いている人たちもその大変さを知っているから、入りやすかったというのもあります。女性だからといって下駄を履かせてもらえるような甘い世界ではないんです」
地元の人に愛される広島らしいお酒を
そんな今田さんが目指してきたのは、地元の広島県安芸津町らしさのある酒造りです。
33歳で蔵人として働き始めてから、酒質の向上に取り組んできた今田さん。その中で、一度は絶滅したといわれた広島県の酒造好適米「八反草(はったんそう)」の復活に取り組みます。
「今から150年ほど前の酒米と飯米の区別がなかった時代、八反草は、在来品種のなかでは粒が大きくて精米しやすいことから、酒造りの奨励品種とされていた米です。しかし、背が高くて倒れやすく、収穫量も少ないので、品種改良が進むうちに次第に育てられなくなりました。
在来品種とあって硬く、品種改良された山田錦などのようなやり方ではなかなか仕込めないのですが、そのぶん、米の特徴が味わいに出やすいんです。ワインのソムリエから言われることが多いんですが、八反草で造ったお酒はミネラル感や軽い酸味があって、牡蠣などの瀬戸内海沿岸の食材によく合います」
広島杜氏の三浦仙三郎氏が明治時代に開発した軟水醸造法を用い、地元の軟水と八反草を使って醸される今田酒造本店の日本酒。一方、今田さんは「原料や手法はもちろんですが、風土も大切だと思っています」と話します。
「お酒の味には、その土地の人たちがどういう味をおいしいと思うかが表れますし、それは一代で築かれるものではありません。広島杜氏にとっての最大の褒め言葉は、『小味がある』お酒。優しい旨味があって、きめが細かくて、きれいな香りがして、毎日飲んでも飽きないような味わいです。
安芸津のある瀬戸内海沿岸は、雪は降らず、天気が良く、年間を通して新鮮な食材が手に入ります。数週間ごとに変化する食材を、濃い味付けをせず食べていると、素材の味わいに敏感になります。そういう人たちに『おいしい』と思ってもらえるようなお酒を造ろうとすると、食材の味わいが引き立つ、バランスの良いお酒になるんです」
地元の人に愛される広島らしいお酒、安芸津らしいお酒を造ることこそが、普遍的なアプローチとなる。さまざまなタイプの商品を手がけている今田酒造本店ですが、すべての根底にそうした地酒への哲学が流れています。
新たな技術で、これからの味わいを生み出す
今田酒造本店では、広島らしさを追求する一環として、地元の精米機メーカー・サタケの最新技術を使った精米に取り組んでいます。
「兵庫県・灘で酒造りが盛んになった理由として、米や水が挙げられることが多いですが、重要なのは六甲山から流れてくる水を利用した水車による精米が可能だったということです。広島県は大きな川がないため水力を使った精米ができません。そこで、サタケが日本で初めて日本酒のための動力精米機を開発したという経緯があります」
いまや世界的な食品用機器メーカーとなったサタケが初心に帰り、地元の日本酒産業に貢献するために開発したのが、「扁平精米・原形精米」の技術です。
「かつて日本酒業界で吟醸酒ブームが起こったころ、米を限界まで削る精米歩合競争が加熱し、これ以上行く先がないような状況になってしまいました。そんな風潮に危機感を持っていた私たちに、精米歩合ではない扉を開けてくれたのがサタケ。広島の酒造技術の第一人者である彼らが、米をただ削り続けるのではなく、削り方を変えればもっといろんな可能性が見えてくるだろうと、喝を入れてくれたような感じがしました」
扁平精米の技術では、精米歩合60%まで磨くだけで、球形精米の40%精米と同じレベルのタンパク質除去が可能になります。扁平精米と原形精米は、成分的にはほとんど変わらないのに、味が全然違うといった効果もあるのだとか。
「麹米に使うのか、掛米に使うのか、酵母との相性はどうかなど、試さなければいけないことがまだいっぱいあります」と、今田さんは意気込みます。
吟醸酒の次に目指すべき次のステージとして今田さんがたどり着いたのが、同蔵のヴィンテージ日本酒で仕込んだ新シリーズ「富久長 LEGACY 貴醸酒」です。
「フランスの人から、『僕たちにとって、お酒に必要なのは複雑性。日本人が、透明感を長所として話すのが不思議だ』と言われたことがありました。日本酒はどちらかというと白ワインを競争相手に設定しがちですが、米で造るお酒にはまだまだ可能性があり、赤ワインにも対抗できるようなお酒を造っていくことができると思っています。
『透明感の中にどう複雑さを重ねていくか』ということに取り組んだのが、『富久長 LEGACY 貴醸酒』です。合わせられる料理が増えれば、日本酒が活躍できるフィールドが広がって、プレイヤーも増えていく。そのために、精米方法を変えたり、ヴィンテージの考え方を取り入れたりと、新しい技術はどんどん取り入れた方がよいと思っています。技術というのは、進歩しないと意味がないですから」
ジェンダーの枠組みに囚われず、ひとりの技術者としての研鑽を続ける今田さん。伝統的な慣習や手法に縛られやすい背景を持つ日本酒業界で、そうした先進的な意思を持ち続けられる姿こそが、世界中の女性たちに希望の光を与えるのでしょう。
(取材・文:Saki Kimura/編集:SAKETIMES)