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あなたの、ひいおじいちゃんは、何をしていた人ですか。どんな暮らしぶりで、どんな仕事をしていましたか。事細かに知っている人も、おぼろげに聞き及んだ人もいるでしょう。今の家族と自分につながる歴史があるように、企業にも歴史があります。

創業は寛永14年(1637年)。京都・伏見にその身を置き、その歴史を更新し続ける酒蔵。それこそが月桂冠です。月桂冠の歴史を振り返ることは、実は、日本酒の歴史をたどることにもつながります。

月桂冠_3-2_大倉恒吉(撮影年不明)/月桂冠より画像提供

今や一大企業となった月桂冠の歴代当主のなかで、特に重要な人物がいます。「中興の祖」と名高い、11代当主・大倉恒吉(おおくら・つねきち)です。兄の死によって13歳という若さで当主に就き、明治から昭和の激動期に数々の挑戦をし、一代で事業規模を100倍に拡大。その思いと功績は、日本酒の発展にも大きく寄与したといわれます。

恒吉氏の姿を追うことは、今日の日本酒業界を知る"よすが"でもあります。伝統はただ守るだけのものではない。革新を続けることで伝統を"つないでいく"。その軌跡をたどっていきましょう。

防腐剤なしの瓶詰め酒を、東京のサラリーマンに売る

まず、ひとつ目の革新を例に挙げます。

日本酒は長らく、江戸時代の中後期に台頭した兵庫県・灘のものが一級とされ、現在の東京である江戸にも樽廻船(江戸時代に上方から江戸へ酒を輸送するために用いられた船)で酒が運び込まれていました。江戸前の嗜好には荒々しい風味の灘酒が愛され、良質な軟水によるたおやかな味わいをもつ京都の酒は、なかなか受け入れてもらえませんでした。

一方、明治の半ばから大正初期にかけての約30年間に、日本の人口は1,500万人も増えました。東京の人口増加は著しく、その主役は官公庁や企業などに勤めるサラリーマン。彼らは教養や衛生観念をもち、洋風で合理的な志向を生活に取り入れます。呼応するように新商品やサービスが現れ、まさに「大衆消費社会」の幕開けが迫っていました。

月桂冠_3-11_びん詰酒の商品化_コップ付き小びん明治期から大正期の駅売り酒コップ付小びん_IMG_3939 /月桂冠より画像提供

恒吉氏は消費者の趣向に合わせ、整備が進む鉄道網を利用して、日本酒を瓶詰めにして出荷。さらに、当時は一般的だった防腐剤を使わない、初の商品を開発します。この新商品を、輸入食料品や酒類を商う店として現存する「明治屋」と組んで東京で売り出すと、サラリーマンを中心に大ヒット。酒の小売店では徳利を持ち込んで売ってもらう「通い徳利」がまだ中心だった頃、瓶詰め酒の手軽さと衛生感が好評を呼んだのでした。

私たちが当たり前に購入する瓶詰め酒を広く普及させた、その先達は、月桂冠が切ったともいえるのです。以後、瓶詰めの日本酒が主流になり、昭和44年には防腐剤も全廃されました。消費者が望むものを先読みして提供する「マーケットイン」の発想が、恒吉氏にはあったのかもしれません。

しかし、一介の造り酒屋である月桂冠が、なぜ、防腐剤を使用しない酒を発明できたのか。現在まで続く月桂冠の歴史に触れることで、その理由が見えてきます。

日本で初めて、自社に研究所を置いた酒蔵

13歳という若さで当主になった恒吉氏は、厳しい母の「現場で学べ」という教えから、学校を退学。醸造、販売、原料米買い付け、組合行事の参加に至るまで、酒蔵運営に必要な知識を実地で体得していきます。この経験こそが、後に恒吉氏が現場の課題を解決するに至るベースになったと考えられています。

酒造りと並行して、21歳からは地元の有志に教えを受けながら「洋式簿記」を取り入れ、製造原価や利益の把握、経費の節約、予算管理など、見過ごされがちだったお金の問題を刷新。その取り組みは、相続当時500石であった製造規模を5万石へ急拡大する成長を支えることにもなりました。

大倉酒造研究所(北蔵) /月桂冠より画像提供

蔵の敷地内に立つ、大倉酒造研究所(左)

恒吉氏の偉業のなかには、先進的かつ革新的と呼べる基点があります。明治42年11月のこと、34歳になった恒吉氏は白壁土蔵の酒蔵が立つ敷地の中央に、ペパーミントグリーンのシンボリックな洋館を建てました。これが、日本酒メーカーとして初の研究所「大倉酒造研究所」です。

従来から酒蔵の一室で行われる程度の研究は他社でもみられたでしょうが、「研究所」として本格的な研究を行った例はありませんでした。東京帝国大学卒の濱崎秀(はまざき・ひで)を初代技師として採用したのも、当時では珍しい登用だったといいます。遡ること5年前、国の醸造試験所が設立されたばかりの時期でした。

濱崎秀氏 /月桂冠より画像提供

濱崎秀 初代技師

この研究所は、設立当初から目覚ましい成果を上げます。酒を腐らせる乳酸菌の増殖を防ぐ技術や、加熱殺菌の条件を科学的に確立。この成果こそが、前述した「防腐剤なしの瓶詰め酒」の商品化につながったのです。樽詰め全盛の時代に研究所を創設し、商品化にまで至るという先見性がうかがえます。

この影響を受けて、1909年10月には伏見酒造組合にも研究所が発足。同様に学識のある技師が採用されました。ひとつの地域に複数の技師が集うのは全国でも異例のこと。地元大学の教員を招いての勉強会を毎月開催したことと相まって、伏見の酒造技術や酒造りへのモラルが向上し、日本を代表する酒処へと名を馳せていきます。

昭和初期の月桂冠の酒樽 /月桂冠より画像提供

昭和初期の月桂冠の酒樽

科学技術で進化した月桂冠の酒は、たしかな評価を得ます。1911年に開催された第一回全国新酒鑑評会では第一位を受賞、1929年(昭和4年)には、第一位から第三位を独占。ほか主要なコンテストでの受賞を重ね、「伏見に月桂冠あり」と、その名を全国に轟かせていったのでした。

飽くなき挑戦を続け、地域社会にも貢献

もっとも、挑戦と同様に失敗もあります。灘の酒を超えるべく精米に差を出そうと、水車精米の活用、足踏み精米機、はては外国から機械式の新型精米機を輸入するも、どれも成果が上がりませんでした......。順風満帆とはいえませんが、そこには飽くなき挑戦がありました。

これまでのエピソードから、恒吉氏には野心的で豪傑なイメージを抱くかもしれません。しかし、本人が残した手記や彼を知る人の話からみえてくるのは、至って"平凡"な姿です。

たとえば、幹部社員には飲料業者との付き合いを奨励する一方で、自身は一次会には顔を出すも、二次会は辞して翌日の酒造りに備えていたという話もあります。付き合いの悪さに苦い顔をする同業者もいたといいますが、日々堅実に酒を造る姿勢を崩したくなかったのでしょう。

晩年の恒吉氏が寄付を行った、伏見町立病院

現場主義で数々の革新をもたらしながら、経営目線を常にもち続け、次世代を見据えた恒吉氏は今でも伏見に名が残ります。13歳で当主になったため、地元の人たちや同業者に育ててもらったという恩を感じたのか、晩年の恒吉氏は伏見の地域社会へ貢献。幼稚園の整備や教材寄付の支援、中学校や高等学校の学生への奨学金の支給など、教育分野へ積極的に還元していきました。他にも、地域の病院建設や消防署設置のために用地を寄付するなど、伏見の発展を考える社会実業家の一面を帯びていったといいます。

まさに月桂冠の「中興の祖」となった恒吉氏は、1950年(昭和25年)に77歳でその生涯を閉じました。その後、5年を経ずして日本社会は高度成長期に突入していきます。

"偉大なる平凡"としての酒

11代の亡き後も、その革新は止まることを知りません。

大手一号蔵。日本で初めての四季醸造システムを備えている

月桂冠は1961年(昭和36年)に、全国にさきがけて「四季醸造」のシステムを確立し、専用の醸造蔵を稼働させます。日本初となるこの技術開発は、江戸時代から続いてきた「寒造り」の体制を一変させ、業界内外に驚きをもたらします。このシステムによって気候の変化に左右されない酒造りができるため、その後開発した新規技術と共に、1989年(平成元年)にアメリカへ進出する大きな武器ともなりました。

米国月桂冠外観

カリフォルニア州フォルサムにある米国月桂冠

新商品の開発についても、1984年(昭和59年)には、常温で流通できる「生酒」を日本酒業界で初めて販売しています。また2008年(平成20年)に発売された、日本酒として初の「糖質ゼロ」商品は記憶に新しいところでしょう。

恒吉氏が残した革新への意欲、そして地域社会への貢献という「伝統」は、12代当主以降にも引き継がれています。1997年に現在の14代当主が明文化した基本理念にも、その影響がみてとれるようです。

月桂冠の社内では工場や支店も含め、11代目、12代目の写真を飾っているといいます。それは、「社員であれば恒吉の名を知らぬ者はいない」と言われるほど、月桂冠の社員にとって、現在の礎となったシンボルであるのでしょう。そして、日本酒を日々楽しむ私たちにとっても、その存在は控えめながら強い光を放つ転換点だったといえます。

11代目大倉恒吉氏(右)と、12代目大倉治一氏(左)。現在、大倉治彦氏が14代目を務めている

ここで書いた恒吉氏のストーリーは、ほんの一部に過ぎません。月桂冠が記した「大倉恒吉物語」では、詳細な一代記を知ることができます。日本酒を愛する者ならば、その歴史に触れた瞬間に、目の前の一本をさらに愛することができるようになるでしょう。

晩年の手記から言葉を借りれば『人の為す事を出来ぬということはない、石に噛り付いても必ず成す』という強い思いを胸に、月桂冠と伏見の発展に貢献した大倉恒吉氏。その姿をある人は、"偉大なる平凡"と評しました。

月桂冠の酒を言い表すのであれば、この言葉こそが似合うのかもしれません。「偉大なる平凡な酒」。革新は次世代の"平凡"を生み、そのぶんだけ日本酒のすべてが底上げされていく。革新と伝統の先導者として、月桂冠は今日も酒造りに向かっています。

(取材・文/長谷川賢人)

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