江戸っ子たちは身近にある酒をランク付けすることが好きだったようで『大江戸番付づくし(名酒づくし)』には、享保・宝暦年間(1716~1764年)のころに人気があった酒屋の番付表が残されています。
最上位は「大和屋又商店」の九年酒
横綱に相当する行司中央の上段には「九年酒大和屋又」、下段には「味醂大和屋太」と大きく書かれ、後は相撲の番付け表と同様、東の大関は坂上「剣菱」(伊丹)、西の大関は山本「老松」(伊丹)、東の関脇・山本「男山」(伊丹)、西の関脇・小西「*菊」(西宮)、東の小結・坂上、西の小結・満願寺と続き、以下東西の前頭筆頭から前頭63枚目まで、総計134蔵の銘柄と蔵名が記されています。(「*」は判読不能)
九年酒を主力商品とする「大和屋又商店」が、その当時随一の酒造家であったことが、この番付表からわかります。しかし、その全量が九年酒であったのか、九年酒を代表銘柄として、普通の酒も造っていたのかはわかりません、九年酒は上等の新酒の3倍くらいの値で売られていたようですから、いずれにしても貴重な酒であったことは間違いありません。
この番付表で注目すべき点は、灘酒の銘柄が出てくるのは東西とも前頭15枚目以下で、上位は全て伊丹、池田、西宮の蔵で占められていることです。
大阪から江戸へ馬の背に樽を載せ、陸路で酒を運んでいた「馬十駄 ゆりもて行くや 夏木立」の時代が終わり、「船中で 揉んで和らぐ 伊丹酒」と詠われるように、酒を船で運ぶようになってから海運に有利な立地の灘がだんだんと優位になります。そして、江戸時代後期にもなると灘の酒が江戸を席捲するようになります。
したがって、この番付表の順位は、灘が伊丹、池田、西宮の酒を凌駕して、灘酒が下り酒の代名詞になる以前のものといえます。
九年酒の値段は、当時の清酒の2倍以上
文政年間(江戸時代後期)に作られた『買物獨案内』(当時のちらしの一種)の中に、酒売り場の案内として、酒の銘柄とそれぞれの一升当たりの価格が書かれています。
(※江戸時代の貨幣の価値は、金一両=銀六十匁=銭四千文に相当)
大国酒:代三百三十二文
布袋酒:代三百文
明乃鶴:代二百六十文
を大書して、後は小さく、数件の清酒の銘柄の他に、焼酎、梅酒、保命酒、味醂、泡盛などの価格が並びます、各種の酒に交じり、
九年酒:代十匁、
七年酒:代五匁
などが載せられています。その他は八匁から百八十文まで、実に幅広い値が付けられています。九年酒の代十匁は、当時の清酒の2倍以上の価格ですから、特別長く熟成させた九年酒には、それだけの値打ちが認められていたことがわかります。
皇室行事と九年酒
皇室では飛鳥時代から、宮廷内の行事に欠かせない酒として「九年酒」を独自に造ってきました。しかし、明治維新の洋風化の流れを受け洋酒擁護論が展開され、日本酒有害論が持ち上がり、宮廷内の酒造免許が廃止されたために、九年酒も造られなくなりました。
1993年6月、皇太子・雅子様のご婚礼の儀式では本来の九年酒ではなく、黒豆を酒と味醂で煮詰めたもので九年酒独特の色合いや甘みを再現したそうです。
(文/梁井宏)