「Atsuo(厚夫)という名前を覚えていなくても、この町で“Sake Guy(サケ・ガイ)”って言えば、すぐに彼のことだってみんなわかるよ!」
“Sake Guy”こと櫻井厚夫さんは、アメリカ・アリゾナ州ホルブルックにあるマイクロブルワリー「Arizona Sake(アリゾナ・サケ)」で、SAKEを醸しています。
かつて存在していた“マザーロード”と呼ばれるアメリカ大陸横断道路「ルート66」沿いにあるホルブルックは、住民5,000人ほどの小さな砂漠の町。アリゾナ州の州都フェニックスから北東へ車で3時間ほど走ったところにあります。
化石の森国立公園が近くにあることから海外からの観光客も多く、ナバホ・ネイション(ネイティブアメリカン・ナバホ族の居留地)にも隣接しています。
ガレージから始まった手探りのSAKE造り
櫻井さんと日本酒との出会いは、大学時代に遡ります。
東北大学農学部在学中に日本酒の美味しさと楽しさを知り、「どうやったらこのお酒を造れるのだろう」と興味を持ったのがきっかけで、卒業後は秋田県の酒造メーカーに就職します。
独立心の強い櫻井さんは会社員として杜氏の経験を積みながら、「いつかは自分の酒造りをしたい。独立するなら海外で挑戦したい」と、いつしか考えるようになりました。
アメリカから外国語指導助手として日本に来ていた、後に妻となるヘザーさんと出会ったことも、海外進出への後押しにもなりました。ヘザーさんの友人たちとの交流を通して「海外でのSAKE造りに向けて具体的な道筋がみえてきました」と、櫻井さんは当時を振り返ります。
ヘザーさんと結婚後、新潟でも酒造りを経験したのちに10年間の会社員生活を辞め、2014年に家族で渡米します。その行き先が、ヘザーさんの生まれ故郷である、アリゾナ州ホルブルックでした。
とはいえ、ホルブルックは、サンフランシスコやシアトルといった、SAKEがポピュラーな都市でもなく、日本食のレストランもないような小さな町。西海岸のほかの都市ではライセンスの取得が難しく、この町での酒造りは最後の選択だったといいます。
紆余曲折を経て、自宅のガレージを醸造所として免許を取得して酒造りを始めたのが2017年のこと。翌年、日本で行われた「SAKE COMPETITION 2018」の海外出品酒部門で金賞受賞という快挙を成し遂げます。2019年には、新しく手に入れた約4,000平米の土地に念願の醸造所を完成させ、オンラインでのSAKE販売も開始しました。
現在はアリゾナ州だけでなく、ロサンゼルスやサンフランシスコ、サンディエゴなど、カリフォルニア州の主要都市のレストランや酒販店に「Arizona Sake」を卸すまで成長しています。
手に入った米と水で、ただSAKEを造るだけ
「日本の酒造りの現場では杜氏さんや蔵人さんに、秋田や新潟で暮らしていたときには地元のみなさんに家族ぐるみでかわいがってもらいました。そのあたたかさが、今でも常に心に残っているんです。
アメリカに来てからは、ホルブルックをはじめ、アリゾナのみなさんに応援してもらっています。だから、お世話になった人たちに恩返しをしたいです。日々の晩酌をはじめ、お祝い事や季節の行事、またお土産として、飲む人、買う人、贈る人、もらう人、全員がいい思い出を残せるような酒を造りたい。もちろん私にとっての顧客であるお店側の人には売って楽しい商品を提供したいです」
櫻井さんが造る「Arizona Sake」は3種類。純米吟醸の生酒「Nama」、スパークリングにごり酒「Desert Snow(砂漠の雪)」、そして2020年6月デビューの「Navajo Tea Sake(ナバホティー酒)」で、いずれも通年で醸造しています。
酒造りは全て手作業です。原料となる米はカリフォルニア産のカルローズ米という食用米で、精米歩合は50~60%。
仕込み水は水道水です。ホルブルックの水道水は、ココニノ帯水層と呼ばれるアリゾナ州北東部の巨大な地下水盆から汲み上げられるもの。鉄分やマグネシウムなどのミネラルが豊富です。麹菌は普通の種麹を使い、酵母は自社酵母を使用しています。
SAKE造りのこだわりをたずねると、「今はありません」という意外な回答でした。
「ホルブルックでのSAKE造りは、何もないところから始まりました。土地を購入して、コンクリートで基礎を打って、蔵を立てるところから始めたんです。醸造設備もワイン造りに使われる仕込みタンクを使ったり、酒槽を手作りしたりして、ようやくスタートを切ったばかりです。
でも、まだやるべきことはたくさんあって、それをひとつずつこなしている途中です。だから、今はこだわりはないんです。手に入った米と水で一生懸命、SAKEを造る。ただ、それだけですね」
ホルブルックでSAKEを造り始めて3年目にリリースしたのが、「Navajo Tea SAKE(ナバホティー酒)」です。
「ナバホティー」とは、ネイティブアメリカンのナバホ族の人たちが、アリゾナの周辺地域に自生する植物を乾燥させてつくるお茶のこと。「このSAKEにナバホティーを入れてみたらどうか」という義父の一言が、商品開発のきっかけでした。
「お義父さんが喜ぶなら」と造ってみたSAKEは、「そんなに売れないだろう」という予想に反して、Arizona Sakeの人気商品となります。
フラッグシップ酒の「Nama」で感じたミルキーな甘さが抑えられて、ほのかにハーブが香る「Navajo Tea SAKE」。「Nama」に比べて、口当たりがまろやかな印象です。
アリゾナの自然と伝統のエッセンスが詰まったクラフトSAKEについて、「これがアリゾナの人々にとって友達に自慢できるような酒になってくれたら」と、櫻井さんは考えています。
指名買いが入るほどの人気の「Arizona Sake」
アリゾナ州ホルブルックの人は、「Arizona Sake」をどのように受け入れているのでしょうか。
街にある酒屋のひとつ「West End Liquor Store」は、1954年オープンという歴史ある店。店内にはさまざまなアルコール飲料がずらりと並んでいます。もちろん冷蔵ケースには「Arizona Sake」がありました。
オーナーのポールさんによれば、地元の人たちはもとより、ヨーロッパやオーストラリアなどからの観光客も、インターネットで調べて「Arizona Sake」を指名買いに来るのだそう。
また、ホルブルックから車で3時間ほどの距離にあるスコッツデールという街には、リタイアメントコミュニティ(アクティブシニアのための街)があり、そこからやってきて「Arizona Sake」をケース買いをしていく人も多いのだとか。
「特に『Navajo Tea Sake』は、口当たりがよく飲みやすいので人気があります。在庫があるかどうか電話で問い合わせてくる人もいるんですよ」と、ポールさんは「Arizona Sake」の人気ぶりを話してくれました。
「Arizona Sake」のすぐ近くにあるバー「Empty Pockets Saloon」には、夕方になるとなじみの顔が集まります。
夕方いつも決まった時間にバーに現れるオーナーのボブさんは、「Arizona Sakeはおいしいね」と櫻井さんのSAKE造りを応援している一人です。バーでは、ビールやスピリッツを飲むお客さんが多いですが、メニューにはしっかりと「Arizona Sake」が並んでいました。
冒頭に紹介した“Sake Guy”は、ここに遊びに来ていたスティーブさんが教えてくれたエピソードです。スティーブさんは、蔵人として櫻井さんのSAKE造りを手伝っている一人。取材中、「自宅で飼っている山羊の乳でチーズを作って、Arizona Sakeとペアリングしたい」と櫻井さんに相談する一幕もありました。
クラフトドリンクのパイオニア的存在へ
アリゾナ州では現在、クラフト醸造家が増えているといいます。
「アリゾナに増えているマイクロブルワリーでは、ビールやスピリッツのほか、ミード(ハチミツ酒)やハードサイダー(リンゴ酒)などを造る醸造家たちが活躍しています。櫻井さんもその一人ですが、他のクラフトドリンクと競争をするのではなく、共に成長しようと考えているので、醸造家たちからも尊敬されています。『Arizona Sake』の存在は、アリゾナのクラフトドリンク事情の特徴ですし、これからの発展に欠かせないと感じています」と、地元のニュースメディア「Phoenix New Times(フェニックス・ニュータイムス)」の編集者・クリスさんが教えてくれました。
また、アガベから作られる蒸留酒・メスカルのクラフトメーカー「MEZCAL CARRENO(メスカル・コレーニョ)」のエイブルさんは、「僕たちのように州外からやってきて、アリゾナでかつてなかった新しいビジネスを始める人たちにとって『Arizona Sake』はパイオニアのような存在だね」と話します。
アリゾナのクラフト醸造家たちに少なからず影響を与えている「Arizona Sake」は、これからどのような方向に進むのでしょう。
「僕のビジネスの理念は、"MAKE PEOPLE HAPPY 人の幸せに資する"です。取り引きあるなしに関わらず、人の生きる糧となり希望をもった人生を歩んでもらえるような酒造り、ビジネスを行っていきたい。だから、事業拡大を目標とするよりは『Arizona Sake』を通じて、多くの人に喜んでもらえることを目指したい。そうすれば自ずとビジネスの成長もついてくると考えています」
櫻井さんは、さらに話を続けます。
「コロナ禍で感じたのは、市場の変動に左右されない安定した経営を目指したいということです。右肩上がりの経済で私たちが幸せになれるかというと、少々疑問が残るんです。これからクラフト醸造家のようなスモールビジネスを楽しむ人が増え、そこに価値を見出す人が多くなれば、一人一人の幸せの可能性が広がるのではないかと。僕もそこに全力で貢献したいと思っています」
SAKE造りを通して「人を幸せにしたい」。日本酒がSAKEとして海外で広まることに思いを馳せるとき、これもひとつのあり方なのかもしれません。
アリゾナ州ホルブルックで生まれ、地元のコミュニティと一緒に育っていく「Arizona Sake」が、これからアメリカのクラフト酒の世界とどのように交わっていくのか、とても楽しみです。
(取材・文:石川葉子/編集:SAKETIMES)
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