「可能性の見本市」をキーワードに、日本酒の新しい価値を提案しようとする人にフォーカスする連載「SAKEの時代を生きる」。今回は、アメリカ・ロサンゼルスを拠点に日本酒を販売するECサイト「Tippsy」の創業者・伊藤元気さんを紹介します。
日本食品を取り扱う貿易会社での経験を通して見えた課題をもとに、日本酒の事業を立ち上げた伊藤さん。急成長する事業の背景と、アメリカにおける日本酒市場の可能性についてうかがいました。
憧れからスタートした起業
伊藤さんがアメリカへ渡ったのは2009年。日本の食品を取り扱う貿易会社に転職し、ハワイへ赴任します。もともと、日本酒はまったく飲んでいなかったそうですが、現地のイベントでサンプリング用に用意されていた日本酒を試飲したとき、「こんなにおいしくて飲みやすいものだったんだ」と驚いたと言います。
日本酒の文化が浸透していたハワイで2年弱を過ごした後、ニューヨークやロサンゼルスへ赴任。そこで、アメリカ本土での日本酒の認知度の低さにショックを受けます。
「アメリカで『SAKE』と言えば、ショットで一気飲みするスピリッツのようなイメージを持っている人が多かったんです。イベントでお客さんに日本酒を注いで回ると、最初は『日本酒は飲めないよ』『あのまずいやつだろう?』というリアクションをするのに、飲んでみると、そのおいしさにびっくりしていました。貿易会社に10年間、勤めていましたが、『こんなにおいしいのに、認知度が高まらないのはなぜだろう』と疑問を感じていました」
当時、貿易会社で働きながら、南カリフォルニア大学のビジネススクールに通っていた伊藤さん。アントレプレナーシップ(起業家精神)に関する授業で、ロサンゼルスの投資家や起業家の話を聞くうちに、起業への興味が芽生えます。
「新しい事業で社会を変えようとする方々の話を聞いて、バイタリティがあってかっこいいと思っていました。最後の授業では、ベンチャーキャピタルの方々を審査員に学生たちがプレゼンを行い、資金調達できるかチャレンジする課題がありました。そのときに『Tippsy』の草案が生まれたんです」
大学の授業を通して、「可能性が低いなかでも成功した人たちは、それまでのキャリアで培った繋がりや知識をフル活用している」と学んでいました。食品業界に長く勤め、市場の課題やビジネスチャンスを目の当たりにしていたこともあり、「日本酒の事業なら、インパクトを起こせるかもしれない」と考えたのです。
ところが、先生からのフィードバックは「日本酒は市場規模が小さすぎるため、成功は厳しいのでは」という冷ややかなものだったそうです。ベンチャーキャピタルが興味を持つのは10億ドル(USD 1 billion)以上の市場で、当時、アメリカで5億ドル(USD 500 million)程度だった日本酒市場は対象外。さらに、Eコマースは、もう使い古されたビジネスモデルだとみなされていました。
にもかかわらず、伊藤さんはビジネススクールの卒業後に「Tippsy」の事業をスタートします。
「アメリカには、まだ見えていない日本酒の市場があると思ったんです。アメリカのアルコール業界には規制が多く、それが、消費者の手に入る日本酒の種類や価格に影響しています。
貿易会社に勤めていたこともあって、サプライチェーンが複雑で、良い商品に関する適切な情報が消費者に伝わらない構造が見えていました。『みんな、日本酒の魅力をまだ知らないだけで、市場規模そのものをもっと大きくできるはず』と考えていたんです」
アメリカで日本酒が広まらない理由
「アメリカは、新しい食文化に素早く順応していきます。今や、日本食はアメリカで人気の外食トップ5にランクインするほど。日本酒は寿司と一緒に提供されることが多いですが、寿司ほど詳しくは知られていません。そこに大きな可能性があると感じています」
アメリカで寿司が浸透し始めて、すでに50年以上が経つにもかかわらず、日本酒がブレイクしていないのは「情報のアクセスと物理的なアクセスにそれぞれ障壁があるから」と、伊藤さんは分析します。
まず、「情報のアクセス」は、飲み手が日本酒の情報にアクセスできる環境が整っていないことです。
「JETRO(日本貿易振興機構)の調査によれば、2018年時点で、アメリカには約1万8,000店もの日本食レストランがあります。これは、スターバックスコーヒーの全米の店舗数よりも多いんです。それなのに、『Hot Sake』への苦手意識があったり、日本酒が入ったお猪口をビールの中に落として一気飲みする『Sake Bomb』が広まってしまったり、適切に伝わっているとは言えません」
また、「物理的アクセス」は、流通や法制度が適切に整備されていないことを指します。
「大手日系商社が行う日本酒のマーケティング活動は、日系レストランに向けた展示会などに限定されています。また、酒蔵が販路を拡大しようとしても、取引のある輸入代理店1社のみにしか商品を卸せない商慣習があるため、人材や経験が乏しい酒蔵は、営業活動を輸入業者や卸売業者に頼りがちになっています。
このような課題を解決するためには、公平なプラットフォームによる情報開示と統制が必要です。適切な選択肢をより多くの消費者に届けるミッションを掲げたECサイトなら、商品の魅力を強みに事業を成長させ、これらの課題を解決できるのではないかと思ったのです」
また、ビジネススクールで唯一の日本人学生だったことも、起業の原動力になったと言います。
「日本の存在感の薄さが悔しかったんです。日本にいると、日本だけで世界が回っているような気がしますが、日本ではアメリカの大統領の発言が大きな話題になる一方で、アメリカでは日本の首相が誰かさえ、よく知られていないレベルでした。
でも、日本の技術や商品のクオリティはすばらしい。自分が誇れる日本を武器に、世界に影響を与えられるような仕事がしたいと思ったんです」
好みの日本酒を見つけやすくするためのミニボトル
「Tippsy」では、商品の説明や酒蔵の特徴のほか、味わいをイメージしやすいマトリクスやおすすめの飲用温度帯、ペアリングの例などがわかりやすく紹介されています。
「海外の人々は、SAKEのボトルを見ただけでは情報がわかりません。知識のない方々にどうやってSAKEの楽しさを発見してもらうかを試行錯誤するうちに、現在の商品ページに辿り着きました。詳しい方々には、ワインのような細かい表現のほうが伝わるかもしれませんが、ビギナーのお客さんには、酒蔵のストーリーや視覚的なマトリクスのほうがわかりやすいんです。
特に『Shop by Taste(味わいで商品を選ぶ)』のメニューから商品を探すお客さんが多いですね。好きな味わいを起点におすすめ商品がわかりやすく伝わるプラットフォームになっています」
「Tippsy」では、ミニボトル(300ml)のおまかせ詰め合わせセットのサブスクリプション(定期購入)サービス「Sake Box」を提供しています。日本酒をよく知らない人にとって、味がわからない商品をいきなり四合瓶で買うのはハードルが高いもの。300mlサイズで少量ずつお試しできるようにして、好みの銘柄を見つけやすくする仕組みです。
「『Tippsy』のお客さんの約8割は、日本酒の存在は知っているが、何を買っていいか、ひとりではわからない人たちです。『おいしかった記憶はあるけれど、購入先がわからない』『もっと知りたいが、誰に聞いたらいいかわからない』という日本酒初心者の方々が、いろいろな銘柄を知り、自分で選べるようになるまでのガイドとなるサービスが『Tippsy』です。
現在は、日本酒をよく知っている方々が購入する四合瓶の売上がメインですが、それだけではただのニッチビジネスで終わってしまいます。これからは、サブスクリプションの利用者を増やしていきたいですね」
「3ティアシステム」という規制により、州をまたぐ流通には各州ごとの卸売業者が必要となるアメリカの流通事情。Eコマースによる「Tippsy」のサービスは、アメリカ国内における複雑なサプライチェーンの解決にも貢献しています。
「私たちの取り扱い商品は、ロサンゼルスやニューヨークなどの都会に住む人にとっては特に目新しいものではないかもしれません。しかし、テキサスに住んでいる人が同じ日本酒を買おうとする場合、ロサンゼルスに届いた商品をテキサスの卸売業者に転売し、そこから小売店に卸すという過程が必要になります。
これが、各州の日本酒のラインナップや価格に影響するんです。『Tippsy』はロジスティックパートナーとの連携で全米42州で利用できます。どこで購入しても値段は変わりません。『地元では手に入らなかった日本酒が飲めてうれしい』という感想もよく聞きますよ」
熱量の高いお客さんがいてこその成長
「Tippsy」のスタートにあたって、「熱量の高いお客さんからのサポートを受けています」と話す伊藤さん。サイト内の「Community」という項目から気軽に質問や回答を投稿できるほか、facebookグループやInstagramを使って利用者との密接なコミュニケーションを図っています。
「『Tippsy』にはボランティアのアンバサダーがいて、彼らを特別なポジションに認定して、特典として会員限定のサービスに案内しています。中には厳しい人もいて、さまざまな意見をfacebookのグループページに書いて、改善すべき点を教えてくれるんですよね。
かと思えば、カスタマーサービスについてのクレームが書き込まれたときに、常連のお客さんが『普段はカスタマーサービスがとても良い。こういう聞き方をすれば、適切な答えが返ってきたんじゃないか』と、かばってくれるようなこともあるんです」
こうしたファンのコミュニティをさらに活性化し、ゆくゆくは「日本酒自体のプロモーションに使えるような組織にしたい」と意気込んでいます。お客さんのコメントやリアクションは細かく分析し、改善点としてサービスに反映させています。
「はじめは、商品ページに載せるペアリング例も、『若鶏のホワイトソース』のような具体的な料理が書かれているよりも、『魚なら何でも合います』とざっくり提示されるほうがとっつきやすいと思っていたんです。
ところが、アンケートを取ってみると、『ペアリングの例を具体的に書いてほしい』『細かいレシピを教えてほしい』という意見が多くて。これは、会社の成長とともに柔軟に変えていける部分なので、今後はレシピブックを作ったり、料理家やシェフとコラボしたりしたいと考えています」
デジタルマーケティングは単純に見えて、とても地道な作業と笑う伊藤さん。伝わりやすい商品プラットフォームを作り、堅実なブランディングを行い、お客さんとていねいにコミュニケーションする。そうした着実な努力が実を結び、コロナ禍による「家飲み」の風潮も手伝って、「Tippsy」は2020年に前年比6倍の売上を記録しました。
家飲み需要の拡大で、オンラインショッピングが急成長
新型コロナウイルス感染症の拡大防止策として、各州でロックダウンが施行されたアメリカ。レストランが大打撃を受ける一方で、外出禁止令による家飲み需要が拡大し、アルコールのオンライン市場が急激な成長を見せました。
「食品の購入は、オンラインにもっとも移行しにくいと言われていました。誰が触っているかわからないものを口に入れるのが怖いからと、なかなか進まなかったジャンルなんです。それがコロナによって一気に変わって。オンラインの快適さに気づいたらオフラインには戻れなくなりますね」
もともと、多くの資金をかけて家飲み需要を開拓しようとしていたそうですが、「やろうとしていたことがあっという間に進んだ感じです。おかげで、さらにアクセルを踏める状態ですね」と、伊藤さん。
現在はオフィスに10名以上の社員を抱えるほか、クリエイティブチーム3名がリモート環境で働いています。日本酒のエキスパートを雇用して商品やサービスのさらなる洗練を目指しながら、外部のプロフェッショナルたちとも密に連携。3月には新しいオフィスに引っ越し、昨年と比較して、倉庫も含めて約5倍の規模へ成長。今年はさらに、従業員も倍に増やしたいと意気込んでいます。
日本酒市場がこれから拡大することで「競合する企業も増えてくるのではないか」と質問してみました。
「競合のハードルを上げている自信はあります。適正な価格設定を行い、お客さんに真摯に向き合い、地道にやってきました。日本酒の魅力や酒蔵のストーリーを届けるという仕事を、たまたま小売の形でやっているだけです。
だから今後は、動画や記事などのコンテンツづくりに力を注ぎ、常に新しいものを発信していきたいです。大手Eコマース企業が数億円を投じて日本酒のサービスを作ったとしても、それに負けないような事業を構築していると自負しています」
日本で暮らす人々に「アメリカで、日本酒をワインと同じようなカテゴリーに成長させようとしている、勢いのあるスタートアップがいることが伝わればうれしい」と微笑んだ伊藤さん。勇敢なチャレンジ精神と地道でていねいな事業戦略で、この地の新たな市場を着実に切り拓いています。
(取材・文:Saki Kimura/編集:SAKETIMES)