2000年に清酒製造免許を返上した愛知県半田市の伊東合資会社(現在は伊東株式会社に社名変更)。9代目蔵元の伊東優さんは、「伊東の酒を、再び多くの人に飲んでもらいたい」との熱い想いから製造免許の再び取得し、2021年冬から酒造りを行っています。
創業の地で21年ぶりに始まった酒造りと酒蔵復活の歩みを追いました。
清酒製造免許を再取得することの難しさ
伊東合資会社の創業は、江戸時代後期、1788年(天明8年)のこと。知多半島の西側に位置する亀崎(現半田市)は水運にも恵まれて、19世紀に入ると醸造業が盛んになり、当時は30軒以上の酒蔵があったと言われています。
「敷嶋(しきしま)」を主力銘柄にした伊東合資会社は、その中でも人気を博した酒蔵です。1923年(大正12年)の旧名古屋税務監督局管内の番付では、6,179石の生産量で東の横綱の座を占めるなど、東海地区を代表する酒蔵として名を馳せていました。
しかし、オイルショック後の日本酒の需要減退を始めとする世の中の流れに苦しみ、生産規模は徐々に縮小。優さんの父で8代目の伊東良夫さんが、2000醸造年度の酒造りを最後に休業を決め、製造免許を返上します。この時、優さんはまだ中学3年でした。
「住まいと酒蔵が離れていたこともあって、酒造りを止めることへの実感が希薄でした。長男ですが家を継ぐという意識もなかったんです」
大学卒業後、就職した優さんは東京で働き始めますが、実家の今後が気になるようになり、2013年春からは異動を希望して名古屋勤務となります。
翌年の2014年10月、優さんの祖父である7代目の伊東基夫さんが他界。通夜の前夜、祖父が眠る隣で、冷蔵庫で14年間も保管されていた「敷嶋」の生酒を飲んだ優さんは、その味わいに驚きます。
「長期間経っているにも関わらず、酒の骨格が崩れてないんです。『敷嶋』の酒はこんなにおいしかったんだと、その凜とした味わいに心が震えました」
あらためて、家業のことに興味を持った優さんは、実家の経済状況を調べ始めます。すると、「収支がまったく合わず、このままだと危ない」という状況が明らかに。伊東家が代々住んでいた家屋を後世に残したいという想いを強くした優さんは、新たに事業を興すことを思い立ちます。
「とはいえ、亀崎は観光客が気軽に訪れる場所柄ではないし、家屋を改修して新たに商売を始めても、長く続けられるかどうかはわからない。かつてのような基盤を作るためには大きな軸となるものが必要で、それが200年以上続けてきた酒造りなのではないか」
そう考えた優さんは、会社員を続けながら酒造りを再開するための準備を始めます。
それまで日本酒は飲んでいたものの、酒造りについて全く知らなかった優さんは、2016年と2017年の冬に先代からの付き合いがあった山形県の鯉川酒造で約1週間の酒造りを体験します。一方で、居酒屋が主催する酒の会や日本酒イベントにも足を運び、多くの酒販店や酒蔵関係者と知り合いになります。
そうして多くの情報を得ていくなかでわかったのは、清酒の製造免許を新たに取得することが想像以上に難しいことでした。
「以前、酒造りをしていたのだから製造免許はすぐに取れるものだと思っていました。ところが、免許を取得するためには、すでに製造免許を持っている会社の株式を手に入れるしかないことを知り、とても驚きました」
そこで、会社の譲渡を検討している酒蔵の情報などを集めてみましたが、提示金額が予算を超えたり、あるいは、既存の酒蔵がある場所で酒造りを行うことが条件だったりと、「半田市で日本酒を造りたい」と考える優さんの希望に合うものはありません。
「製造免許の再取得は相当困難だと頭を抱えました」と優さんは、当時を振り返ります。
委託醸造から始まった「敷嶋」の復活
先行きは見えないものの、優さんは2018年6月にそれまで勤めていた会社を退職。その年の冬から愛知県の長珍酒造で蔵人として働き、初めて造りの期間を通しで酒造りを学びます。
翌2019年6月、東京・池袋で開かれた日本酒イベントで、神奈川県の井上酒造で杜氏として働いていた湯浅俊作さんと知り合います。
そこで湯浅さんから聞いたのは、井上酒造で株式会社ライスワインという日本酒ベンチャーのオリジナルブランド「HINEMOS(ヒネモス)」の委託醸造を行っているということでした。
「造りのすべてを任せる委託醸造では私がやりたい酒造りとは言えませんが、自分がその蔵に行って酒造りに参加できるのであれば、それも選択肢になる」と考えた優さんは、翌月には井上酒造に足を運び、委託醸造の仕組みを学びます。「敷嶋」の復活がおぼろげながら見えてきました。
次の課題は「どの蔵に委託醸造を頼むか」です。優さんは迷うことなく、三重県名張市の福持酒造場を選びました。
「天下錦」という銘柄を醸している福持酒造場 蔵元の羽根清治郎さんは、福持酒造場の先代蔵元である福持博文さんの姪の息子にあたる人物。羽根さんは、大学卒業後にシステムエンジニアとして働き、2015年に後継者がいなかった酒蔵を継いだという、優さんと似たような境遇の持ち主です。
「羽根さんから酒蔵を毎年少しずつ改善していく話をお聞きし、ゼロから酒蔵を立ち上げる自分にとって、とても勉強になると感じていました。酒造りの全行程を学ぶことができるし、販売や経営面でも参考になることが多いはず」
そう考えた優さんは、小田原に足を運んだ5日後には羽根さんに委託醸造の依頼をしていました。
「似たような境遇の若者が自分を頼ってくれることが純粋にうれしかったんです。私の蔵の人手も足りなかったので、その点でも助かりました。二つ返事でOKしましたよ」と、羽根さんは当時を回顧します。
こうして2019年の造りから福持酒造場で「敷嶋」の酒造りが始まりました。
優さんは、福持酒造場の甑起こし(造り開始)から蔵人として酒造りを手伝い、2020年2月初めから「敷嶋」の仕込みを行います。福持酒造場のその冬に仕込む10本のタンクのうち、「敷嶋」は1本分です。
委託醸造の仕込みで使うのは自力で調達した総米500キロ。「お米のうまみを出したかった」ため、福持酒造場では普段使わない協会9号酵母と麹菌を使って挑みました。3月15日に無事に上槽を迎え、搾り機の槽口から流れてくるお酒を試飲した優さんは、「無事にお酒になってくれてほっとしました」と、19年ぶりの「敷嶋」復活の瞬間を振り返ります。
創業の地・亀崎で酒造りを再開することを見据えて、この時できたお酒には「敷嶋 0歩目」と命名します。
あらかじめ酒類販売業免許を取得し、福持酒造場で造った「敷嶋 0歩目」を自身で仕入れて、これを他の酒販店に卸すスタイルで販売を開始しました。最初の取引先店舗は4軒。発売後まもなくSNSで話題となり、あっという間に完売します。
「高校の先輩が電話で『本当にうまい』と言ってくれたことが、最初に聞いた感想です。それが今でも忘れられません。おいしいと言われることが、こんなにうれしいとは思いませんでした。酒蔵を復活させるモチベーションがより一層高まりました」
ご縁の繋がりで実現した創業の地での酒造り
一方で、清酒製造免許取得の交渉は難航します。有望な案件が頓挫して気落ちしていたという2020年9月、徳原宏樹さんという男性が優さんのもとを訪れました。
話を聞くと、将来、酒販店を開業しようと考えているとのこと。「東京の飲食店で飲んだ『敷嶋 0歩目』がおいしかったので、酒蔵を開業した暁には取り扱わせて欲しい」という依頼でした。優さんが正直に「まだ製造免許を取得できる見通しがたっていない」ことを告げると、なんと、徳原さんは一緒に製造免許を探してくれたのです。
10月になり、徳原さんから1本の電話がかかってきました。
「関東地方に製造免許を譲ってもいいという酒蔵があるのですが、買いませんか?」
優さんにとっては想像もしていない驚きの展開です。税務署に相談してみると、適切な手続きを踏めば製造免許を愛知へ移すことも問題ないとのこと。譲渡の交渉は、その酒蔵の株式を取得する形で話が順調に進みます。
株式譲渡契約や会社分割、売却した蔵の建物の買い戻しなど、「今まで経験したことのないことばかりで大変でした」と、優さん。
それと並行して、福持酒造場での2年目となる酒造りも進み、「敷嶋 半歩目」の完成とともに、2021年3月に創業の地での酒造りの再開が決まりました。
かつての銘酒「敷嶋」の知名度を取り戻すことを目指して、醸造規模の最終目標を700石程度に設定。2021年4月になってから、建物の改修と醸造設備の導入に着手します。
10キロ単位で米を洗える最新式の洗米機、特注の酒母タンクと仕込み用のサーマルタンク、空調設備が整った部屋に設置された搾り機、最新の火入れラインと瓶詰めライン、5度とマイナス5度の貯蔵庫と、設備のほとんどを新品で揃えました。
2021年12月1日、晴れて製造免許の移転が認可され、12月中旬から亀崎での酒造りが開始。製造責任者は、長珍酒造で6年間の酒造りを経験した中原悠太さんが務めます。酒蔵を訪れた取材時(2022年2月)には、5本の仕込みタンクすべてに醪があり、協会9号の泡あり酵母がフツフツと旺盛な発酵を見せていました。
「銘柄として同じお酒を造るなら、何回仕込んでも同じ酒質に仕上げなければなりません。ですが、試行錯誤のなかで、それを実現するのは本当に難しいことです。他の酒蔵が当たり前に行っていることは、すごいことなんだなと改めて実感しています。でも、酒造りは毎日発見があって楽しいですね。これからもひたすら美酒を造るための努力を重ねて参ります」
優さんは、いよいよ始まった酒造りについて、気を引き締めながら話してくれました。
醸造の町・半田を世界へ
酒造りの修業をさせてくれた鯉川酒造と長珍酒造。委託醸造を快く引き受けてくれた福持酒造場の羽根さん。委託醸造の仕組みを教えてくれた株式会社ライスワインの酒井さんと井上酒造の湯浅さん。醸造1年目から「敷嶋」を応援してくれた4軒の酒販店。製造免許を譲渡してくれる酒蔵を一緒に探してくれた徳原さん。そして、現在、酒造りに情熱を注いでくれている製造責任者の中原さん。
たくさんのキーパーソンに出会い、助けられて、優さんの目指した酒蔵の復興は実現しました。
彼らに感謝しつつ、優さんは、現在の蔵に隣接している旧醸造蔵を改装して、人を呼び込める商業施設をつくったり、将来的には先代達が住んでいた母屋をリノベーションして宿泊施設にしたりするなど、早くも次の展開を考えています。
「半田は清酒だけでなく、今でも味噌や醤油、酢などを造る蔵が集積している醸造の町です。この土地の文化を広く知ってもらい、半田を日本からだけでなく、世界から注目される地域にしていくことが僕の人生の最終目標です」
何もない状態から酒造りのスタートラインに立った優さんからは、日本の食文化の一端を担う覚悟が感じられました。
(取材・文:空太郎/編集:SAKETIMES)