2019年現在、日本酒を醸す酒蔵は全国に約1,500あると言われています。しかしその一方で、平成に入ってからの30年間で廃業した蔵は、800にも上ります。それぞれの酒蔵に、それぞれの"おらがまちの酒"があったことでしょう。
「時代の変化が激しい今だからこそ、現存するすべての酒蔵に足を運び、そこにある酒と思いを、みなさんに、そして未来に届けたい」という思いから、「日本酒を醸す全ての蔵をめぐる旅」が始まりました。
福島県の酒蔵をめぐる旅の6記事目は、酒どころである会津若松に位置する3つの蔵と、会津若松から隣町の磐梯町へ移転した酒蔵をご紹介します。歴史ある造り酒屋の、紆余曲折を乗り越えてきたエピソードを追いました。
「変化を積み重ねたその先に」─ 鶴乃江酒造(会津若松市)
令和元年の秋、長年にわたる酒造りの実績を持つ福島県の杜氏に、模範となるような技術や功績を持つ人に与えられる「黄綬褒章」が授与されました。
その杜氏とは、人気銘柄の「会津中将」や「ゆり」を造る鶴乃江酒造の坂井義正さん。御年77歳の大ベテランで、卓越した技能者に贈られる「現代の名工」も受賞されている杜氏です。
そんな坂井杜氏を擁する鶴乃江酒造は、鶴ヶ城の北西部、趣のある町並みが残る七日町通りに面しています。古い建屋の酒蔵は、観光客の方も多く訪れる七日町通りの魅力のひとつです。
全国的にも人気が高い鶴乃江酒造ですが、10年ほど前までは状況がまったく異なっていたといいます。そう話すのは、統括部長の向井洋年さん。
もともと、酒蔵は奥様のご実家なのだそう。結婚後に向井さんが経営に携わるようになったのは十数年前のことでした。
「当時は、経営的に末期症状でした。結婚前に蔵で働いてたとき、給料が安すぎて辞めたことがあったのですが、むしろ『よく俺を採用したな』と思いましたね」と、笑いながら振り返ります。
厳しい経営状況に置かれつつも、「当時から坂井杜氏の造る酒はきれいな酒で、美味しかった」と向井さんは話します。
しかし、貯蔵管理の設備が整っておらず、新酒の時点では美味しかったお酒も、時間が経つと味が落ちてしまっていたのだとか。そのため、経営に携わるようになった向井さんが最初に変えたのは、貯蔵管理の部分だったといいます。
また、コンテストへの出品にも注力し、「広告宣伝費もなかったので、コンテストに出すお酒はすべて賞を取りにいくつもりでやっていました」と向井さん。その言葉通り、ここ8年間の全国新酒鑑評会で金賞を受賞し続けるという功績を収めています。
ほかにも様々な受賞歴を誇りますが、極めつけは2015年のSAKE COMPETITIONの純米大吟醸部門でグランプリを受賞したこと。少しずつ変化を積み重ね、徐々に進化をしてきた鶴乃江酒造は、その人気を確固たるものにしました。
きれいで透き通った味わいが特徴的な「会津中将」。蔵には最新の設備がそろっているかと思いきや、意外にも昔ながらの設備で造っています。
中でも、鶴乃江酒造の大きな特徴は「全量槽しぼり」。以前は全国でも主流だった槽(ふね)という設備で搾る方法ですが、手間暇がかかるため、今では全量を槽で搾る蔵は少なくなっています。
「時代に左右されてしまうけれど、トレンドばかりを追いかけることはしない」と話す向井さん。鶴乃江酒造の良さを活かしつつ、坂井杜氏をはじめとした蔵人たちの高い技量で、美味しい酒を造り続けています。
「どん底からの復活」─ 山口合名(会津若松市)
会津若松の町中にある、60坪の小さな酒蔵。この蔵では、「会津で一番」という思いが込められた銘柄「会州一(かいしゅういち)」を造っています。歴史は会津随一を誇り、1643年に創業した老舗酒蔵です。
社名は山口合名会社といい、地域の方からは銘柄と同じ「会州一」の愛称で親しまれています。今は小さな酒蔵ですが、創業以来のほとんどの期間は大きな酒蔵だったのだとか。そう教えてくれたのは、15代目蔵元の山口佳男さんです。
15年ほど前のことです。関連会社の経営破綻により、蔵を手放さなければならない状況に追い込まれました。当時の敷地は約1,600坪。山口さんは「辞めるつもりだった。覚悟はしていた」と話します。
実際に休業していた期間もあり、取引先には「辞めます」と伝えてまわったのだそう。そんなとき、蔵の跡地に建つことになった地元生協や地域の方々から、「蔵を続けてほしい」という声をいただいたといいます。
それを聞いた山口さんは、「ここで辞めるのは簡単。ご先祖にも申し訳ない」と、かつての敷地の一部で酒造りを再開することを決心。改めて取引先に「辞めるのを辞めます」と伝えたと、笑いながら当時を振り返ります。
しかし、その後も大変な日々が続きます。敷地が1,600坪から60坪になったことで、環境が一気に変わり、酒造りを一から見直さなければなりませんでした。さらに、一時休業していたことがネックとなり、以前と同じようには買ってもらえなかったといいます。
そんな状況下でも、休業前から造りを担う櫻井光治杜氏をはじめとする蔵のみなさんが努力を続け、仕込みごとにその味わいは評判になっていきました。
そして2010年。酒造りを再開してから3年目の年に、福島県の鑑評会では最高賞となる県知事賞と、全国新酒鑑評会にて金賞を受賞するという快挙を成し遂げます。
再開から十数年が経った今でも、小規模だからこそできる丁寧な酒造りと販売を続けています。かつて、広大な敷地と立派な設備で多くの量を造っていた「会州一」とは異なる姿です。
山口さんは「どん底に落ちたから、発想を変えられた」と、噛みしめるように話してくれました。続けて、「人があってこその酒造り」とも話します。
杜氏を務める櫻井さんや蔵人たちはもちろんのこと、周りで支えてくれる「人」があってこその「会州一」なのだと感じました。
「名水百選の水で醸す」─ 榮川酒造(磐梯町)
会津の東に、「宝の山」とも呼ばれる、自然豊かな美しい会津磐梯山があります。その雄大な自然からは、絶えず雪解け水が湧いており、龍ヶ沢湧水を代表とする磐梯西山麓湧水群は名水百選にも選ばれているほど。
そんな豊かで清らかな水を仕込み水として酒造りをしている酒蔵があります。磐梯山の麓に位置する榮川(えいせん)酒造です。名水百選の水で仕込みを行っている酒蔵は、日本に数軒しかないと言われています。
日本酒を造るためには、仕込み水のほかにも、洗米や浸漬、蒸かしなどの工程で多くの水を使用するので、良質な水が多量にあることは酒造りにとって恵まれた環境です。
もともと、100年以上にわたり、現在の会津若松市内で酒造りをしてきた榮川酒造。30年ほど前に蔵の移転を検討しているとき、先代の蔵元が会津周辺の各地をまわり、磐梯山の湧水に惚れ込んだのだそう。その目利きは間違いなく、移転が決まってから程なくして名水百選に選出されたといいます。
そんな榮川酒造の杜氏を務めるのは冨田真理さん。約35年ほど前、18歳のときに新卒で入社した生え抜き杜氏です。前任の塚田洋一さんは「会津杜氏会」の会長を務めるほど、会津杜氏の方々から信頼のある実力者でした。
塚田杜氏の後を引き継ぐプレッシャーもあるようですが、「前杜氏の流れを汲んで、少しでも良くしていければ。すっきり飲み飽きしない酒を造っていきたい」と、冨田杜氏は語ります。
近年、蔵全体として重きを置いているのが、磐梯町産の美山錦を使った酒造り。長野県で開発され、寒冷地に適している酒米と言われる美山錦は、会津盆地より高地で寒冷な磐梯町の気候に合っているといいます。
「磐梯で作った美山錦で全国に」と、目標を語る冨田さん。会津磐梯山の雄大な自然の恵みである水と米で造る地酒に、今後も力を入れていくようです。
「日本酒の未来のために、理想の酒造りを」─ 宮泉銘醸(会津若松市)
全国でもトップクラスの人気を誇る「冩樂」。その人気は、限定品が酒屋に並ぶと瞬く間に完売してしまうほど。
そんな「冩樂」を醸す酒蔵が宮泉銘醸です。宮泉銘醸は、会津若松を象徴する鶴ヶ城の目の前にあり、歴史と気品を感じる風格が目を引きます。
ご案内していただいたのは、専務の宮森大和さん。社長と杜氏を務める宮森義弘さんの弟にあたる方です。
さっそく木造の仕込み蔵の中を見せていただくと、その綺麗さに驚きます。整理整頓されていることはもちろん、隅々まで清潔感があり、美しさすら感じます。
木造の酒蔵はメンテナンスに大変な苦労を要するため、近年では木造ではない蔵が増えています。それでも木造にこだわる理由を伺うと、「できる限り日本文化を残してやっていきたいんです。漆喰と木という、古き良さを残していきたい」と話してくれました。
きれいな日本酒を造ろうとすると、清潔な空間で造りを行うことは基本ですが、木造の酒蔵でここまで完璧に近い空間を作り上げる努力は相当なものです。
「製造、貯蔵の環境をベストな状態にして、ずっと保つ。100%手を抜かない酒造りをする」。蔵元杜氏の指揮のもと、蔵人たちはこう心がけていると大和さんは話します。
しかし、義弘さんが蔵に戻ってきた16年ほど前まで、蔵の状況はまるで違っていました。蔵の中も汚く、造りも理想とはかけ離れていて、いつ潰れてもおかしくなかったのだそう。
そんな状況に危機感を覚えた義弘さんは、ストイックなまでに蔵の改革を進めていきます。
理想の酒造りを追求するため、先代までのやり方をすべて変えて、社長の義弘さん自らが全国各地をまわって酒販店の訪問を重ねます。ときには、酒販店をまわる軽トラックで車中泊をすることもあったのだそう。
当時は、今よりも地酒が売れないタイミングでした。弟の大和さんは、その様子を「骨身を削った地道な日々だったようです。苦労もあったし、悔しさもあったと思います」と話します。
血の滲むような努力を続けた結果、様々な品評会で賞を受賞し、地酒ファンの間で熱狂的な人気を獲得しました。
蔵のビジョンについて伺うと、「社長は業界の底上げを目指しています。もっと日本酒の地位を上げようとしている」と話す大和さん。そこに思いを馳せる背景には、社長の義弘さんが経験してきた苦労があるのでしょう。
大和さんは、「国酒である日本酒の地位を上げないと、文化そのものが終わってしまう。しっかり続いていくことが究極の命題です」とも話してくれました。
酒どころとして有名な会津であっても、酒蔵は減り続けています。しかし、強い思いで多くの危機を乗り越え、酒造りを続けている蔵が多くあることも事実です。そんな思いを抱く人がいる限り、会津の地酒の歴史は紡がれていくのだろうと感じる旅となりました。
(旅・文/立川哲之)