数多くの日本酒が存在する昨今、"日本一縁起の悪い名前のお酒"と蔵元みずからが言ってしまうほど、奇妙なお酒があります。その名も「死神」
この「死神」というお酒を醸すのは、島根県邑南町(おおなんちょう)にある加茂福酒造。広島県との県境、人口わずか1万1千人ほどの小さな町にある加茂福酒造で、なぜこのようなお酒が造られているのでしょうか。現地でお話を伺ってきました。
杜氏なしで鑑評会の金賞を目指す
蔵元である吉賀憲一郎さんは昭和60年(1985年)に蔵へ戻り、酒造りに携わるようになりました。それまでは季節雇用の杜氏に酒造りを任せていましたが、昭和63年(1988年)にその杜氏が退職してしまいます。その後数年に渡って、毎年杜氏が変わるという状況が続いていました。さらに、杜氏が年々高齢化してしまっている現状に疑問を感じた吉賀さんは、平成7年(1995年)から自分自身でお酒を造ることを決心。それ以来、蔵元を中心に4人で仕込みをしています。
杜氏に頼らない酒造りを始めたことで、周囲からは厳しい目を向けられるようになったのだそう。そこで吉賀さんは、杜氏がいなくても良いお酒が造れることを証明するために、鑑評会で金賞を獲ることを目標にします。
1年目は達成できなかったものの、2年目に石見新酒鑑評会で最優秀賞を、3年目には全国新酒鑑評会で金賞を獲得しました。以後、6年連続で金賞を受賞。当時、杜氏のいない酒蔵が金賞を受賞するのは、酒造技術のレベルが高いといわれる中国地方でもまれなことだったのだとか。
お酒はすべて、納得してから売る
鑑評会の予選で審査員を務めることもあった吉賀さん。あるとき、"鑑評会に出品するためには、多大な労力を使う"ということに疑問を感じるようになりました。
「金賞を獲れば確かにお酒は売れる。果たしてそれだけで良いのだろうか?自身で酒造りを始めて、蔵を軌道にのせるまでは金賞を受賞することが必要だった。しかし、それを追い求める必要はもうなくなったのでは?」と考え、出品酒の醸造をやめてしまいます。
さらに、蔵の高齢化問題だけでなく、流通の面でも高齢化が進んでいることにも注目し、県外への販路を開拓し始めました。開拓といっても、むやみやたらに販路を拡大していくのではなく、しっかりと顔をあわせて話をした上で、納得してもらった店とのみ取引をしてきたのだとか。
たとえば、首都圏の某有名酒販店から取引の依頼を受けたときも、最初は断ったのだそう。知人の蔵元に「〇〇という酒販店から取引の依頼がきている」と話し、自分自身でその酒販店のことを調べ上げるのです。どんな人がやっている、どんな店なのか、みずから足を運び、きちんと話をすることでお互いを理解し納得した段階で、ようやく取引を始めたのだとか。相手の酒販店も「まさか断られるとは」と思いつつ、その徹底ぶりが吉賀さんの魅力だと感じたようです。
「お酒は脇役」──食事に寄り添うお酒を目指して
加茂福酒造の生産石高は約200石。「死神」の生産石高はそのうちわずか60石です。
「死神」が最初に造られたのは、今から20年ほど前の淡麗辛口ブームの頃。「流行と真逆のお酒を造ったらおもしろいのではないか」という発想から生まれました。芳醇旨口の純米酒で、名前もおめでたいイメージとは反対の「死神」と名付けたそうです。
今回、こちらの3本を試飲させていただきました。
「ウラ死神 純米大吟醸」
反転した文字で書かれたラベルが印象的。通常の「死神」とは違い、責めの部分だけをギュッと詰めた1本です。
「加茂福 純米吟醸 無濾過生原酒」
使っている酒米は五百万石。純米吟醸ですが、純米大吟醸の「ウラ死神」よりもスッキリとした味わいになっています。吉賀さんによると酵母の働きが関係しているのだそう。
島根大学酵母HA-11は、7号酵母とアルプス酵母をかけあわせたもの。7号酵母らしいしっかりとした味わいを残しつつ、ほのかな香りが感じられ、食中酒にぴったりな仕上がりになっています。
「加茂福 完熟純米」
こちらも酒米は五百万石。燗にすると、重たすぎない程度のちょうどよいふくらみがありました。その理由を吉賀さんに聞くと、「このお酒はコハク酸の量が多いんです。燗にして、秋から冬にかけての料理に合わせたいですね。守備範囲が広いお酒です」とのこと。香り系と旨味系の中間にあるお酒でした。
吉賀さんの造るお酒には、ある共通点があります。それは、"お酒がひとり歩きせず、食事に寄り添う"ということ。吉賀さんは「お酒は脇役です」と話していました。
美味しいのはもちろん、個性も大切に
加茂福酒造では、槽による搾りを行っています。搾りに使う酒袋は、化学繊維ではなく木綿のものを使っているのだとか。
他にも、酒米と水の割合を変えて麹の発酵期間を長くすることで、通常のお酒と異なる味わいに仕上げた「古代酒」などを見せてもらいました。
この古代酒は地元の酒販店で販売されています。
お酒が美味しいというのは、もっとも重要なこと。そのために酒造りの技術を常に磨き邁進することが大切です。
他社との差別化を図るためにはどうしたらいいのか。お客さんに気に入ってもらうためにはどうしたらいいのか。そのために必要なことを吉賀さんが教えてくれました。
(文/あらたに菜穂)