近年、異業種から日本酒業界へ転職をする人が増えてきています。みなさんは、日本酒業界にどのような魅力を感じて転職を決めたのでしょうか。そして、働き始めた後には、なににやりがいを感じ、なにに苦悩しているのでしょうか。

「日本酒業界への転職の本音」は、異業種から日本酒業界への転職について、本音で語っていただく連載企画です。

今回は、世界に誇る「獺祭」で知られる旭酒造の広報・千原英梨さんにお話をうかがいました。医療業界から日本酒業界へ転職したという千原さん。「もともと日本酒が特別に好きなわけではなかった」と話す、その転職の背景に迫ります。

千原英梨さん(旭酒造株式会社/広報)

大学卒業後、外資系製薬会社でMR(Medical Representatives:医療情報担当者)として約4年間勤務。転職を考えていた際に、友人の紹介で旭酒造を知る。海外展開など新たな試みを続ける企業文化に惹かれ、2018年に旭酒造に入社。広報担当として、本社のある山口県と東京を行き来しながら、メディア取材対応からイベントの調整など、多岐にわたる業務に取り組む。

「この会社でなら、面白いことができそう」

まったくの異業種、外資系製薬会社から酒蔵へと転職を果たした千原さん。まずは前職についてうかがいました。

「MRは、医師や薬剤師の方々に対して自社の医薬品を使ってもらえるように働きかける、製薬会社と医療従事者の間に立つ情報の橋渡し役です。激務をイメージされるかもしれませんが、実際はそんなことはなく、外資系企業ということもあるのか、過度な残業に対しても厳しく管理されていました。病院の先生ありきの毎日なので、手術が終わるまで何時間も待つという大変さはありましたが、働きやすい環境だったと思います」

旭酒造株式会社 広報 千原英梨さん

千原さんが転職を考え始めたのは、MRとして4年ほど働いたころ。さまざまな業界があるなかで、どうして日本酒業界を選んだのでしょうか。

「最初から日本酒業界を目指していたわけではなく、いろいろな業界に関心を持っていました。ただ、前職では医薬品という人の生死に関わるものを扱っていたので、まったく逆のものに触れたくなったんです。コーヒー、旅行、雑貨など、いわゆる『嗜好品』ですね。なくても困らないけれど、あると生活が豊かになるもの。私自身、嗜好品を楽しむのが大好きなので、そういう業界への転職を考えていました」

獺祭 純米大吟醸45

食品を扱う企業も転職先の候補だったものの、その時は「日本酒が特別好きなわけではなかった」という千原さん。しかしある時、旭酒造との偶然の出会いが訪れます。旭酒造と仕事をしていた友人が、「人を探しているらしいよ」と担当者の名刺を渡してくれたのです。

興味を持った千原さんは、さっそく担当者に連絡します。ただ、一度は顔合わせをしたものの、当初は互いの条件が折り合わず、そのまま数ヶ月が経ちました。

「その間に、旭酒造で働く気持ちがどんどん高まっていったんです。調べてみると、新しいことへのチャレンジを続けていて、世界展開もしているし、仕事のスケールが大きい。ここでなら、『なにか面白いことができるんじゃないか』と思いました。それになにより、『獺祭』はおいしい。自分が好きなものを人におすすめできるなんて、最高じゃないですか」

旭酒造に対して強い想いを抱いた千原さんは、あらためて旭酒造にメールを送ることに。すると、今度はとんとん拍子に話が進み、社内初の広報として入社することになりました。

「当時、旭酒造にはイベント運営やメディア対応をする人がいなかったので、社内初の広報を募集していたんです。広報に限った話ではありませんが、新しい職種を未経験で始められるチャンスはなかなかありません。私自身、『手に職がほしい』と考えていたこともあり、今後のキャリアを考えた時にもいい選択になると思って、入社を決めました」

「おいしい」と感じるものを届けられる喜び

ここからは、現在のお仕事についてお聞きします。旭酒造で唯一の広報である千原さん。マスコミへの取材対応、イベントの企画や進行などがメインの仕事です。

「メディアの方をはじめ、ホテルの有名ソムリエさん、講演依頼をいただく企業の方などとやり取りをすることが多いですね。前職でも大きな病院の先生方と話していたので、度胸というか、どんな場でも堂々と振る舞うことが自然と身についていました。このあたりは前職の経験が活きていると感じます」

旭酒造株式会社 広報 千原英梨さん

しかし、前職の環境とは正反対の部分も多く、当初は戸惑うことが多かったそうです。

「数千人の外資系企業と200名ほどの家族経営の酒蔵では、まったく違う環境になるだろうと予想はしていました。ただ、いざ入社すると、想像以上にギャップは大きかったですね。経理や人事のルールが整っていなかったり、ひとりに任される仕事の幅がとても広かったり。

前職では担当業務がはっきりと分かれていて、仕事の進め方も細かく決まっていたのですが、今はそうはいきません。私の上司をポンと飛び越えて、直接、社長から電話がかかってくることもあります。肩書きは広報であるものの、"何でも屋さん"に近いかもしれません。そのため、『できることは何でもやる』という意識で働いています」

「Dassai Joel Robuchon」の外観

フランス・パリ8区にある「Dassaï Joël Robuchon」

ただ、仕事の幅が広いからこそ、転職前に抱いていた「面白いことができそう」という点については、「イメージ通りだった」と千原さんは話を続けます。

「本当に、数え切れないほど貴重な経験をさせてもらっています。『こんなに面白いことができるんだ』『挑戦ができるんだ』と日々感じています。

印象的なのは、2018年、パリに「Dassaï Joël Robuchon(獺祭・ジョエル・ロブション)」をオープンした際に、現地で"フレンチの神様"と呼ばれるジョエル・ロブション氏にお会いできたことです。入社してすぐのプロジェクトだったのでマスコミ対応の方法もよくわかっておらず、とても大変だったのですが、かけがえのない経験をさせてもらいました。酒蔵がパリに直営店を持つなんて、本当に面白いですよね。

旭酒造は歴史のある酒蔵ですが、ベンチャー企業のような一面もあるんです。イベントでもなんでも、前回と同じことをするのはありえない。常に新しいことを模索していますし、決めたらすぐに行動するスピード感があります」

また、転職する際にどうしても気になるのが、給与などの待遇面。実際にも、「前職との差はある」と話す千原さんですが、不安には思わなかったのでしょうか。

「気にならなかったといえば嘘になります。でも、それより『面白そうな仕事だな』という気持ちが勝ちました。養う家族もいませんでしたし、待遇を考えずに純粋なやりがいだけを求めて仕事を選べるのは、これが最後のチャンスかもしれないと思ったんです」

獺祭グラス

そして、その選択は間違っていなかったようです。

「医薬品は、多くが具合の悪い人のために使うもので、どうしてもマイナスからのスタートです。その点、日本酒は人をもっと楽しく幸せに、プラスの方向に導けるものだと思っています。そこが本当にやりがいになっているんです。

私、『おいしいは正義』だと思っていて。だから、自分が心から『おいしい』と感じるものを届けられることが、本当に楽しいんです。『獺祭』を飲んだ方が良い表情をしてくださると、本当にうれしいんですよね。自分でも、お酒を飲んで『やっぱりうちのお酒、おいしいな』と感じると、仕事で大変だったことも全部忘れてしまいます」

日本酒業界への転職が当たり前になるように

仕事に大きなやりがいを感じている千原さん。ただ、業界として改善すべき点もまだまだあるといいます。

「給与面をはじめ、待遇の向上は日本酒業界全体に共通する課題です。それから、女性の蔵人も増やしていきたいですね。旭酒造では、2022年4月に、会社として初めての女性蔵人がひとり入社したところなんです」

旭酒造株式会社

旭酒造は、2022年2月に「5年で平均基本給2倍」を掲げ、製造部の大卒新入社員の初任給を大幅に引き上げると発表しました。伝統産業である日本酒業界の「働きづらい」というイメージや抵抗感を払拭するべく、変革の真っ最中です。

「日本酒業界だからといって、特別なことはありません。誤解を恐れず言えば、自分に合わないと思ったら、また転職したっていいんです。転職先の候補のひとつとして、日本酒業界が選択肢に入れてもらえるようになってほしいですね。私がそうでしたが、最初から『日本酒が大好き!』というわけでなくても、『なにか面白いことができそうだから』くらいの気分で転職を考えてもいいんだと思います。入社したら、間違いなく日本酒が好きになりますから」

さらに千原さんは、「日本酒業界にはまだまだ伸びしろがある」と話します。

「日本酒業界全体では縮小していますが、そんな中でも旭酒造は売上を伸ばしていますし、海外でも日本酒はもっと盛り上がっていくと思います。そういう伸びしろを感じて、異業種から日本酒業界に転職する人が増えているのではないでしょうか」

旭酒造株式会社 広報 千原英梨さん

「日本酒って、本当に多様性にあふれたお酒だと思うんです。いろいろな造り方があって、だからこそ味わいも幅広い。『初しぼり』や『ひやおろし』など、季節で楽しみ方も変わりますよね。もちろん、"おいしい"のが一番の魅力です」

業種や待遇ではなく、「嗜好品」という軸で旭酒造と出会い、日本酒業界で働き始めた千原さん。「おいしいは正義」と楽しそうに語る姿が、とても印象的でした。

(取材・文:藪内久美子/編集:SAKETIMES)

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