世界最多の出品酒数を誇り、市販日本酒No.1を決める品評会「SAKE COMPETITION」の2019年大会で、次世代の造り手(40歳以下)を応援する若手奨励賞を受賞したのが、宮城県・萩野酒造の佐藤善之さん(37歳)です。

2006年に蔵に戻ってきた当初は、瓶詰めや出荷の担当をしていた善之さん。次第に造りに加わるようになり、時間をかけて父と兄からバトンを受け継いで、萩野酒造のお酒を進化させてきました。その軌跡を追いました。

基本に忠実な造りを愚直に続ける

仕込み中宮城県の北端、奥州街道の有壁宿(ありかべじゅく)にひっそりと佇む旧本陣。有馬川を挟んで旧本陣の対岸に萩野酒造はあります。例年なら雪に覆われているころですが、今年は雪がなく、取材時は春を感じさせるような暖かさでした。

そんな暖冬の中、東日本大震災後に新築された酒蔵の仕込み部屋では、善之さんが2人の蔵人と一緒に純米大吟醸の掛米を仕込みタンクに投入する作業に取り組んでいました。重い掛米をこぼさないように2人がかりでタンクに投入すると、ただちに1人が櫂入れをします。これを繰り返し、最後に冷水を投入して作業は終わり。善之さんは次の作業について細かく指示を出していました。

「今年は米がどうしようもなく硬くて、苦労しています。毎年1年生の気持ちで造りに臨んでいますが、今回はさらに気分を引き締めて、基本に忠実な造りを心がけています」と善之さんは話します。

佐藤善之さん

萩野酒造の酒造りのモットーは「衛生醸造」です。人間が一番の汚染源との考え方を基本に、徹底的な手洗いを励行。水が冷たいと手洗いが不十分になる恐れがあるので、どこでも温水が出るようにしているほど。素手で米の温度や感触を確認することもありますが、それ以外で米を触る時はビニール手袋を着用します。

麹の温度は遠隔で監視し、麹室の出入りを必要最小限にするという徹底ぶり。道具や布類、作業着などは、それぞれのメーカーが推奨する洗剤を使い、別々にこまめに洗浄。搾り機は冷蔵庫の中に収容して、搾り板には絶対にカビを生やさせない仕組みです。

このような工夫の積み重ねで、マイナスとなる要因をすべて排除することで、ピュアな米の味わいを表現しているそうです。

「酒造りのなんたるかを理解できてなかった」

賞とお酒

善之さんが萩野酒造に戻ってきたのは14年前のこと。

「酒蔵の家に生まれたというものの、兄もいますし、蔵の酒造りも細々としたもので、酒蔵の仕事をやるという意識はなく、幼いころは祖母が作ってくれる酒饅頭を楽しみにしていただけでした」

大学卒業後は、酒造りとは無縁の会社で働いていましたが、ちょうど転職を考えていたころに、母から「蔵に戻ってきたら」と声をかけられ、ひとまず帰ることにしたのです。

萩野酒造は冬季に南部杜氏を迎えて、酒造りをする体制を取っていましたが、少しずつ蔵元と蔵人だけで造る体制に切り替える準備を進めていました。

善之さんが蔵に戻った2006年の秋からは、父と兄の曜平さんが杜氏となり酒造りが始まります。善之さんに与えられたのは、お酒を搾った後の瓶詰め、火入れ、貯蔵、出荷などの仕事でした。

「別に不満はありませんでした。むしろ、この下工程の管理次第で、お酒の評判が大きく左右することを早い時期に知ることができて、後々役立ちました。冬の一番忙しい時期には酒造りの手伝いもしていましたが、最初は酒造りのなんたるかをまったく理解できていませんでした」と、善之さんは当時を振り返ります。

佐藤善之さん麹室

転機となったのは2011年の東日本大震災。壊滅的な被害を受けた東北地方の酒蔵を支援しようと、全国各地で東北の日本酒を飲んで応援するイベントが開催されました。そこに蔵元が呼ばれるケースが増え、萩野酒造の蔵元である兄の曜平さんは、さまざまなイベントに参加するようになります。

一緒に応援に出かけた善之さんは、全国各地の銘酒を飲む機会が多くなり、「こんな味わいの酒もあるのか」「どうするとこのような味わいの酒ができるのか」など、酒造りへの興味がむくむくと湧き上がるようになっていきました。

教本を片手に酒造りの腕を磨く日々

佐藤善之さん蔵には何でも聞ける酒造りのベテランがいないため、善之さんは日本醸造協会が発行している酒造講本を常に携帯しながら酒造りに取り組みました。そうして、徐々に知識を増やしていった善之さんは、外出する兄の曜平さんに「あとは任せてくれて大丈夫」と言えるまでに成長します。

そのとき、曜平さんから示されたのは、3つのルールです。

「醪前半のボーメ(清酒の比重を表す数値)とアルコール度数の変化をきっちり把握すること」
「醪の高泡の時に追い水をしすぎないこと」
「醪の後半に酵母の発酵が止まらないよう、急に温度を下げすぎないこと」

この原則を守りつつ、宮城県が主催する研修会に参加したり、同じ県内の酒蔵に勤めているベテラン杜氏や先生方に教えていただきながら、少しずつ腕を磨いていきました。

SAKECOMPETITION

実は、兄の曜平さんから「今季からお前が杜氏だ」と言われたことはないそうです。ですが、全国新酒鑑評会に出品するお酒について技術センターの先生からアドバイスをもらうために杜氏が集まる、毎年3月に開かれる製造技術研究会には、2015年ごろから善之さんが参加するようになりました。

これが実質的な杜氏の交代だったようです。今では、新しい限定企画のお酒を除き、定番酒の造りを完全に任せてもらっています。

他の蔵から声がかかるくらいの杜氏になる

お酒

「SAKE COMPETITION」の受賞について、善之さんは、笑顔を見せながらこう振り返ります。

「多数のコンペの中で最も華やかなものなので、GOLD(各部門の上位10位)には一度でいいから入りたいと願っていました。発表の日は兄が参加する予定でしたが、私も仕事が急に空いたので、朝、新幹線に飛び乗り会場に向かい、結果発表を待ちました。そうしたら純米大吟醸の部門で3位に入賞。あわせて若手奨励賞も受賞することができました。表彰状は兄が代わりに受け取ったのですが、惜しいことをしたと後悔しています」

兄の曜平社長

兄の曜平社長

「萩の鶴 純米大吟醸 中取り」が3位入賞したことについてたずねると、「香りが華やか過ぎず、味の膨らみと柔らかさがうまく表現できました。味のピークがうまい具合に審査のタイミングとマッチしたのだと思います。運も味方しなければ上位にはいけませんね」と淡々と喜びを語っていました。

萩野酒造会社の方と

若手ナンバーワンの杜氏として認められたことについて、善之さんは次のように語っています。

「たまたま若手の中で一番になれただけで、まだまだ未熟者です。味を出したくないのに出てしまうこともあるし、甘い部分も残っています。こうした課題を蔵人と一致団結して解決し、消費者のみなさんだけでなく、同業の杜氏さんから後ろ指を差されないようきっちりとした酒を造りたいですね。他の酒蔵の蔵元から『ぜひ、うちで杜氏として酒造りをしてくれないか』と冗談を言われるぐらいのレベルになるのが当面の目標です(笑)」。

善之さんが杜氏として造りを引っ張る、萩野酒造のお酒はまだまだ進化を続けそうです。

(取材・文/空太郎)

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