三重県の元坂酒造が、2021年9月にリリースした新ブランド「KINO/帰農」(きの)は、自社栽培した酒米「伊勢錦」を生酛造りで醸す日本酒です。
1805年に創業し、これまで「酒屋八兵衛」を看板銘柄として掲げて酒造りをしてきた元坂酒造は、なぜ、このタイミングで新しいブランドを立ち上げたのでしょうか。また、「KINO/帰農」という印象的な名前には、どのような意味が込められているのでしょうか。
三重県多気郡大台町にある酒蔵を訪れ、専務取締役の元坂新平さんにお話を聞きました。
「伊勢錦」のありのままを表現した新ブランド
元坂酒造の新ブランド「KINO/帰農」は、「自社栽培した酒米・伊勢錦(いせにしき)を使い、生酛造りで醸すこと」と定義としています。
山田錦のルーツのひとつであるといわれている「伊勢錦」。三重県の旧勢和村(現在の多気町)で誕生し、かつては近畿地方を中心に酒造りに使われていましたが、改良品種に淘汰され、戦後間もなく生産が途絶えてしまいます。それを1989年に復活させたのが元坂酒造でした。
「伊勢錦は、自社で復活栽培したという背景から、弊社では大切にしているアイデンティティのひとつです。現在は、三重県内では『るみこの酒』の森喜酒造さんと『天遊琳』のタカハシ酒造さん、そして、奈良県の『篠峯』の千代酒造さんが弊社をルーツとする伊勢錦を使って酒造りをしています」
この土地で生まれ、地域の歴史とともに育った伊勢錦の遺伝子を大切にしたい。
そんな想いを抱く元坂さんは、代表取締役である、父・新さんの立ち上げた銘柄「酒屋八兵衛」を受け継ぎながらも、次第に「伊勢錦の可能性は『酒屋八兵衛』という枠のなかだけで完結してしまっていいのだろうか?」と考え始めたといいます。
「『酒屋八兵衛』は、父が30年以上にわたって携わってきた銘柄。良くも悪くも色がついているので、我々は"八兵衛らしさ"を意識して造りますし、飲んでいただくお客さんも、"八兵衛らしさ"を感じながら飲んでいただいています。
私は先代のつくったブランドを引き継ぐ世代を『銘柄二世』と呼んでいるんですが、銘柄二世として、『酒屋八兵衛』を続けていくためには新しいことには挑戦しないほうが良いと思っていました。
しかし、自分の手で伊勢錦を育てているうちに、伊勢錦が『酒屋八兵衛』の中に収まってしまっているのも、伊勢錦が『酒屋八兵衛』を上回ってしまうのも、伊勢錦で造る日本酒の表現としてはどちらも不十分だと感じるようになったんです」
伊勢錦の可能性、そして自身の日本酒への課題意識を解決するためのプラットフォームとして、「酒屋八兵衛」とは別のブランドを立ち上げる必要を感じたという元坂さん。
もともとDJとして東京で音楽活動をしていた元坂さんは、伊勢錦を使った酒造りの長所を、音楽の用語になぞらえて「エフェクトがない(加工せずにありのままの音を使うこと)」と表現します。
「酒造りをするときに、『山田錦は優等生』『雄町は個性的』といった酒米の特徴から原料米を選ぶことは、"エフェクト"だと思っています。日本酒は、その土地の個性が表現された多様なものであるべきなのに、人間の思惑が入るとひとつの価値観ばかりに集約してしまって多様性を排除することになってしまう。
本来、日本人は日本酒を造るために米を育ててきたわけではなく、『米を育てる』という稲作の文化が先にあったからこそ、日本酒を造ることができました。そういう意味で、この伊勢という土地で行う酒造りの原料として、伊勢錦を超えるものはないと信じています」
「全ての産業は農に帰す」
そんな新ブランド「KINO/帰農」のコンセプトは、「全ての産業は農に帰す」。日本酒を通して、酒販店や酒蔵を超え、その背景にある農村を想起させるブランドを目指しています。
「『文化』を表す英語の『culture(カルチャー)』という単語は、『耕す』を意味するラテン語の『colere(コーレレ)』が語源です。日本酒という文化も米作りがなければ生まれませんでした。それが今、農業という産業が大きなダメージを受けていて、存続の危機にさらされています」
「酒造りとは、本来、米農家を支え、プロデュースできる仕事」と、元坂さんは主張します。
「たとえば、誰もが知っている大手チェーンの寿司屋や牛丼屋は大量の米を購入していますが、米そのものの価値よりも価格が優先され、とにかく安く売り、安く買うという産業構造によって米農家が疲弊しているのが現状です。
かたや酒蔵は、購入した米で日本酒を造り、付加価値をのせて、それを世界に向けて売ることができるんです。米農家の仕事の価値を高めて、彼らに利益を還元することができる酒造りは、日本の農村を未来に残していくことができる仕事だと考えています」
日本酒を通して、米を、そして日本の農業を見てほしい。そんな想いが込められた「KINO/帰農」のラベルには、精米歩合や製法などのスペック情報が必要最低限しか書いてありません。
「『これは珍しい酒なんだ』という酒販店レベルの情報や、純米かアル添か、生酛か速醸かという酒蔵レベルの情報でストップしてしまい、消費者の目が、その先にある農業まで届いていないというのが日本酒消費の現状です。
どのような田んぼで、どのような米作りで、どういう人が育てた米なのか。私たち酒蔵が余計な情報を取り去ることで、お客さんにまっさらな気持ちで農業を想起してもらえる酒を造ろうと思ったんです」
スペック情報が書かれていない商品は、酒販店や消費者にとっては手に取りにくいかもしれません。しかし、元坂さんは「結果的に売れてほしいとは思うけれど、"セルアウト"(音楽業界の用語で、曲が売れるように、わざとマス向けの曲を作ること)はしたくない。ヒップホップでいうところの『売れるために曲を作るのはダサい』という感覚です」と、そのコンセプトを説明します。
「とにかく、一分の隙もない米作りに直結した日本酒を造ろうと思ったんです。現行の高級ラインの日本酒には夜を意識させるラグジュアリーなラベルが多いので、反対に、日の光に照らされた田んぼをイメージしたスポーティブなデザインにしました。
スペックが書いてあったり、わかりやすい高級感を押し出してしまったりすると、上っ面のコミュニケーションばかりになってしまう。酒を飲む前の情報で議論するのではなく、飲んでもらってからコミュニケーションが始まればいいと思っています」
有機栽培も慣行栽培も、どちらも大きな「農」の営み
ラベルには明記されていませんが、2021年9月にリリースされた「KINO/帰農」の第1弾は、元坂さん自身が自社田で育てた無農薬・無施肥の伊勢錦を使用しています。
伊勢錦の可能性を日本酒で表現するために、「できるだけ人間が介在しない環境で米を育ててみたい」と考えた元坂さん。3年前に、実験的に1枚の小さな田んぼで、耕さない・水を張らないという超ハードコアな農法に挑戦してみたのだそう。
「不耕起乾田という、自然に生えているような状況で米を育てる農法があるんですが、やってみたら、どれが米でどれが他の植物かという区別もつかないほど。これでは絶対に商売にはならないだろうと、さすがに諦めました(笑)。
そこからは、もう少し自分たちの手足になじむ方法があるんじゃないかと考えて、機械を使っていい、水を張っていい、耕してもいい、と自主規制を撤廃していきました。その結果たどり着いたのが、無農薬・無施肥だったんです。合理性とロマンのバランスをうまくとりながら、できる限り自然な営みを再構築した結果ですね」
そんなハードな農法にチャレンジできたのは、「知り合いの米農家の方から、有機農法で育てた野菜とそれ以外の野菜の違いを教えてもらったのがきっかけ」といいます。
「大根を生でかじれば、その甘味だけで何の肥料で育てられたかがわかると聞いて、それが酒造りでもできたらおもしろいだろうと思ったんです。現代は、工場で作られたバランスの良い肥料を当たり前のようにあげていますけど、肥料を与えず、土に含まれる有機物だけを養分として育った米は、まさに"その土地の味"がするんじゃないかと。
伊勢錦が生まれた1800年代当時の稲作は農薬も化学肥料も使っていなかったはずなので、まずはその時代のやり方まで時間を戻してみようと思ったんです」
一方で、「KINO/帰農」のブランドの定義に、「無農薬・無施肥」は含まれていません。2022年4月に発売される第2弾の商品は、慣行栽培で育てたお米を使っています。
この選択には「酒蔵が無農薬に価値を持たせすぎる風潮が、結果的に米農家を苦しめる可能性がある」という元坂さんの危機感が現れています。
「日本酒の製法でも、速醸と生酛が並んだときに、なんとなく生酛のほうが手が込んでいて価値があるような風潮になっているように感じています。同じように、無農薬の米がたくさん使われるようになると、農薬を使っていることに引け目を感じてしまう米農家さんが出てくると思うんです。でも、米農家は何も悪くないですよね。
農薬を使うこと自体は悪いことではありません。農薬がなければ現在のような農業の発展はありませんでしたから。もちろん、かかるコストが違うから米の価格設定は変わりますが、無農薬栽培と慣行栽培の間にあるのは差別ではなく、ただ『違う』という区別だけです。
酒蔵の想いだけで無農薬の米を持ち上げすぎると、農業に過剰な負担を強いてしまう可能性があります。無農薬の米で日本酒を造るなら、それと等しい価値観で慣行栽培の日本酒を造ることも、米加工業としての酒蔵の責任だと思っています」
有機栽培も慣行栽培も、大きな「農」の営みとして受け入れ、発信していく。それは、自社田で自分の手を動かして米作りを経験してきた元坂さんだからこその価値観でもあります。
「私が好きな作者不詳の短歌で、『この秋は 雨か風か 知らぬども 夏の勤めの 田草取るなり』というものがあります。この秋に、台風や嵐ですべて台無しになるかもしれないけど、今やらなければならないことだから、今日も雑草を抜くんだという歌。草を抜くということが、必ずしも秋の豊作に直結しないことをわかっていても、手を抜かずに農業に向かい合うという意味です。
農業をやっていると、自然の大きな力の中では、人間の選択肢は本当に小さなことだと痛感します。何をやっても人間が考えるような結果が必ず得られるとは限りません。
無農薬・無施肥というレギュレーションも含めて、何が最適なのかを見極めながら試行錯誤しているうちに、どこかのタイミングで田んぼが勝手に自分たちの生態系を育んでいくようになるのかもしれません」
より人間が介在しない製法としての「山廃造り」
これまで「酒屋八兵衛」の銘柄では山廃造りにこだわってきた元坂酒造ですが、「KINO/帰農」では生酛造りに挑戦しています。
生酛を選んだ理由として、まずシンプルに「やってみたかった」と話す元坂さん。
そして、「生酛や山廃は自然の乳酸菌を取り入れる製法ですが、酛摺り(もとすり/櫂棒で米と麹をすり潰す行為)をしない山廃造りのほうが、より人間が介在しない製法だと感じています。生酛のほうが、人間の意思を反映できるんですよね」と続けます。
「酛摺りの最中は、人間と自然が溶け合う瞬間なんですよ。山廃はその工程がないぶん、米の性質や微生物により委ねることになる。米作りから関わっていると、酛摺りは米を酒にする行為なんだと痛感します。摺れば摺るほど、米や麹が溶け合って、酒になっていく。『酒、造っているなぁ』と、すごく実感できる工程です」
酒造りを通して、人間が自然の営みの一部になる。それこそが、「ワインの『テロワール』に代わる日本酒の機能ではないか」と元坂さんは考察します。
ワインにとっての「テロワール」とは、気象条件や土壌、地形、標高などブドウ畑を取り巻くすべての環境が、ワインの仕上がりにつながるという考え方です。
「日本酒の場合、毎年田んぼの水は入れ替わるし、土壌成分も変わるし、米を精米したり蒸したりする過程で、ワインのテロワールの意味するところからは変わってしまいます。
日本酒の場合は、テロワールではなく、『営み』という言葉がふさわしいのではないでしょうか。米を育てるという農の営みや、それを酒に変えようという人間の意志からどんな酒が生まれるかという工程が、ワインにとってのテロワールと同じように機能していると思うんです」
ワインと日本酒を比較するとき、ブドウの出来によって味わいが左右されるワインはより農業的であり、人間の手があらゆる工程で加わる日本酒を工業的だとする考え方があります。
そんな認識の中で、日本酒を通して「農業」を表現することにはどのようなチャレンジがあるのでしょうか。
「ワインはいつも鮮やかな色彩を見せてくれるし、どれを飲んでも感動できる素晴らしい液体です。感動できる液体を造ろうと思ったときに、ワインから得られるヒントはたくさんあります」と、ワインを評価する元坂さん。
「でも、ワインと日本酒は似て非なるもの。日本酒は造りの中に人が介在するけれど、工業的かと言われるとそれは違うはず。人間と自然が溶け合う営みを含めた『農』を、『KINO/帰農』で表現できればと思っています」
自然と共存する酒蔵として、元坂酒造が新たに立ち上げた銘柄「KINO/帰農」。農村の風景を描いたラベルに包まれた日本酒が、米作りのストーリーと、「全ての産業は農に帰す」というメッセージを伝えます。
(取材・文:Saki Kimura/編集:SAKETIMES)