こんにちは!SAKETIMESライターの梅山紗季です。

昨月から、読書の秋にちなんで日本酒の登場する文学作品を作家ごとに紹介しています。
第1弾は「吾輩は猫である」などで有名な夏目漱石、第2弾では、医師と作家の2つの顔を持っていた森鴎外の作品の中から、「お酒」にまつわる表現を取り上げてきました。
第3弾となる今回は、少し時代を進め、昭和時代初期に活躍した太宰治の作品の「お酒」を見て行こうと思います。夏目漱石・森鴎外と同じく、ファンの方も多い作家のひとりであるだけに、「お酒」という、普段とは違う視点から作品を読むことによって、太宰治を好きな方も、まだ読んだことのない方も、新たな切り口での読書へとつなげていただけたらと思います。
また、太宰治という作家は、先の二人に比べ「酒飲み」の要素の強い人であることがうかがい知れました。泥酔、酔狂といった言葉も似合ってしまう太宰治の小説の中での「酒」の表現、ぜひ、皆さまのお気に入りの一杯をご用意して、お酒を飲みながら読み進めていただければと思います。

有名な書き出しを支えるこまやかな描写―「人間失格」

はじめにご紹介するのは、1948年に発表された「人間失格」です。「恥の多い生涯を送って来ました」という手記の書き出しが有名であり、太宰治の代表作のひとつであるこの「人間失格」。映画化やドラマ化もされ、今なお愛読者の多い作品です。

「人間失格」の大庭葉蔵という主人公は、人と上手に関係を築けず、お酒や煙草に染まっていきます。そのため、「人間失格」の中で語られるお酒は、比較的、現実逃避や陶酔の力を持ったものとして描かれます。
しかし、今回「人間失格」の中でご紹介したいのは、主人公の大庭が、主人公の身元保証人を担う古物商・通称ヒラメに酒を注がれる一場面です。

「自分を階下の珍らしくお銚子など附いている食卓に招いて、ヒラメならぬマグロの刺身に、ごちそうの主人みずから感服し、賞讃し、ぼんやりしている居候にも少しくお酒をすすめ、『どうするつもりなんです、いったい、これから』
自分はそれに答えず、卓上の皿から畳鰯をつまみ上げ、その小魚たちの銀の眼玉を眺めていたら、酔いがほのぼの発して来て、遊び廻っていた頃がなつかしく(中略)つくづく『自由』が欲しくなり、ふっと、かぼそく泣きそうになりました。」

作品全体の中でこの場面は、大きな役割を果たすわけではありません。ただ、他の場面に登場する「お酒」に比べこの場面は、まるでお銚子と猪口がぶつかる音や、畳鰯の匂いまで、読者に思い起こさせてしまう描写の鋭さを持っています。こちらの五感に揺さぶりをかけてくる描写があることで、他の場面での主義や考えがよりいっそう際立っているように見えます。

太宰治の考える「ヤケ酒」―「桜桃」

次にご紹介するのは、「人間失格」と同じ1948年に発表された「桜桃」という作品です。太宰治の命日が「桜桃忌」と名づけられていることもあり、亡くなる間際の心情を知ることができる点でも、価値の高い一作です。主人公は、子供二人を抱える作家とその妻。この作家である夫というのが、酒と女遊びが好きな一方、気の弱い一面を持った人として描かれています。自分自身が作品に強く投影されている、というのは太宰治の後期作品に色濃く見られる特徴とされていますが、この「桜桃」もその1つです。この作品でご紹介したいのは、どうして「ヤケ酒」を飲むのか、を夫が語る場面です。

「もともと、あまりたくさん書ける小説家では無いのである。極端な小心者なのである。それが公衆の面前に引き出され、へどもどしながら書いているのである。
書くのがつらくて、ヤケ酒に救いを求める。ヤケ酒というのは、自分の思っていることを主張できない、もどっかしさ、いまいましさで飲む酒の事である。
いつでも、自分の思っていることをハッキリ主張できるひとは、ヤケ酒なんか飲まない。(女に酒飲みの少いのは、この理由からである)」

私からすると、この表現はなかなか耳が痛い……のですが、なるほど確かに「ヤケ酒」を飲むのは、自分の中にもどかしさを抱えている時が多いように思われます。作家というのが太宰治自身を強く映しているため、ここで語られる「ヤケ酒」についての考えというのは、太宰治の考える「ヤケ酒」であることがわかります。また、1948年に発表され、表現が時代を映していることから、戦後という時代の寂寞や喪失感も感じ取ることができます。
ここまで「ヤケ酒」について痛切に定義をした小説も、そう多くはないでしょう。

酒場の思想を小説にあらわす―「斜陽」

最後にご紹介するのは、「人間失格」「桜桃」の前年、1947年に発表された「斜陽」です。この作品も、太宰治の代表作のひとつとして挙げられることが多いです。また、時代を痛切に批判した小説の姿勢から、「斜陽族」という流行語を生みだしてしまうほど、当時、人々に衝撃を与え、影響を及ぼした作品でもあります。

没落貴族の一生を描いたこの作品の中で、時代の汚さに耐えかねて自ら命を絶ってしまう弟・直治が姉のかず子に向けて書いた遺書の中に、今回ご紹介する「お酒」の表現はあります。

人間は、みな、同じものだ。これは、いったい、思想でしょうか。
僕はこの不思議な言葉を発明したひとは、宗教家でも哲学者でも芸術家でも無いように思います
民衆の酒場からわいて出た言葉です。

「斜陽」の遺書の中では、この「人間は、みな、同じものだ」という言葉は、「誰が言い出したともなく、もくもく湧いて出て、全世界を覆い、世界を気まずいものにしました。」と書かれています。民主主義や、マルキシズムといった、当時流布していた思想をとりあげ、その遺書はこう続けられています。

「思想でも何でも、ありゃしないんです。けれども、その酒場のやきもちの怒声が、へんに思想めいた顔つきをして民衆のあいだを練り歩き、民主主義ともマルキシズムとも全然、無関係の言葉の筈なのに、いつのまにやら、その政治思想や経済思想にからみつき、奇妙に下劣なあんばいにしてしまったのです」

詩的な要素を多分に含んだ文章を、当時の世相に切りこむ形で融合させた、太宰治という人の作風がよく感じ取れる一節です。同時に、「酒場から湧いて出た」と表現することで、主義や思想の堅苦しさを、お酒をぐいっとあおるように一蹴しています。先に挙げた二作品と同様、太宰治という人の考えが「酒」を通じてよく読み取れる表現です。ここまできっぱりと表現ができるのは、太宰治自身が「酒飲み」であり、「天才」と評された才能を持っていたからだということを感じ得ません。

酒の苦さは人生の苦さ。太宰治の作品に見られる酒。

以上、太宰治の「人間失格」にはじまり、「桜桃」、「斜陽」と、「酒」にまつわる作中の表現をご紹介してまいりました。太宰治の描く酒の表現には、作家の考えや思想が色濃く感じ取れ、彼自身の美学や感性に従ってお酒を捉えていた印象があります。 夏目漱石のような描写に織り込むお酒でも、森鴎外のような日常に寄り添うお酒でもない。太宰治の描くお酒には、酒の苦さは人生の苦さだと言わんばかりの鋭さがともなわれます。そしてこれは、太宰治自身が「酒飲み」だったという事実が強く影響しているように思えます
天才、と評される太宰治の作品たちも、「お酒」という切り口から読むことにより、少し親しみやすく読める効果も生まれます。「人間失格」、「桜桃」、「斜陽」、いずれも作家を代表する作品のひとつですので、ぜひ、読書の秋に読む一冊に加えてみてください!

<参考文献>
・作家用語索引 太宰治 第3巻 1989年 教育社
・作家用語索引 太宰治 第5巻 1989年 教育社
・「人間失格」 太宰治 1948年 新潮社

(文/鈴木紗雪)

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